2009年12月22日火曜日

一箪の食、一瓢の飲

孔子の弟子は俗に3000人といわれている。
そのうち六芸に通じためぼしいものが72人。
なかでも有名なのが「孔門の十哲」と呼ばれる
飛び切りの俊秀たちだ。

よく知られているのは、中島敦の『弟子』
でも馴染みの子路や、孔子の死後、
6年間の喪に服した子貢などが挙げられる。

弟子の中でも最も高徳の士とされたのが、
孔子より30歳年少の顔回(顔淵ともいう)だろう。

《賢なる哉、回や。一箪の食、一瓢の飲、
陋巷に在り、人その憂いに堪えず、回やその
楽しみを改めず、賢なる哉、回や》

顔回はエライ。一椀のめしを食い、水筒いっぱいの水を飲み、
陋屋に住み、不平を鳴らさず、いつも楽しそうに暮らしてる。
顔回はたいしたものだ。

めったに弟子を褒めない孔子も、顔回への賞賛は
惜しまなかった。

孔子は別に《疏食(そし)を飯(くら)ひ水を飲み、肘を曲げてこれを枕とす》
などと、いわゆる〝清貧の思想〟の元祖でもあるから、
足るを知って分に安んずる顔回の暮らしぶりに、
自分を重ね合わせてもいたのだろう。

日本でいうと良寛和尚が挙げられようか。
山中孤独の草庵で、《独り奏す 没弦琴》
没弦琴とは、弦の張られていない琴だ。

他に「無孔笛」(指孔のない笛)の調べも
楽しんだというから、我ら暖衣飽食の徒には
決して聞こえることのない音だったに違いない。

「知足安分」と言うは易しで、歳を重ねても
煩悩のくびきからは容易に逃れがたい。
枯淡の境地など、夢のまた夢だ。

ああ、賢なる哉、回や!

0 件のコメント: