2014年1月28日火曜日

くたばれ反日幇間メディア!

NHKの籾井勝人(もみいかつと)新会長が頑張ってる。
25日の就任会見の中で、慰安婦問題への個人的見解として、
《今のモラルでは悪いことだが、当時の戦争地域では大体つきものだったと思う
……韓国が日本だけが強制連行したように主張するから話がややこしい。
(問題は)日韓基本条約で国際的に解決している。それをなぜ蒸し返されるのか》
と韓国の対応を批判した。(←下線のところは記者の姑息な誘導尋問に引っかかっている)

また、《尖閣諸島も竹島も日本の領土であることはハッキリしている》と強調、
国際放送での報道姿勢について《明確に日本の立場を主張するのは当然のことだ》
と述べた。

会見では、慰安婦問題や領土問題を質問した記者たちに向かって、
《(私の言ってることは)間違ってますか?》と問い返していたけど、
論理的に反論なんかできっこない。まさに正論だからだ。
ギャーギャー騒いでいるのは、例によって朝日・毎日・共同通信といった
〝反日イチャモングループ〟で、日本の国益より支那や韓国の国益を
優先する茶坊主のような連中である。

「慰安婦問題」や「尖閣・竹島問題」については、本ブログでもいやというほどふれた。
それらは膨大な資料や関連書籍から導き出した結論で、
いってみればファクト(歴史的事実)の積み重ねだ。

籾井会長も言ってるが、今日のモラルで過去の出来事を断罪してはいけない
慰安婦などと聞くと、「かわいそう」とか「卑劣」だとか、場合によっては、
「日本人であることが恥ずかしい」などと、とんちんかんな感想をもらすものが
あるが、それらすべては無知から来るもので、少しでも歴史をかじっていれば
見当違いも甚だしい、ということがよくわかる。何度も繰り返して恐縮だが、
「今日の目をもって昨日を論ずるなかれ」が歴史を論じる上での鉄則だ。

「竹島」に関していえば、戦後、連合国は日本が獲得した領土の放棄を求め、
日本はこれに従って樺太や台湾の領有権を放棄した。この際、韓国側から、
竹島の領有権も放棄させるよう連合国に要請があった。が、調査した結果、
連合国は韓国側の要請を拒否、竹島を日本固有の領土と認定した。

事態が大きく変わったのは、ボクの生まれた1952年(昭和27年)である。
時の韓国大統領・李承晩は日本海の海上に勝手に線引きをし、そのライン
の韓国側を自国の領海としたのである。「李承晩ライン」と呼ばれたこの線は、
まったくの手前勝手で、法的にもなにも、何ら根拠はない。だが、竹島はこのライン
の韓国側にあり、韓国はあの時以来、竹島を不法占拠しているのである。
そのことについては、本ブログ「厚顔無恥の国」でも詳しくふれた。

当然ながら、戦後のどさくさまぎれに勝手に引いた李承晩ラインは国際的には
認められず、その後解消されたが、韓国は武力で竹島の不法占拠を解かず、
現在も実効支配を続けている。

この不法占拠に抗議して、日本は幾度となく国際司法裁判所に付託しているが、
いかんせん相手国が応じてくれなければ法廷は成り立たない。韓国はこれまで
一度も応じることなく、この先も出てくることはないだろう。なぜか? 
出てくれば100%韓国が敗訴することが分かっているからである。

国際法も歴史的事実も無視して、武力によって他国の領土を切り取る。
こういうやり方を何と呼ぶか。「帝国主義」である。そう、韓国も支那もロシアも
21世紀にあってなお、古色蒼然たる帝国主義国家のままなのである。

その帝国主義国家のヒゲの塵を払い、一朝事あるたびに「ご注進! ご注進!」と
中韓に〝告げ口〟して回る朝日・毎日・共同通信といった反日幇間メディア
「慰安婦問題」もとどのつまりは朝日の植村隆記者が記事を捏造したことに発している。

その〝慰安婦記者〟が今年の3月、朝日新聞を早期退職し、神戸松蔭女子学院大学の
教授になるという。日本の国益を損ない、日本人の名誉と誇りを傷つけた国賊級の
ウソつき男が、女の花園でいったい何を教えようというのか。心ある学生なら、
授業をボイコットし、大学から追放するくらいの気概を見せてほしい。

護憲論者が不磨の大典と崇める日本国憲法の前文にはこうある。
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して
われらの安全と生存を保持しようと決意した》と。

餓狼のような帝国主義国家に「公正」と「信義」があろうはずもない。
こんなゴロツキ国家を信頼してわが国の安全を守るだって?
バカバカしい。このノーテンキな前文だけでも速やかに変えてくれ、
と「改憲論者」の私めは声を大にして叫んでいるのである。

支那や韓国といった〝ならず者国家〟や朝日・毎日の〝売国メディア〟を
話題にするとホトホト神経が疲れる。実はボクの住む団地にも朝日新聞の
大幹部がいる。クラ~い陰気な男で(左翼の人間って、どうしてこんなに暗いのかね)、
お近づきになりたくない男の典型だ。

安倍首相も朝日の記者が苦手のようで、
参院予算委員会で、朝日新聞について、
安倍政権打倒は社是であると(聞いた)。そういう新聞と思って読んでいる》
と語っている
たしか朝日新聞の綱領には《不偏不党の地に立って言論の自由を貫き……》
とあったはずなんだけど(笑)。もうめちゃくちゃだね、この支那の御用新聞は。

いや、無駄口を叩いてしまった。皆さんも、さぞお疲れだろう。
口直しといってはなんだが、こんな微笑ましい〝快答〟もある。笑ってください。
http://curazy.com/archives/569(クリックしてください)




← チップを裸(むきだしでの意)で渡す、
なんて言葉は近頃あまり使われないもんね。
中学生にしてはちょっぴり情けないけど、
笑えるという意味では、まあ傑作といっていいだろうな

2014年1月26日日曜日

人は見かけによるもの

能や狂言といったものは動きが単純でリズムもゆるやかだ。
若い人の目には、テンポが遅すぎて退屈に映るにちがいない。

ところがテレビ番組の中で、能役者が静かに舞台に立っているときの脈拍数を
測ったところ、なんと最高250を超えていたという。静かな表現の裏に、
凝縮されたエネルギーが秘められていたのである。

人は見かけによらぬもの」などという。外国にも似たような諺がいっぱいあって、
たとえば、Appearances are deceptive.直訳すると「外見は人をだます」というのがあるし、
The handsomest flower is not the sweetest.「もっとも美しい花がもっとも香りがよいとは
かぎらない」などというのもある。

「君には軟弱に見えるかもしれないけど、ほんとうの自分はそうじゃない。
君が見てるのはボクの中のほんの一部さ」
などと力んでみせる人がいる。真の自分は見えないところに隠れている、
と言いたいわけだ。ほんとうだろうか?

士大夫三日書を読まざれば、理義胸中にまじわらず、面貌憎むべく、
言葉に味がない、などといわれる。支那の某君子は酒席の作法をたてて、
面つきの悪いやつ、言葉づかいのいけぞんざいなやつは寄せつけなかったという。

福田恆存はこんなふうに言っている。
《個人の魅力について多くのひとが誤解しやすい点は、人間の外形と内面とは別物だ
と考えたがることです。外形と内面、いいかえれば肉体と精神、あるいは人相と人柄、
この二つのものは別物であるどころか、じつは心にくいほど一致しております。人相を
見れば、その人柄は大体わかります。そういうものなのです》(『私の幸福論』)

福田はつづけて、
《私たちは他人と接触するばあい、なによりも自分の美意識と感覚とを頼りに
しなければならぬし、同時に、自分というものが、他人の眼に、その外形を
通じてしか受け入れられぬということも覚悟していなければなりません。私自身、
ひとにたいする好悪を決めるのに、いままでつねに人相に頼ってまいりました。
それでまちがったことは一度もありません》(同上)

白洲正子の師匠筋に当たる装幀家の青山二郎も、
《人間でも、陶器でも、たしかに魂は見えないところにかくれているが、
もしほんとうに存在するものならば、それは外側の形の上に現れずにはおかない》
(白洲正子著『いまなぜ青山二郎なのか』)と、「内面=外面」と説いている。

小林秀雄の盟友だった青山二郎は真正のリアリストだった。
書画骨董の目利きでもあった青山にはメタフィジカルな想念など皆無だった。
見たもの、さわったものだけを信ずるリアリストの眼がなければ、
およそ目利きなどつとまるわけがない。

ここに一個の茶碗がある。茶碗は外形と内面とが緊密に一致している。
そこには形だけしかない。形はいいが内容がつまらぬとか、形はまずいが
内容がいいとか、そういうバカなことはあり得ない。形がすべてだからだ。
人間も同じで、心貧しければ外形も貧しい。見かけがすべてなのである。

テレビのCMなどにはアンチエイジングの化粧品やサプリメントのコマーシャルが
目白押しだ。いくら高級化粧品を塗りたくっても、いくらシワ伸ばしに精を出しても、
画面に映る〝美魔女〟たちの外形から垣間見える心の風景は空虚そのものだ。
まるで寒風吹きすさぶ荒野を見ているかのようである。
韓国人じゃあるまいし、「外華内貧」の押し売りは御免蒙りたい。
 

化粧の濃さと知性は反比例するというが、
ほんとうに美しくなりたかったら、まずは内面を磨くことだろう。
内面の美しさは必ずや外形(外面)に照り返す。
どうやって?

書を読み、ひたすら詩酒徴逐(ししゅちょうちく)の日々を送ることだ。
これこそが唯一絶対の美容術の秘薬なのである
(←ぐうたらな酒飲みの自己弁護に聞こえるんだけど……プップッ)。


←青山二郎(右)と小林秀雄。
骨董店「壺中居」にて(昭和25年)




 

2014年1月21日火曜日

酒と女は仇なり

毎日酒を飲んでいる。「水」と「木」は休肝日にしようと誓ったばかりなのに、
実行したのは1週だけ。翌週からはなんだかんだと理屈をつけ、酒瓶に手を伸ばしてる。
なんという意志薄弱。おかげで1日中微醺(びくん)を帯びた状態で過ごしてる。

ボクは酩酊状態の時もしらふの時もそれほど変わらない、と勝手に思っていたのだが、
どうやらそうではないらしい。メートルが上がると、だいぶ騒がしくなるようだ。
もともと地声が大きく、よく通るほうなので、自然と周囲に迷惑をかけてしまうのかも
しれない。

出入り差し止めの店もある。あんまり騒ぎすぎて店主夫妻を怒らせてしまい、
「今後いっさい出入り禁止」を食らってしまったのである。
やきとんを立ち飲みで食べさせる店で、わが町では絶大な人気を誇っている。

飲んべえというのは可愛い(←自分で言うな!)。飲むほどに酔うほどに気持ちが大きく
なってきて、舌が滑らかになるにつれ上司を批判したり同僚をこきおろしたりと
大いそがしになる。あげくは自分ひとりで会社を引っぱっているかのような大言を
吐いてはばからない。で、そこに先程来こきおろしていた当の課長がひょっこり
顔を見せたりすると、
「いやあ、課長と飲めて光栄です」
などと、心にもないことをイケシャアシャアと言う。

下戸の人はこうした光景を見て、
(酒飲みというのはなんと他愛なく、愚にもつかぬ連中なのか……)
と呆れ果てるかもしれないが、その日のいやなことも、つらいことも酒場で
すべて発散させてしまえば、心にわだかまりを残さず、すっきりした気分で
家路につくことができる。そうすれば翌日もまた元気よく仕事に出かけられる。
酒飲みにも三分の理なのだ。

ボクみたいに〝酒品〟のいい?男は別だが、他人に迷惑がかからない程度
の賑やかさなら、飲んべえどもの大言壮語や高歌放吟、はては杯盤狼藉も、
多少は大目に見てもらいたい(←度が過ぎてんだよ!)。

居酒屋は胸襟を開いて語り合える、いわば心の解放区
時々、バカをやり、友に心の弱さを見せたりすることもあるだろうが、
愚かさに徹し、すべてを捨てきれば、そこに自ずとのびやかな自由もある。

イエス・キリストも言っている。
我にもし、人に誇りとするところあらば、我が弱さのみ誇らんと

ボクはコーヒー1杯でも会話のお相手をしっかりつとめられるが、
できれば酒があったほうがいい。しかし美禄に枯腸が温められると、
つい酔余の勢いで平生のたしなみ(←そんなものあるのかよ)を忘れ、
粗暴に走ってしまう。酔いが醒めたときの驚愕悔恨は尋常ではなく、
それこそがあったら入りたいといった心持ちになる。
ああ、思い起こせば恥ずかしきことの数々……(←寅さんの同類です)。

ならば、煙草をスッパリ断ったみたいに酒断ちをすればいいではないか、
とお思いだろうが、ことはそう簡単にはいきませぬ。
狂水(きちがいみず)に飲まれても、翌日になるとさっきまで入ってた〝〟から
のそのそ這い出して、まるで前夜の酔態などなかったかのような顔をして、
またぺろぺろ酒を舐めはじめるのです。 ♪バカは死ななきゃ~治ら~ない

下戸の建てた蔵はない(下戸は交際下手で出世が遅い?の意)
などと負け惜しみをいってもはじまらない。
明日も明後日も、そのまた明明後日も飲み会がひかえている。
母さん! ボクの節酒宣言はいったいどこへ行ってしまったのでしょうね?
(↑映画『人間の証明』のノリで)

酒と女は仇なり、どうぞ仇に巡り会いたし、か……
嗚呼! 俺はなんという薄志弱行のロクデナシなんだ。



←そういえば、若いものと飲む
機会がめっきり少なくなったな。
でも若者はバカばかりだしな
(おまえが言うな!)


2014年1月18日土曜日

「あっちの世界」へ行ったきり

公式には『コーヒー おいしさの方程式』は本日発売される。
ただし16日にはすでに書店に並んでいた、という報告もある。
発売後間もないにもかかわらず、すでにAmazonの「グルメ一般」「飲み物」部門
で売行き〝第一位〟を獲得している。大変喜ばしいことだ。

この本の著者は2人いる。コーヒー業界きっての論客・田口護(カフェ・バッハ店主)と
人気ブログ「百珈苑」「百珈苑ブログ」でお馴染みの旦部幸博(滋賀医科大講師)だ。
旦部は大学の研究室でお茶くみ当番をやらされたのがきっかけで、コーヒー物狂いの
世界に沈殿沈没してしまった。

コーヒーの話に熱が入ってくると、一種のトランス状態に陥ってしまうのか、
小難しい化学用語を繰り出して、周囲の心配をよそに「あっちの世界」に行ってしまう。
そうなるともうお手上げだ。われら有象無象など見えても見えず。頭の中は、
ブタンジオンだのトリメチルキサンジンなどといったわけのわからない専門用語で
いっぱいになり、そのまま「あっちの世界」から帰れなくなってしまう。

こうしたある種の天災、じゃない天才を見つけだしてくる田口の眼力も大したものだが、
それに即応するMr.ブタンジオンも大したものだ。一時は笑福亭鶴瓶に足元をすくわれ
そうになったこともあるが、〝タグタンコンビ〟解消には至らず、業界関係者をホッと
させている。

この本にはすでに海外の出版社から翻訳権のオファーが複数舞い込んできている
当然だろう。〝田口本〟の売行きは海外でも安定した強さを発揮していて、
出せば必ず儲かると、版元はどこもみな分かっているのだ。

この新刊を深く理解するためには既刊の『田口護の珈琲大全』を読んでおくといい。
いきなり手にとっても分かるようには書いたつもりだが、事前に読んでおけば
奥深いところまで理解が進む。『珈琲大全』は今や東アジア圏のコーヒー業界では
無敵を誇るほどの名著とされ、増刷に次ぐ増刷で、いまでも安定して売れている。

その割にはブックレビューが少ないではないか、と訝しく思われるかもしれないが、
業界人はみな〝お山の大将〟ばかりで、自分の焙煎したコーヒーこそ日本一、
いや世界一だと思ってる。だから、こっそり赤線を引きながら読んでいたとしても、
そんなことはおくびにも出すまい。自尊心を傷つけられたくないからだ。
もちろんレビューなんぞ死んでも書かない。その微妙な心持ちはよーく分かる。
でもね、なんか料簡が狭いって感じもする。

読んで得したにしろ損したにしろ、その感想を素直に綴ってやればいい。
褒めれば著者の励みになるし、その逆であってもまた励みになる。ただし、
★5つのうち、ほとんどの人が★4~5つを与えているというのに、時々★1つを与え、
こっぴどくこきおろしているカスタマーレビューを見かけることがある。
読むと甚だ見当違いのものが多く、どこか病的な〝悪意〟や個人的な
〝恨みや妬み〟が感じられたりする。

つまり本の評判を傷つけようと確信犯的に営業妨害をしているように感じられるのだ。
1つ★をつけ、酷評することで著作にミソをつけたいのなら、
まずはそんな駄本を買ったおのれの不明を恥じるほうが先だろう。
その気概がないのなら、黙って無視していることだ。

それにしても、瞬間風速的ではあっても、Amazonの人気ランキングで〝第一位〟を
獲得するのは喜ばしい。田口本の第2弾『田口護のスペシャルティコーヒー大全』の
中国語版(台湾)では、代筆したボクのことを〝工作人員〟と、まるでスパイみたい
に扱っていたが、この呼び名がもう少しカッコよくなればもっと嬉しいのだが。

去年、ゴーストで出した単行本もAmazonの「ビジネス本」部門で、
人気〝第一位〟を獲得した。いまでも10位以内に入っているようだから、
まさに〝幽霊冥利〟に尽きると言っていい。

来月2月23日の夜には、代官山の「蔦谷書店」で「タグタン」コンビを講師に招き、
『おいしさの方程式』発刊を記念してお笑い?トークイベントを開催する。
司会進行は〝しらふ状態〟の嶋中労先生で、まともに会が運ぶかどうか、
危ぶむ声がすでに出てきている。死ぬほどヒマで、一言文句が言いたい人は
ぜひ参加してほしい。質疑応答の時間もとってありますから。




←コーヒーってこんなに奥が深い世界なの?
とビックリ仰天すること必至。買って損はないです。
福山雅治主演の映画「真夏の方程式」も評判だというから、
近頃は〝方程式〟流行りなのかもしれない。











 

 
 

2014年1月15日水曜日

メメント・モリ

昨日、30年来の友人が死んだ。
長女の同級生の父親で、保育園時代からのつき合いだった。
冗談ばかり言う明るい男で、団地の友人の中では古参の一人だった。

女房と死に顔を拝んできた。痩せさらばえ、骨と皮になっていた。
それでも安らかな顔をしていた。激しい痛みから解放され、ホッとしたのだろう。
〝サイレントキラー〟と呼ばれる恐ろしき膵臓ガンである。享年58。

ある作家は言っていた。《私たち人間には、ほぼ一定の容量が与えられている》と。
人が人生において歩く距離は、そう大した違いはないのではないか、と。
《速く、短時間で走るか。ゆっくり、長い時間をかけて歩くか》
それは各人の選択で、太く長く、という具合にはいかない。

「命長ければ恥多し」とボクは再三書いている。
しかし実際は、老醜をさらけ出しながらも、1日でも長く生きたいと
「生」に執着するに違いない。
同じ団地内に、もう一人末期ガンを宣告された友がいる。
「夏までもつかどうか……」と友は淋しげにつぶやき遠くを見つめた。

ボクは少なくとも言葉のプロを自任しているが、余命を宣告された友を
慰め励ます言葉を知らない。ただ黙ってそばにいてやることだけ。
出来ることはそれだけだ。言葉など無力この上ない。

では、人間としての理想の長寿とはどれくらいのものなのか。
「人間五十年 夢幻のごとくなり」とは謡曲「敦盛」の一節だが、
いまどき人生50年では誰も納得してはくれないだろう。
では60年か。いや、還暦をすぎた自分が言うのも何だが、
まだまだ物足りない。では、70年ならどうか。
それとも80年? いや90年ならどうか?

聞くところによると、宗教家はなべてみな長寿なのだという。
職業別の統計でも、宗教家が長生きのトップらしい。

たとえば浄土教では法然が80歳、親鸞が90歳、蓮如が85歳。
あの時代としては驚歎すべき長寿である。
読経が長寿の秘訣、という説もある。

念仏を含め読経は長時間の呼気(吐く息)で読み、一瞬の吸気で息を継ぐ。
「短く息を吸い、長く吐く」――これが腹式呼吸の基本中の基本だ。
食事も粗食を旨とし、フレンチだイタリアンだと贅沢なことはいわない。

「大いなるもの」に身をあずけてしまう、というのも長寿に〝効く〟らしい。
大いなるものとは、阿弥陀如来とか〝山の神〟とか(笑)、大方そのたぐいだろう。
ただし、全能の〝山の神〟でもガンには勝てないかもしれない。

ああ、友よ、愛する家族、そして年老いた母をおいて先立ってしまうのは、
さぞかし無念だっただろう。その胸中、察するに余りある。だから君の分まで
ボクが長生きしよう。君の無念をボクが代わりに晴らしてやろう。
そのことを、謹んでここに誓う。
合掌。





←亡くなった友は長野のりんご
農家の長男。発病してからも、
老母が独り住む実家へ毎週のように
通っていた。
「アップル殿下」を自称していた友よ、
安らかに眠りたまえ。
(写真はアップル殿下のりんご園)

2014年1月13日月曜日

うちの女房は犬の鼻

赤坂の「Wakiya 一笑美茶楼」で結婚30周年をささやかに祝った。
テレビなどでもお馴染みの脇屋友詞が経営する中国料理店である。
目と鼻の先には、和食を世界に広めた村田吉弘の「菊乃井赤坂店」がある。

脇屋さんは女房の数十年来の知り合いで、村田さんとも古い馴染みだ。
ボクも同い年の村田さんを京都で丸1日取材につき合わせたことがある。

和食をユネスコ無形文化遺産に登録させた最大の功労者ともいえる村田さんは、
打てば響くといった勘のいい男で、話っぷりは立て板に水でよどみがない。
話し言葉がそのまま編集の手を加えずとも立派な記事になってしまう、という
得がたい人物で、(この男は切れ者だな)と、会うたんびに感心させられる。

脇屋さんはテレビや雑誌で頻繁に顔を売っているから、さぞや高慢ちきの
〝すれっからし〟だろうと思いきや、実際は腰の低い謙虚なひとで、
偉ぶったところなどひとつもない。女房曰く。「料理は〝ヌーヴェル・シノワの旗手〟
などといわれてるけど、基本がしっかりしてるから浮ついたところが微塵もない。
味つけも上品で、出来不出来のバラツキがなく、いつも安定している」
と大絶賛。ボクもその評価には賛成だ。

今日もテーブルを回って挨拶に来た脇屋シェフとしばし歓談。
内緒で北京ダッグをサービスにつけてくれたのは僥倖だった。

わが家には誕生日などの記念日があると、ちゃんとしたレストランで会食する
という〝しきたり〟がある。娘たちがまだ小さい頃から続けている、いわば嶋中家の
慣習みたいなもので、和洋中の名だたる店の料理をできるだけ生で体験させてきた。

以前は首都高で都心まで繰り出した(所要時間は約30分)ものだが、車だと
お酒が飲めないので、最近はもっぱら電車。次女が横浜住まいなもので、
待ち合わせは渋谷近辺が多くなった。和光市から渋谷までは副都心線の急行で
わずかに20分。横浜にも乗り換えなしで行けるから、なんとも便利になったものだ。

女房はプロの料理人向け月刊誌『専門料理』の元編集長で、
退社後は仲間と月刊『料理王国』を立ち上げ、今はフリーの料理記者として
がんばっている。専門はイタリアンとフレンチだが、最近は和食にも強くなり、
寿司の名店を訪ねるといった連載企画ももっている。

よく訓練された舌と犬のような嗅覚の持ち主で、
その感度のよさは圧倒的で、少なくともボクの1000倍くらい敏感だ。
そのため、料理の評価は自ずときびしいものになる。ホンモノばかりに
接している(ほとんど自前です)ので、イカモノはすぐ見破ってしまう。

コーヒーにもうるさくて、名店といえどもお粗末なコーヒーは一刀両断。
現在、彼女のお眼鏡にかなっているコーヒーはほんの数店
豆香洞にバッハ、ダフニ、KAFE工船、帰山人氏の馬馬コーヒー?など)に限られる。
ボクはというと、前にも言ったが自称〝のどめくら(味オンチのこと)〟で、
腹が減ってりゃ何でもうまいのクチで、専門分野と思われてるコーヒーだって
味覚評価となるとかなり怪しい。

その味覚オンチの怪しい男が、『コーヒー おいしさの方程式』などという
技術本の編集にかかわっているのだから、つい
♪ 未来は そんなわるくないよ へ、へい、へい(笑)。←「恋するフォーチュンクッキー」より
などと歌いたくなってしまう(AKB48の隠れファンなんでちゅ)。
この新刊本、明日あたりには書店に並ぶだろうから、ぜひぜひ手にとってほしい。

話変わっていま、台所では長女がモロッコで食べたという「クスクス」を作っている。
出来上がりが楽しみだが、なんと「1週間分作っちゃったァ!」と台所で叫んでる。
馬が食うほど作ってしまったらしい。いつものことながら加減ってものが分かってない。
「いっぱい作ってやったから毎日食べてね!」だって、泣かせてくれるぜ(ウェーン!)。
朝昼晩と、毎食クスクスかよ……
フォーチュンクッキーのおみくじはきっと大凶だろう(笑)。




←「Wakiya」の前菜盛り合わせ
















 

2014年1月10日金曜日

『コーヒー おいしさの方程式』異聞

ボクは一瞬、目を疑った。(な、なんだこりゃ?)
そして同時に笑い出した。(〝タグタン〟コンビはついに解消か)
『コーヒー おいしさの方程式』は、実は『コーヒー お笑いの方程式』でありました。







←「のぶじいのぶろぐ
より盗用(笑)。
旦部先生面白がって
「ウェブ魚拓」した
みたいだ。













というのは、トーハンの書店向けサイト「e-hon」で『コーヒー おいしさの方程式』の
予約受付をしているのだが、田口護(カフェ・バッハ店主)の共著者に滋賀医科大講師
の旦部幸博ではなく笑福亭鶴瓶などと書いてあるのだ(いまは訂正されている。残念)。

田口と鶴瓶の新コンビもなかなか捨てたもんじゃないな、と思いつつも、
弊履のごとく捨てられてしまった旦部センセーの心中を察すると余りあるものがある。
あのセンセーだって、頭はとびきり堅いけど、ときどきおやじギャグなんか飛ばしたりして、
胸が〝キュン〟となるほどカワユかった。

それにしても、記者会見もしないで、突然コンビを解消するなんて、
田口御大もあまりといえばあまりの仕打ち。2人にはいったい何があったのか。

このニュースを聞きつけた帰山人などは、なぜか異様なハシャギぶりで、
「さっそく〝田口一門〟に弟子入りします」などと宣言してた。
なんとも変わり身の早い男だ。

鶴瓶もきらいではないが、ボクはひょっこりひょうたん島の〝博士〟の異名をもつ
旦部センセーとやっぱ〝復縁〟してほしい。肝心の田口は記者たちの追求を恐れたか、
もっか外遊中だという。

せっかく「世界最強のコーヒー技術本」ができたというのに、
とんだところでミソをつけてしまった。
捨てられた旦部センセーはこの先どうやって食べていくのだろう。慰めの言葉もない。
いっそ「お笑いコンビ」のマネジャーにでも転身したらどうかしら。





◆お知らせ
コーヒー おいしさの方程式』発売記念トークイベント
来る2月23日(日)19:00~20:30、「代官山蔦谷書店」にて、著者2人による
トークショーを開催します。講師は田口護と旦部幸博の〝旧タグタン〟コンビ。
司会進行は不肖嶋中労があいつとめます。お笑いイベントにならぬよう、
この日ばかりは〝しらふ〟で参上いたしますので、死ぬほどおヒマな方は
ふるってご参加ください。詳しくは本ブログにて追ってお知らせいたします。
ただしこの本もしくは〝田口本〟のいずれかを蔦谷書店で買い求めた人にのみ
参加資格が与えられます)

 

2014年1月4日土曜日

倦かずに30年

あと4日で結婚30周年を迎える。真珠婚式というのだそうだ。
ネットで検索した女房は「ネックレスじゃなく真珠のタマ1粒でもよし、かァ……」
などと聞こえよがしにつぶやいている。こっちは聞こえないふりをする。

それにしても、よくまあ30年も保()ったものだ。
しょっちゅうケンカしている割には、比較的仲がいい。
その証拠に娘2人はすくすくとまっ直ぐに育った。
夫婦仲がわるいと、こどもは心に傷を負い、必ずグレる。

ルビー婚式(40周年)にはどうにかセーフって感じだろうが、
金婚式(50周年)はたぶんムリだろう。わが一族で、80代を迎えた男は皆無。
みな70代半ばで没している。一方、女房の一族は長寿の家系で、
浜松にいる義母などは米寿を迎えようというのに髪がまだ黒々としている。

「働きずくめで身体を酷使してるから、私はたぶん早死にするわね」
と、甲斐性なしの夫を恨めしげに見ながら、女房は力をこめるのだが、
ボクの予想ではおそらく100歳まで生きるだろう。
うちのカミさんは異常に生命力が強いのだ。

誰が言ったのか、
《逢って3年、愛して5年、飽きて10年、あと惰性
なんていう言葉がある。また、
《お茶も飲んだし、散歩も飽きた。時計見ている野暮とヤボ》
というのもまた身につまされる。
ヤボでもいい、惰性でもかまわん。曲がりなりにも30年夫婦をやってきた、
という事実は大したものだ、と正直思う。ボクには上出来の部類である。

夫婦も互いに歳を取ると、どちらからともなくいたわりの気持ちが出てくる。
朝から晩までパソコンに向かっている女房の背中を見ていると、
(苦労ばかりかけて、ほんとうに済まないなァ)と、深く反省するのだが、
数分後、テレビを見ながら酒盛りを始め、意味もなくバカ笑いしているのだから、
ほんとうに反省しているのかどうかはかなり怪しい。

花いっとき、人ひと盛り――ひとの盛りは5年、大負けに負けて10年、と師匠の
山本夏彦は言った。長寿のめでたいことはたしかだが、命長ければ恥多しという。
真珠だルビーだと言ってるうちが花で、同時に潮時なのかもしれない。



←これは5年前の銀婚式を祝った時
のスナップ。みんなまだ若い。新宿の
某イタリアンで。






 

2014年1月1日水曜日

恭賀新年

今年もぶじ明けました。
わが拙いブログを愛読してくださっている皆さま。
新年明けましておめでとうございます。
また海外にいらっしゃる読者の皆さま、本年もよろしくお願い申し上げます。

年が改まったからといって、格別の感慨もなく、また抱負といったものの
持ちあわせもないのですが、個人的には膝痛と腰痛のリハビリに励み、
完全復活の年にしたいと考えております。実に夢のないジジ臭い抱負で、
自分でも情けないこと夥しいのですが、もともと志の低い人間ですから、
まあ、こんなところで勘弁ねがいます。

さて、私は数年前まで肩書きがありませんでした。
名刺には「嶋中労」と書いてあるだけ。
これを受け取った相手は、一瞬、戸惑いの色を見せます。
(えっ、この人、何者なんだ?)

日本の社会は肩書きのない人間を認めません。
定職のない人間も認めません。
どこそこの会社のどんな役職にある何という名前の人なのか。
名の知れた会社の、そこそこの地位にある人だと、相手は安心して
初めて笑顔を見せます。

ただの「しまなかろう」では、どのくらい〝えらい人?〟なのか分からない。
素性が分からないと、どんな態度をとり、どんな言葉づかいで接したらいいのか、
それこそ分からないので、相手は困ったような顔して立ちすくんでしまいます。

同業者の中には、名刺に「作家」とか「ノンフィクションライター」、
「コラムニスト」「エッセイスト」などという肩書きを載せるものがあります。
なかには「詩人」などと書くおっちょこちょいもいるようですが、
私などは広い世間を斜めに生きてきたクチなので、
肩書きなどというご大層なものは金輪際願い下げなのであります。

しかし、それはこっちの勝手な都合だということが分かりました。
初対面の人は名刺を見て、(ハハーン、なるほどこういう関係の人か)
と見当をつけ、話のとっ掛かりを見つけようとします。肩書き無しだと、
そのとっ掛かりがつかめず、困ってしまうのです。これでは気の毒です。

で、私は「ジャーナリスト」という、当たり障りのない肩書きをつけることにしました。
ある公の場で、「作家の嶋中労さんです」と紹介されたことがあります。
しかし私は作家ではありません。
私たちの〝ギョーカイ〟では、小説を書いて生計を立てている人間を作家と呼びます。
「作家=小説家」ということなのです。
私はノンフィクションは書きますが、完全なフィクションは書きません(いや、書けません)。
したがって、慣習的には「作家」とは呼ばないのです。

日本は肩書き社会なので、現役をリタイアし肩書きを失った人間を粗末に扱います。
とりわけ男の社会は非情なもので、肩書きのない人は人間扱いされないのです。
そんな「非人間(人非人ではない)」たちが、わが団地にはウヨウヨしています。
この団地の中心層は隠居したてのいわゆる〝団塊の世代〟なのです。

人間として丁重に扱われるのは肩書きのおかげです。
会社という金看板があるおかげなのです。
その後ろ盾がなくなり、ただの剥き出しの「個人」になってしまった後が問題です。
ここで初めて〝人間力〟とか〝人間的魅力〟が問われるからです。

肩書きを失っても輝いている人はいっぱいいます。
肩書きがとれた途端に輝きを失ってしまう人もいっぱいいます。
肩書きなどなくとも輝くような人間になりたい――これが私のささやかな希みです。

私には人に誇るべき地位も名誉もありません。
自慢ではありませんが金もオンナ(古女房はまだいます)もないのです。
「人生は死ぬときまでのヒマつぶし」と考えているうつけ者であります。
ただ「自分に正直に生きたい」だけがモットーで、
その信念を貫くため、時にはケンカも辞しません。

そんな愚か者の綴るブログですが、
お気に召しましたら、末永くごひいきに願います。
今年もよろしくお願い申し上げます。