2015年2月23日月曜日

おもろうてやがて悲しき

若い時分は近・現代詩ばかり読んでいた。
朔太郎、中也、富永太郎、鮎川信夫、田村隆一、ランボー、マラルメ、ボードレール……
変わり種では沖縄出身の放浪詩人・山之口貘がいた。
貘さんの詩はゆる~いフンドシみたいで、ついクスリと笑ってしまうのだけれど、
どこか物悲しい。

若しも女を掴んだら

若しも女を掴んだら
丸ビルの屋上や煙突のてっぺんのような高い位置によじのぼって
大声を張りあげたいのである
つかんだ
つかんだ
つかんだあ と張りあげたいのである
掴んだ女がくたばるまで打ち振って
街の横づらめがけて投げつけたいのである
僕にも女が掴めるのであるという
たったそれだけの
人並みのことではあるのだが

貘さんは池袋駅西口にある「おもろ」という沖縄料理の店によく出没した。
おもろはボクの好きな店の一つで、2階席に上がると貘さんが手笛を吹きながら
踊っている陽気な写真が飾られている。

店の暖簾をくぐると左側にL字型のカウンター席がある。
そのカウンター席の左のどんづまりが貘さんの指定席で、
いつも静かにカラカラを傾け、泡盛を舐めるように飲んでいたという。

ボクは貘さんの温もりを感じたくて、よくその席に座らせてもらった。
貘さんがふれたであろう飴色のカウンターを愛おしげに撫でさすったこともある。
ボクの頭をガツンと一撃し、メロメロにさせた詩がこれ。

座蒲団

土の上には床がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽という
楽の上にはなんにもないのであろうか
どうぞおしきなさいとすゝめられて
楽に坐ったさびしさよ
土の世界をはるかにみおろしているように
住み馴れぬ世界がさびしいよ

突然、貘さんの話を始めたのは、本棚を整理していたら「山之口貘全集」(思潮社
がひょっこり顔を出したから。埃を落としぺらぺらめくっていたら、
なんだか急に懐かしくなって、あらかた読んでしまった。貘さんの詩を読んでいると、
どういうわけだか人恋しくなってきて、それこそ泡盛でもちびちびやりたくなってしまう。

さて、恥ずかしながらこの拙稿がブログを始めてから通算500本目に当たる。
2009年12月に始めたから、5年と2カ月。平均すると月に8本の駄文を
倦かずにアップしてきた勘定になる。何をやっても三日坊主のじいさんが、
よくまあ、続いたものである。

貘さんは池袋西口の「珊瑚」(閉店)と「おもろ」が贔屓だった。
その貘さんがこんなとぼけた詩を残している。

人の酒

飲んでうたっておどったが
翌日その店の名をきかれて
ぼくは返事にこまった
人の酒ばかりを
飲んで歩いているので
店の名などいらないのだ

ボクも貘さんのように、
できるだけ人の酒ばかりを飲み、
歌って踊って、いたずらに馬齢を重ね、
べんべんと生き長らえる覚悟であります。

日本国を愛し、朝日の新聞紙(しんぶんがみ)を憎み、
餓狼のような隣国どもとの断交を希い、
かつ死ぬほどおヒマな方は、
今後とも、倦かずにつき合ってくださいまし。
そのうち、きっといいことがあります。



←慢性的金欠病だった貘さん。
だからこそすばらしい詩が書けたんだろうな。
写真を見ると、豪壮なお屋敷に住んでいるみたいだけど、
軒先三寸を拝借して居候を決め込んでいるだけ。
貘さんは生涯お金に縁がなかった。
まるで誰かさんみたいだ。



2015年2月19日木曜日

天災歌手あらわる?

先日、NICKさんの伴奏で歌をうたった。ついでに録音もした。
ジャズっぽく歌ったのはFly Me To The MoonWhat A Wonderful Worldで、
他にはOver The Rainbowやジェームズ・テイラー&キャロル・キングの
You've Got A Friend、スティーヴィー・ワンダーのI Just Called To Say I Love You
それに中島みゆきの「時代」、ひばりの十八番「みだれ髪」などをたてつづけに歌った。

ピアノは幼少のみぎりからやってたもんで……」
というNICKさん。
(なにが〝みぎり〟だ、おにぎりみたいな顔してるくせに)、
と内心思っていたのだが、
「そうだったよね、お育ちがよかったんだものね」
と得意のおべんちゃらを連発。気持ちよく伴奏してもらうためには、
ひたすら忍従の一字。何度でも頭(こうべ)を垂れなくてはいけない。

ところがNICKさんの奥方K子ちゃんは、Fly Me To The Moonを取りあげ、
「play among the starsのstarはもっと口を大きく開けて濁らないようにするの。
私にはどうしてもstirって聞こえちゃう。それとin  other wordsだけど、wordsの
ズッがダメなのよね。ちょっと発音してみて。words、words、ウーン、まだダメだわね」
と、いやまあ、厳しいこと厳しいこと。さすがTOEIC満点だけあって、
へたな発音を耳にするとガマンできないタチらしい。

NICKさんの家はわが家から歩いて3分のところにある。
わが団地にはA棟からK棟まで全部で11棟あって、約1600世帯が住んでいる。
およそ5000人もいると、いろんな芸を持った人がいる。
もちろん英語の達人がいればフランス語やポルトガル語の達人もいる。
また医者もいれば弁護士もいるので、いざとなったら相談相手に事欠かず、
ほんとうに助かっている。

NICKさんとはかつてエレキバンドを組んでいた。
バンド名はちょっぴり自虐的なFlying Fossils(「空飛ぶ化石」の意)。
彼はキーボードで、ボクはヴォーカル&リズムギター。
他に天才肌のリードギター、後にプロになったドラマー、
そしてキレのいい低音を響かせるベースギターがいた(←全員この団地の住人です)。
ボクは技術的に一番ヘタっぴぃだったが、顔がよくて歌がうまい(←自分で言うな!)ので、
なんとかメンバーの一員に首の皮一枚でつながっていた。

NICKさんは「何でもござれ」と、どんなリクエストにも応えてくれる。
たとえド演歌でも、たちどころに合わせてくれるのだから、
さすがに「幼少のみぎりから」と豪語するだけのことはある。

歌っていてボクはしみじみ思うのだ。
(ああ、俺は歌手ではなく、なんで〝100円ライター〟なんぞになってしまったのだろう)と。
これは自慢なのだが、なんと言おう、実に惚れぼれするような声(容姿も)なのである。
(この美声だもんね、おばさんやおばあさんたちがキャーキャー騒ぐのもムリないわ)
ひとり、合点したものである。
俺ってもしかして生まれついての天才ヴォーカリストかもしれないぞ。
本気でそんなふうに思ってしまったのである。


←愛用のエレアコ。
見た目はサマになってるが、
技術的にはまだまだ未熟







そういえば先日、別の棟のIさんを前に弾き語りで「みだれ髪」を歌ったら、
Iさんは終始眼を閉じて聴いておったが(寝てたのかも)、聴き終わったら、
「ウーン……実にいい。心に沁みるとはこのことだね」
と、眼をウルウルさせておった。

本なんぞ書いてもちっとも売れず、印税なんてそれこそ目腐れ金(がねだから、
近頃は創作意欲が少しも湧かず、本よりCDを出したほうが売れるんじゃないか、
などとマジメに考えている。少なくと「きゃりーぱみゅぱみゅ」よりは数段マシだろうと
真剣に思っているのだが、レコード会社からはいまだにお声がかからない。
いったいどこに目、じゃない耳をつけてんだ!

野に遺賢なし」などというが、まだまだ〝遺賢〟は残ってまっせ。
いよいよとなったら動画サイトに投稿してみようかしら。
世界中から数百万回というアクセスがあったりして(うっとり)。




←わが〝おやじバンド〟の勇姿。
左端がNICKさんで、
中央のバンダナおじさんが
自他共に認める天才(天災?)ヴォーカリスト。
当時慶大生だったドラマーは今はプロに
なっている。この時の出演料はウン万円。
みんなで飲んじゃった








←NICKさんのかつての勇姿。
惜しい人を亡くし……
あ、いけねえ、まだ生きてた(笑)。



2015年2月15日日曜日

誕生日会は家族水入らずで

昨日はボクと長女の合同誕生日会。
同じ2月生まれで、誕生日も近いから、まとめてやっちまおう、
というわけである。場所は広尾の「ポンテ・デル・ピアット」というイタリアン。
誕生会で利用するのは2度目である。

雑誌記者をやっていた頃は、広尾や六本木界隈によく足を向けたものだが、
この歳になると、若者が多いお洒落な山の手より年寄りたちが蝟集する(笑)
下町のほうが性に合うようだ。理由は分からないが、若者より年寄りの
しゃべる日本語のほうが耳に心地よく、気持ちが落ち着くせいだろう。

広尾の駅を下りて、店に向かう途中、ある店の前で行列ができていた。
And The Friet アンド・ザ・フリット」という店で、どうやらベルギー発のフレンチフライ
の店らしい。メニューは12種類あり、6種の芋の中から好きな品種とカット法、
そしてディップソースを選ぶ。間口の狭い小さな店だが、大行列である。

また、その向かいには「油そば」の看板を出したラーメン屋があったが、
ここもまたすごい行列。スープの代わりにタレと油、酢、ラー油をからませて食べる
汁なしラーメンで、カロリーがラーメンの3分の1、塩分も2分の1だという。
ラーメン屋が百花繚乱というのは承知しているが、同じ麺でも他につけ麺があるし、
油そばもある。日本にはほんとうにいろんな店がある。

ボクは基本的に行列には並ばないようにしている。
どんなに食べたいものがあっても、行列の端に加わることはしない。
理由は「カッコわるい」からだ。なぜカッコわるいのだ、と問われても困る。
自分の中の何かが、行列に並ぶという行為を潔しとしないのだろう。

そんなことを思いながら目的の店に向かっていたら、
次女が後ろから声をかけてきた。相変わらずスレンダーで、
ちゃんと飯をたべているのかいな、とちょっぴり心配になる。
店に着くとすでに長女が待っていた。娘2人の笑顔を見ると、
なんだかホッとする。この2人がボクたちの娘でほんとうによかった、
としみじみ思う。最近、やたら感傷的になる傾向があるが、
歳を取った証拠だ。

ワインを飲みながらのコース料理。
どの一皿もなかなかどうしてけっこうな味だ。
難しい料理名があっても女房に訊けば何でも教えてくれる。
もっとも、すぐ忘れてしまうからムダな質問ではあるのだが、
フレンチとイタリアンにめっぽう強い女房がいると、
何かと便利であることはまちがいない。

この手のレストランで食事する時は、いちおう正装していく。
といってもジャケットを羽織るくらいで、下はジーンズなんてことも
よくあるのだが、女房は昔から「反ジーンズ派」で、この種の店では
ちゃんとしたズボン(今はパンツ?)をはいてくれとしつこく言う。
その剣幕に恐れをなし、昨日はしぶしぶ「おじさんズボン」をはいた。

ヨーロッパの星付きレストランを数十店取材して回った時、
たしかイタリアの3つ星レストランで食事をしていた時だが、
よれよれのジーンズにTシャツの若者が席に案内されてきた。
(なんだ、ラフなカッコウしてても店に入れてくれるじゃん……)
その光景を見た時、なんだか拍子抜けしてしまったものだが、
「じゃあ俺もやってみよう」とは思わない。やはりドレスコードがある以上、
場所柄をわきまえた服装というのも紳士のたしなみの一つだからだ。

ドルチェを食べ終わった頃、互いのプレゼント交換。
長女にはイアリング(次女の見立てです)を贈り、ボクは腰痛軽減用の
クッションと洗髪用ブラシをもらった。最近は腹筋と背筋、それに体幹を
ガンガン鍛えているから腰痛とはオサラバしたんだけどな……(と心の声
でも、ありがとうね。そのやさしい心根が嬉しいな。

こうして何か祝い事があるごとに顔を合わせてきた嶋中ファミリー。
6月になると、次女が男と(いちおう断り書きをする時代なもんでね)結婚してしまうため、
家族水入らずの食事会はこれが最後になってしまうかもしれない。
ウウウ……





←おいしい料理の数々。
ただどの皿も鳥がつまむのかというくらい
ポーションが小さいので、大食らいの
人にはやや不満かも。そんな人は帰りに
「油そば」の大盛りでも食べたらいい(笑)

2015年2月12日木曜日

ああ、哀しき白塗り

ボクは自著の中で《化粧の厚さと知性は反比例する》と書いたことがあります。
もちろん女性のことですが、残念なことに、この〝公理〟をみごと裏切ってくれる
ような女性に、生まれてこの方、会ったことがないのです(スミマセン)。

昔から厚化粧の女性を敬遠してきたためなのか、いや正確に言うと化粧という行為
そのものに嫌悪感を抱いてきたためか、極端な話、京の舞妓や白塗りの歌舞伎役者
でさえ軽侮の対象でありました。昔のチャンバラ映画でも、阪妻(ばんつま)などが活躍して
いた時代は、やはり主役の色男は白塗りべったりのメイクで、ボクはこのしっくいを
塗りたくったような顔が出てくると、ついクスリと笑ってしまったものであります。

貴種流離譚的な題材だと、貴種もしくは貴種もどきを白塗りにしてしまうのは
なんとなく分かるのですが、鈴木その子みたいに異様なまでに白塗りにした顔を見ると、
つい違和を感じてしまうのです。もっとも、明治時代の日本を縦走した英国人女性
旅行家・イサベラ・バードは、日本人の矮軀と顔つきの貧相さにひどく驚いている
くらいですから、いっそのこと顔全体を仮面みたいに白く塗りたくってしまったほうが
救われるのかもしれません。

舞妓ならぬ江戸期の吉原やそれに準ずる岡場所などで春をひさいでいた遊女たちは
なぜ顔や襟、両の手を白く塗ったのか。その答えは谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の中に
ありました。「照明」です。まだ電気がなかった時代の照明を想像してみてください。
歌舞伎の舞台でもロウソクやカンテラでわずかに舞台を照らしていたに違いありません。

近代的照明設備の明かり煌々たる舞台に立たせれば、いかな妖艶な女形でも、
男性的なとげとげしい線が目立つに違いありませんが、昔は暗さがそれを適当に
覆い隠してくれました。

《文楽の人形浄瑠璃では明治になってからも久しくランプを使っていたものだが、
その時分の方が今より遙かに余情に富んでいたという……なるほどあれが
薄暗いランプで照らされていたならば、人形に特有な固い線も消え、てらてらした
胡粉(ごふん)のつやもぼかされて、どんなにか柔らかみがあったであろうと、
その頃の舞台の凄いような美しさを空想して、そぞろに寒気を催すのである》

谷崎はさらに言います。
《美は物体にあるのではなく、物体と物体のつくり出す陰翳のあや、明暗にあると考える。
夜行の珠も暗中に置けば光彩を放つが、白日の下に曝せば宝石の魅力を失うごとく、
陰翳の作用を離れて美はないと思う》

『陰翳礼讃』の中にはこんな一条もあります。
《先年、竹林無想庵が巴里から帰ってきての話に、欧州の都市に比べると
東京や大阪の夜は格段に明るい。巴里などではシャンゼリゼエの真ん中でも
ランプを灯す家があるのに、日本ではよほど辺鄙な山奥へでも行かなければ
そんな家は一軒もない。恐らく世界じゅうで電灯を贅沢に使っている国は、
亜米利加と日本であろう》
この一文は昭和8年に掲載されたものですが、
昭和初期にして日本は〝光害〟をまき散らしていた、
というのですから驚きです。

ようやく謎が解けました。
花街の遊女たち、歌舞伎の女形、文楽の人形浄瑠璃、能楽の衣裳、
僧侶がまとう金襴の袈裟、そして金蒔絵が施された漆器類……。
それらすべてが、ぼんやりとした薄明かりの中に置いて初めて、
その美しさを発揮すると――絢爛豪華な模様も「闇」に隠してしまえば、
いい知れぬ余情が自然と生まれ出る。そこには一種の神秘性や
禅味さえも感じとれるのであります。

逆に言いますと、「光害」の国にあっては、舞妓も歌舞伎役者も白塗りメイクに
訣別し、近代照明の恩恵にあずかるような、ごく自然な化粧法へと転換すべき
なのではないでしょうか。そのことによって伝統を損なうとは到底思えないのですが、
みなさんはいかがお考えでしょうか。

一方、鈴木その子やデヴィ・スカルノ第3夫人などは、失礼ながら『陰翳礼讃』を
お読みではないのでしょう。読まれていたとしたら、テレビスタジオのあの
ケバケバしい照明の下に自らの醜い白塗り顔を曝すはずがありません。
もしも行灯のかそけき光の下であったなら、彼女たちもさぞかし複雑な
余情を醸したに違いありません。

厚化粧を好む女性たちは、思いきって電力事情の悪い北朝鮮に渡ったらどうでしょう。
闇が支配する国に置かれれば、必ずやその美が輝きを増すことでありましょう。
黒柳徹子に小林幸子、叶恭子に八代亜紀、そして美輪明宏にデーモン小暮閣下。
み~んな北朝鮮の将軍様の前で「喜び組」と共に妖艶な美しさを振りまいてくださいまし。





←あんまり礼讃したくはないオバサンですが、
ほのぐらい行灯の下に置けば、
にわかに輝き出すかもしれません。
ああ、白塗りバンザイ!

2015年2月2日月曜日

善意さえあれば何ごとも許されるのか

フリージャーナリストの後藤健二氏が無惨にも殺されてしまった。
外務省はシリアへの渡航を事前に察知し、何度も中止するよう要請したが、
叶わなかった。「退避勧告」を無視して殺されたのだから「同情の余地なし」とする
批判的意見も多い。ボクもその批判者の一人で、「自ら責任をとる」と公言した割には、
あまりに〝無責任〟過ぎる結果に終わった、という外ない。

一国の首相の外遊日程が変更を余儀なくされ、人質解放を最優先するあまり
重要案件の山積する国会審議もままならぬほどだったのだから、
彼らの死は相当高くついた。残された家族のことを思うと心中察して余りあるが、
ひとりのタックスペイヤーとしては、
(政府と国民にどれだけ迷惑かけたと思ってんだ、この大バカ野郎め!)
と死者にムチ打ちたい気持ちでいっぱいになる。

戦場におけるこどもたちの悲惨な実情を広く天下に知らしめたい――。
その燃えるような熱情と記者魂は見上げたものである。
しかしボクはあえて問いたいのだ。
動機が「崇高」で、そこにあふれんばかりの「善意」さえあれば、
何をやっても許されるのか、と。

どこかの大学教授は、
「援助を誇って国民を死なせ、、何が正義か!」
と、安倍首相による中東各国への人道支援を批判していたが、
的外れもいいとこだ。朝日・毎日といった反日新聞を読んでいると、
概ねこのような意見に染まりやすいのだが、こうした皮相浅薄な
考えを持った人間がけっこうな数に上るのだから、ほとほとイヤになる。


話はまったく変わるが、「漢字」の語源と成り立ちについて少し。
『字統』や『字訓』などで知られる漢字学の権威・白川静氏をご存じだろうか。
手元にある『字統』をぺらぺらめくっていたら、
漢字ってけっこう血なまぐさいものだな、とあらためて思った。

たとえば、「」という文字。『字統』にはこうある。
《異族の首を携えて、外に通ずる道を進むこと》
外界に通じる道は異民族や邪悪な霊にふれるところ。
だから厳重にお祓いをし、除霊しなくてはならない。
そのため、境界のところには呪禁(邪霊を祓うまじない)として
敵の屍を木にかけたり、敵の生首を埋めたりした。

」という字は横にわたした木に吊した(敵方の)死者の字形で、
」は木にかけた屍を木の枝などで打つ行為を表している。
屍のもつ呪禁の力をいっそう高めるため、異族との境界に置いた死体を
木の枝で叩き、呪霊を刺激することでパワーを増強させ、邪霊を追い払う。
この儀式を示す文字が「放」の意味するところなのである。
「放送」とか「放出」とか、日頃何気なく使っている「放」という漢字には、
こんなおどろおどろしい意味がひそんでいたのである。

もうひとつは「」という文字。
この意味は、戦場で倒した敵の左耳を切り取ること
たしかに「取」の字には左側に耳という偏(へん)がある。
戦功は切り取った耳の数で決まり、凱旋の折、その耳を廟に献じるのである。
これが転じて、ものを獲得する意となり、妻を娶る(女を取るの字形)意ともなった。

豊臣秀吉も朝鮮出兵の際、諸将に向かってこう命じたという。
「朝鮮に渡って、日本人の数ほど敵を殺し、耳を切って差し出せ」と。
兵たちは手当たりしだい敵を殺し、耳を切り、鼻を削いだ。
そしてそれらを軍功の証しとして秀吉に献上したのである。
これじゃあ秀吉が朝鮮人にきらわれるわけだ。

もっとも朝鮮人だってひどいことをした。
「元寇」は日本にとって最大の国難だったが、
元軍とはいえ、主力は高麗兵(朝鮮人)でモンゴル兵は指揮官だった。

高麗兵の残虐さには目に余るものがあった。
対馬に攻め入った高麗兵は老人や子どもを斬り殺し、女たちは生け捕りにして
全員手のひらに孔をあけ、縄を通し、船舷(ふなべり)につなげた。
後年、ベトナム戦争でも目を蔽わんばかりの残虐性を発揮したものだが、
高麗兵の子孫だと思えば少しも不思議なことではない。
彼らはベトナムの村々を次々と襲い、女性を強姦するだけでなく、妊婦の腹をさき、
こどもたちの首と手足を切断した。二言目には日本に向かって「正しい歴史認識を」
と説教を垂れる韓国だが、彼の地の歴史教科書には、この凄惨な事実が正確に
記されているのだろうか。

湯川氏や後藤氏が首を刎ねられたのは、まことに慚愧に堪えない。
が、イスラム国と称する〝ゴロツキ集団〟を残虐非道と糾弾できるほど、
われら〝先進国?〟の人間が文明化されているとは到底言いがたい。

殺された日本人の人質2人を〝大バカ野郎!〟と批判はした。
しかしそれでも彼らの霊を弔うくらいの〝善意〟は持ち合わせているつもりだ。
謹んで合掌。







←白川静先生の書斎。
汚らしいところはボクのと
そっくり。ご同慶の至りである