2015年11月17日火曜日

八百万の神が世界を救う

あの日、フランスはリヨン大学に通うAlexiaに心からの哀悼の意を伝えた。
そう、パリ同時多発テロがあった日である。
幸い彼女の親族や知人に被害者はいなかった。

Alexiaとは4カ月前に別れたばかり。夏休みを利用して日本に〝里帰り〟し、
ボクとNICKが組む「蛮爺's」の舞台もかぶりつきで観てくれた。その彼女も、
「フランスはこれからもっともっと悪くなる。悲しいけど、それが現実だね」
とフランスの将来にはひどく悲観的だ。別に人種差別主義者ではないけれど、
イスラム文化に浸食されつつある今のフランスには大いに不満なのだという。

預言者ムハンマドの風刺画を掲載したシャルリー・エブド紙がテロの襲撃に
あった事件は記憶に新しいが、ムハンマドが実は同性愛者だった、
などと侮辱する程度ではまだ生やさしい。ダンテの『神曲』には、主人公(ダンテ自身
が地獄めぐりをした際に、一人の亡者に会ったとある。
《この亡者、上は頤(おとがい)から下は臭い音を発する部分まで唐竹割り。はらわたは
両脚の間にぶら下がり、内臓は丸見え、、呑み込んだものを糞にする不浄の囊(ふくろ
もまた……》

この真っ向唐竹割りになった亡者こそムハンマド(マホメット)で、地獄に堕ちた理由は、
「神の言葉でないものを神の言葉と偽り、多くの人間を欺いた罪」
なのだという。つまり、世界中におよそ16億人もいるイスラム教徒は
ムハンマドという宗教的ペテン師にだまされた大バカ野郎という理屈になる。
キリスト教徒は多かれ少なかれ、イスラム教徒に対してはこんなふうに思っている。

一方、神の言葉を書きとめたとするコーランには、ユダヤ人は猿と豚の子孫と書いてある。
サウジアラビアのモスクでは今もくり返しそう教えられているというから、
アラブ人とユダヤ人の対立の根は深い。いや、キリスト教徒とユダヤ教徒との
対立はもっと根深い。

かつてのナチのホロコーストを思い起こしてほしい。
ヨーロッパでは約600万人のユダヤ人が殺された。
その中には150万人の子供たちも含まれている。
アンネ・フランクは教会にかくまってもらえなかった。ユダヤ人だったからだ。
一方、映画『サウンドオブミュージック』のモデルとなったフォン・トラップ一家は
キリスト教徒ゆえに教会にかくまってもらった。口には出さぬが、
キリスト教徒はみんなユダヤ人をきらっている。

1917年、イギリスのバルフォア外相がパレスチナにおけるユダヤ人国家の建設を
約束している。これが有名な「バルフォア宣言」だ。最初の提案では
パレスチナではなくアフリカのウガンダに建設するはずだった
しかし約束の地がアフリカの奥地ではユダヤ人が集まりっこない。で、結局、
パレスチナの地に決まった。なぜ約束したかというと、時は第一次世界大戦の
まっ最中である。戦争をしている当事国としてはどうしても潤沢な戦費がほしい。
実のところユダヤ教徒のことなどどうでもよかった。金持ちのユダヤ人たちを味方に
つけ資金を援助してもらいたかっただけだ。

そもそもシリアの内戦は宗教問題が発端だ。アサド政権はアラウィ派(シーア派の一派)
で、多数派のスンニー派と対立している。その間隙にイスラム国がつけこんで内戦に
火がついてしまった。

欧米人は「イスラム教徒は内輪もめばかりしているテロリストども」などと思っている
ようだが、なに、それはお互いさまで、歴史的に見ればキリスト教徒同士の醜い争い
のほうが激しかった。たとえば「聖バルテルミーの虐殺」(1572)がある。
フランスのカトリック教徒が〝ユグノー〟と呼ばれるカルヴァン派のプロテスタント
を大量虐殺した事件で、犠牲者の数は1~3万人、最大10万人ともいわれている。
女子供もみさかいなく殺し、バラバラにされた死体はセーヌ川に投げ込まれた。

イスラム過激派の自爆テロは残酷だ、とだれもが非難する。
世界貿易センターに突っこんだテロリストたちも、今回、パリで同時多発的に
無差別殺人をおこなったテロリストたちも、誰ひとりとして死を恐れていない。
「神は偉大なり!」と叫びながら自爆していった。

コーランの教えでは、異教徒を殺して殉死するものは即、
天のパラダイスに行って72人の処女を抱けるとある。
テロリストが女性の場合は童貞の男の子を抱けるのかどうかは知らないが、
男なら「72人の処女」を慰みものにできるという。ずいぶん豪儀な話だ。
でも、もう死んじゃってるんだもの、そんな元気があるのかしら。
死んでも安眠できず閨房(けいぼう)で酷使されるなんて、イスラム教徒の男もつらい。
↑実際はコーランにもハーディス(コーランの解説書)にもそんなこと書いてないらしい。ガセネタか?

さてムスリムに同情しつつも、ボクはいつも「イスラムの停滞」について考えてしまう。
十字軍に攻められていた時代は、アラブの文明のほうがヨーロッパより数段上だった。
しかしヨーロッパ社会は15世紀あたりから600年かけて徐々に成熟していった。

一方、イスラム圏はアッラーの神による〝個人の安心立命〟のみを優先した。
どうやって飯を食っていくのか、ということがアラブの世界では高度に社会化しなかった。
まだ石油が出るからいいが、大昔はともかくアラブから文明世界における科学や
テクノロジーはいっさい生まれていない。それはそうだろう。科学実験で失敗しても
「すべては神の思し召し」というのでは、科学する心や向上心など育ちようがない。

ボクたち無神論者は、
「21世紀にもなって、まだアッラーの神かよ」
などと、つい小バカにしたくなってしまうものだが、
世俗主義(政教分離主義)を排斥している限りは、
アラブの停滞は今後もつづくことだろう。

ユダヤ教にしろ、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、
一神教の原理のもとでは、互いの正義が異なるため、ささいなことで殺し合いに
なってしまう。生命尊重の原理より正義が優先してしまうためだ。

日本はどうかというと、ジブリの『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』を見るまでもなく、
八百万(やおよろず)の神が跋扈する多神教の世界で、クリスマスだろうとハロウィンだろうと、
なんでもかんでもお祭りにしてしまう。そこには七面倒くさい教義も正義も存在しない。
節操がないといえばそれまでだが、なぜかみんな楽しく暮らしている。

宗教戦争などというものは絶えて久しい。←その昔、「天文法華の乱」なんてのがあったっけ
一神教社会の重苦しさに比べ、多神教社会のなんと自由なことか。
日本人のこの〝いいかげん(好い加減)〟な宗教観が、世界平和を実現するカギでは
ないのかと、近頃はそのことばかり考えている。みなさんはいかがお考えですか。






←この節操のない多神教の世界が
世界を救う、と思うのですがねえ……


2015年11月10日火曜日

「とか弁」より「ドカ弁」

言葉は時代とともに変化していくものというのは分かります。
現代日本語を平安時代の紫式部が耳にしたら、何を言ってるんだかサッパリ
分からないでしょう。とりわけ若者言葉というのは、いつの時代にあっても年長者
を悩ませるものです。

とか弁」はいまも健在です。
「テレビとか見ますか?」
「会議とかやるんですか?」
少しは馴れましたが、時にイラッとして「テレビとか、じゃなくてテレビを、だろ?」
とたしなめてやりたくなります。

ていうか」「みたいな」「だったりして」もイライラさせられる言葉です。
「あの娘かわいいっすよね、てゆーか、すっげェ美人じゃないっすか?」
「首相の名前のほうとか知らなくても生きていけるじゃないですか、みたいな」(朝日新聞より
かとおもうと、
「てめえ、ぶっ殺されたいのかよ、みたいな」
と、過激な言葉の後に「みたいな」を付けると、すべて赦されてしまうみたいな……(笑)。
頭の堅いボクにとっては若者言葉でいうところの、「意味わかんなーい」であります。

これら語尾がのびて要領を得ないしゃべり方は、専門家に言わせると、
摩擦回避型」というのだそうで、ものごとを断定せず、それとなくはぐらかす効果が
あるといいます。なぜそんなしゃべり方をするかというと、相手に本音をぶつけてしまうと、
お互いに傷ついてしまう。だから本音は言わず、表層的なやりとりでなんとかその場を
取りつくろう。若者同士の薄っぺらで希薄化した人間関係がこうした表現法を生みだした
のだろう、というのです。

ボクみたいに何でも断定調で言い切り、他人との摩擦などいっこうに気にしない人間
にはサッパリわかりません。たぶん心が弱いために、他者との軋轢を必要以上に
恐れているためだと思われます。そういう軟弱な人間は、ラグビー日本代表の
五郎丸選手でも見習ってキン肉マンのようにたくましくなることです。
福澤諭吉は言いました。
先ず獣身を成して後に人心を養え》と。
若者はすべからく「ドカ弁」を喰らい強健な身体を育成すべし。
英語で言うところのA sound mind in a sound bodyでしょうか。
そうすれば「とか弁」とかとおさらばできます(笑)。

意味わかんなーい言葉はまだまだあります。
最近よく耳にするのが「~てございます」という言葉。
政治家や役人、ビジネスマンがよく使っています。
「ただいま検討してございます」
「検討しております」というのをより丁寧に言ったつもりなのでしょうが、
どこか違和感をおぼえます。

ボクは「検討しております」あるいは「検討中でございます」で十分だと思うのですが、
それでは物足りないと思うのか、不必要なくらい丁寧にしたがります。
政治家などは〝無脳〟なせいか、国会の質疑などでよく、
「検討しておるところでございます」などとクドい言い方をしていますが、
なぜ「検討中でございます」ではいけないのか、そこのところがよくわかりません。

「動詞連用形+てございます」は昔の小説などにも出てくるようです。
藤村の『夜明け前』には、
《お塩で味がつけてございます》
というセリフが出てきます。

しかし、
「名産品を用意してございます」
「商品は多数在庫してございます」
「こちらの席が空いてございます」
「考えてございません」
などとなると、どうもしっくりきません。
「こちらの席が空いております」「名産品を用意しております」のほうが
数段スッキリすると思うのですがねえ。


←南ア戦での最後のトライ。
トライしたヘスケスは数秒前、
スクラム組んでいる時に尻が
めくれてしまっていた。
意外ときれいなお尻だった。
それにしても〝獣身〟というのは
カッコいいねえ。男はこうでなくちゃね。
見てよ、このたくましい二の腕と太もも、
男はやっぱ筋肉よ←意味わかんなーい!

2015年11月2日月曜日

君は夢見がちな眼をしていますか

ザ・モンキーズのヒット曲に『Daydream Believer』というのがあります。
軽快なリズムの、ちょっとおセンチな曲で、ボクも若い頃よく口ずさんだものです。
このDaydream Believerというのはどういう意味かというと、
白昼夢にふける人とか夢想家、空想家というような意味です。

なぜこんな前フリをするのかというと、日本のインテリ層にはこのDaydreamerが
殊のほか多いからです。彼らはたとえばこんなふうな言い方をします。
「戦争だなんて口にする人間がいるから戦争が起きる。
そうした人間は平和の敵であり人民の敵なんだ」
平和にな~れ!〟と呪文のように念じていれば日本は未来永劫安泰で、
つまりは〝神州不滅〟なのだ、というのであります。

こういうのを「念力平和主義」という、とボクは幾度となくブログに書き、
この夢想家たちを批判していますが、彼らは意外にしぶとくて、
いまや若者たちの間にもその〝念力主義〟が蔓延しつつあります。
若者というのは総じて「正義感」のかたまりで、おまけに「軽躁」のかたまりでも
ありますから、すぐかぶれてしまうのです。

ボクも夢見がちの眼をしてるときがありますが、それはたいがい目の前に
妙齢な女性(にょしょう)がいるときに限られていて、ふだんは常にリアリストで
あろうと努めております。ですから、日本の平和は「憲法9条」があるおかげ、
などというたわごとはいっさい信じません。戦後日本の平和はまちがいなく
「日米安保条約」と「自衛隊」によって保たれてきたのです。

パレスチナとの抗争が絶えないイスラエルでは、子供をグループで外へ連れ出す
ときには引率の教師は自動小銃を持つことが義務づけられています。彼らは
自分以外の誰も信じません。そうしなければ生きてゆけない厳しい現実が目の前に
広がっているからです。

かつて日本の某学者先生はこんなことを言いました。
「日本の安全は国連軍に守ってもらえばいい」

このノーテンキな学者先生はおそらくマキャヴェッリの『君主論』なんて読んだことが
ないのでしょうね。マキャヴェッリの人間観はご承知のように、
人間なんて、どいつもこいつもみな悪党だ
とする〝スーパー性悪説〟に立脚しています。これは単なる感慨とか空想といったもの
ではありません。目の前の人間をつぶさに観察してみたら、みなしょうもない悪党ばかり
だった、と遅疑なく言い放っただけです。

もちろんイスラエルの民は徹頭徹尾「性悪説」を支持しているでしょうし、
パレスチナの民も同様でしょう。いや、世界的に見れば性悪説に立っている
人のほうが圧倒的に多数派なのです。

しかるに、日本には「東シナ海を友愛の海にしましょう」などと寝言をいう元首相が
いるくらいですから、「性善説」を支持する人たちが殊のほか多いのです。
彼らには共通した特徴があります。多くが朝日や毎日といったおめでたい新聞を
読んでいて、そのせいかどっちかというと右脳より左脳が重くなるという病癖があり、
どうしても身体が左に傾いてしまうことです。

また彼らは押し並べてDaydream Believerで、厳しい現実には目をそむけ、
鵞毛のように軽い観念論や美しい抽象論をふりかざします。
よろずイデオロギー優先ですから、その理屈に合わない現実は自動的に
オミットされてしまうのです。差別用語かもしれませんが、
彼らは「あきめくら」なのです。

性悪説の元祖ともいえるマキャヴェッリはこんなことを言っています。
私はあらためてくり返す。国家は軍事力なしには存続不可能である、と。
それどころか、最期を迎えざるをえなくなる……(中略)……君主国で
あろうと共和国であろうと、どこの国が今までに、防衛を他人に任せたままで、
自国の安全が保たれると思ったであろうか

500年以上前に生きたマキャヴェッリがいま生きていたら、東洋の果てに
その〝マヌケな島国〟があったと腰を抜かすほど驚くにちがいありません。
なんと言っても日本には、「非武装中立」を大まじめに唱えていた政党が
ありましたからね。民主党の前身である旧社会党であります。

日本国憲法前文にはこうあります。
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して
われらの安全と生存を保持しようと決意した》と。
つまり、日本人の生存権自体を、心やさしき〝諸国民〟
の手にゆだねております、ということであります。
その諸国民とは支那、ロシア、北朝鮮、韓国といった国々です。
日本の隣国は平和を愛し信義を守る素敵な国ばかりです(笑)。



きつ~い冗談はさておき、
夢見るドリーマーになるのか、それとも冷徹なリアリストを貫き通すのか。
あなたはどちらがお好みですか?





←500年前に生きたニッコロ・マキャヴェッリ。
目的のためには手段を選ばない非情な
〝マキャヴェリズム〟という言葉によって
いまに知られています。