2010年4月23日金曜日

合い挽き肉系?

友人のNがわが家に駆け込んでくるなり、「定規と計算機ある?」
「いったい何をおっぱじめるわけ?」
「いいから、右手をパッと開いて」
やおら僕の右手をつかみ人差し指と薬指の長さを測りはじめた。
「おいおい、何すんだよ。そんなに引っぱったら痛いよ」
「うるせえな、肉食系か草食系かを調べるんだよ」
どうやら、どこかで仕入れたにわか知識を実地検証するらしい。

元ネタは竹内久美子(動物行動学者)の『草食男子0.95の壁
という本らしく、巷ではけっこう話題になっているという。

竹内女史に言わせると、右手の人差し指の長さと薬指の長さを比較した
「指比」は幼少の頃から変化せず、その数値を見ると、
成長期のホルモン環境がズバリわかるのだという。計算式は、
〔人差し指の長さ÷薬指の長さ=?〕というもの。

日本人の平均は0.95で、この数値が低いほどテストステロン(男性ホルモン)
のレベルが高いのだという。つまり、指比が小さければ小さいほど
生殖能力が高く、すぐれた男の遺伝子を保有しているということで、
すなわち「肉食度」が高くなるらしい。

「えっ? ウソ……0.91。たまげたなァ。肉食系も肉食系、超のつく肉食系だよ」

さて、ここでおさらいをするが、「草食系」とは協調性があり、家庭的でやさしいが、
恋愛には淡泊で、たとえ据え膳でもむやみに食いついたりしないタイプをいう。
「肉食系」はその反対で、女性に対しては果敢に攻めまくるタイプだ。
近頃は「鶏肉系」とか「豆乳系」などという新種も出てきている。
肉食系よりはあっさりタイプで、草食系よりやや積極的なのだという。
男のタイプにもいろいろあるようだ。

カナダの某研究チームは、男性は胎児の時に浴びたテストステロンの量が
多いほど〔薬指の長さ>人差し指の長さ〕になる、とする研究結果を発表した。
テストステロンをいっぱい浴びた人はより男性的で、右脳の発達が著しく、
芸能やスポーツの分野での才能に恵まれているという。

浅草公会堂のスター手形を測定したところ、肉食系としては
勝新太郎0.91、丹波哲郎0.91、高橋英樹0.90などが挙がったという。
ウソかホントか、僕は座頭市と並ぶ肉食系男子ということになるらしい。

たしかに据え膳は必ず食っちゃうし、他人の持ち物にも見境がないくらいだから、
肉食は肉食なんだろうけど、よき家庭人と自負もしてるから、
たぶん牛豚鶏肉などを混ぜてミンチにした「合い挽き肉系」なんだと思う。

ただディック・ミネが0.95、森繁久弥が0.99となると、この研究結果も
にわかには信じがたくなってくる。芸能界随一のスケコマシで鳴った
ご両者より僕のほうがスケベエだなんて……ンなわけないよね?

2010年4月22日木曜日

幸せ~って何だっけ何だっけ?

「国民総幸福Gross National Happiness」という言葉がある。
ブータンの第4代国王が提唱した理念で、簡単に言ってしまうと、
人間は物質的な富だけでは幸福になれない、というものだ。

国民総幸福という観点から実施された世界初の調査
(英国レイチェスター大学主催)によると、ブータン王国で
「あなたは今、幸せですか?」という質問をしたところ、
「非常に幸せ」が45%、「幸せ」が52%、「あまり幸せではない」が3%で、
世界全体での幸福度は第8位だったという。一方、日本はというと、
178カ国中の幸福度は90位、中国(82位)にも及ばなかった。

GNP(国民総生産)やGDP(国内総生産)は世界有数であっても、
幸せを感じていない日本人。世界最貧国の一つで、人口70万人にも
満たない小王国だけど、国民の97%が「幸せ」と考えているブータン人。
文明の発展とは何なのか、人間の幸せって何なのか。ブータン人の生き方は、
機械文明のただ中にいる我われに、さまざまな疑問を投げかけてくれる。

近・現代人は、産業革命以来、さまざまな機械を発明し、
便利で豊かな生活を追求してきた。が、時々立ち止まっては
「私たちは本当に幸せになったのだろうか?」と自らに問いかける。
そして『パパラギ』のたぐいを読んでは「感動した!」などと言い出すのである。

『パパラギ』はサモアの酋長がヨーロッパを旅し、
白人文明の矛盾をユーモラスに語った文明批評の書(フィクション)だ。
その要諦は、「メカニズムの進歩は人間の幸福とは何の関係もない」
というものである。つまりブータンの「国民総幸福」という理念も、
現代人をふと立ち止まらせる『パパラギ』の一種なのだ。

「少欲知足」「知足按分」と、ヒトが幸福になるためのヒントは、
いつだって用意されている。西洋にもHappiness consists in contentment.
(幸福は満足にあり)という諺がある。これらを実践すれば、今すぐにでも
幸せになれるというのに、もっとお金が欲しい、きれいなおべべを買いたい、
海外旅行に行きたい、美味しいものが食べたい、と欲望を次々とふくらませる。
そしてそれが叶わないと知ると、深い絶望感におそわれ、
「私はなんて不幸せなんだ」と首うなだれるのである。

ヒトは『パパラギ』に感動するが、それはあくまでポーズで、
南海の酋長の言葉を心底噛みしめ実践しようとはしない。
蛇口をひねればお湯が出てくるような生活から、非文明的な生活に
戻るなんてことは決してしないものなのだ。で、時々、思い出したように
「豊かにはなったけど、心の中はカサカサ……」などと呟いては、
癒しを求めて再び三度『パパラギ』をひもとくのである。

2010年4月15日木曜日

愛が世界を救うってか?

鳩山お坊ちゃまのマヌケな顔がますます鼻についてきた。
テレビにあの不気味な、焦点の定まらない、火星人みたいな目をした男
が出てくると、すぐにチャンネルを変えることにしている。日本人はあんな男しか
長に戴けないのか、と思うとほんとうに情けなくなる。

元産経新聞論説委員の花岡信昭氏が、永田町で流行っているという
戯れ歌を紹介してくれた。
《永田町には奇っ怪な鳥が1羽いる。アメリカ人にはサギ、中国人にはカモ
と見られているが、本人はハトだと言っている。しかし日本人にはガンだと
思われている》

何度も言うが、外交というのは、にこやかに握手を交わしながら、
テーブルの下では互いに足を蹴飛ばし合う行為をいう。しかるに、
あの温室育ちのお坊ちゃまは、「友愛」をポリシーに掲げ、テーブルの下でも
足をやさしくからめ、相手の膝小僧を撫でさすりたいと考えている。
この男は、Love will save the world.(愛は世界を救う)――まるで統一教会
のお題目みたいなことを恥ずかしげもなく唱え、世界中の失笑を買っているのだ。

米ワシントン・ポスト紙の人気コラムでは、核安全サミットにからめて、
こんなふうに鳩山のお坊ちゃまをこきおろしている。
《このショーの最大の敗北者は断然、不遇でますます頭のいかれた
(hapless and increasingly loopy)日本の鳩山由紀夫首相だった》

鳩山首相に冠された言葉は、《a rich man's son》というもの。
「ますます頭のいかれた」の評価は、「オバマ政権高官たちの評価」だという。
政権高官の評価がそれなら、オバマの評価も辛口に決まっている。

ああ、だれかこの悲しいピエロを壇上から引きずり下ろしてくれ。
日本の栄誉と、日本人の尊厳を守るために。
 

2010年4月9日金曜日

よっこらしょっ党

「たちあがれ日本」がついに立ち上がった(みたい)。
平均年齢は70歳(四捨五入で)。声はかすれ、目はかすみ、
足がもつれ、かろうじて二足歩行しているという印象だが、
老骨にムチ打ち、新党を結成した心意気をまずは諒としたい。

口さがない者たちは、「立ち枯れ日本」だの「たそがれ日本」、
はては「家出老人党」「日本ポンコツ党」「新党ろうがい」などと
言いたい放題。ケッサクなのは「よっこらしょっ党」なんていうのもあった。
ずいぶんおちょくりバカにしたものだが、老人たちが掲げる政策綱領は
それほどバカにしたものではない(と思う)。

まず「真の保守再生」が党の理念ということらしい。
政策の中には、自主憲法の制定や所得税、法人税の見直し、
消費税の値上げといったものがある。今まで自民党が先送りしてきた
ものばかりで新味はないが、これをやらないと日本が危うくなる。
個人的には相続税の見直し(税の二重徴りだから原則廃止すべき)
も加えてほしいところだ。

「たちあがれ日本」と命名したのは石原慎太郎だという。
『太陽の季節』であの衝撃的な〝障子破り〟のシーンを描いた
彼らしい命名だ。が、この新党に結集したロートルの面々では、
ティッシュペーパーでさえ破ることができないだろう。
そもそも〝息子たち〟が立ちあがれるかどうかもおぼつかない。

左翼進歩主義者たちは、老残の右翼ナショナリストたちが
集団で家出した、などと囃し立てている。ある女性評論家は、
「愛国主義はゴロツキの最後の拠りどころ」と英国はサミュエル・ジョンソン
の言葉を引用し、老兵たちをゴロツキと決めつけた。

ジョンソンの原文はPatriotism is the last refuge of a scoundrel.
中国共産党政権は、しばしば愛国主義を鼓吹し、
反日運動を燃え上がらせるのを常套としている。ジョンソンがいうように、
たしかに愛国主義はゴロツキたちの最後の砦になり得るのだ。

しかし、たとえ老残の愛国主義であっても、売国主義よりは数段ましだ。
僕がポンコツの愛国者たちにエールを送る由縁である。

2010年4月8日木曜日

食文化を考えるのココロだァ~

和歌山県太地町のイルカ追い込み漁を盗撮した『ザ・コーヴ』
が第82回アカデミー賞のドキュメンタリー映画賞を受賞した。
イルカについては「カンガルー肉を考えるー」(1/10日付)
ですでに述べたとおりで、エスノセントリズム(自国文化中心主義)が
首をもたげてくるとロクなことにはならない、とあらためて思う。

映画の中には、海を赤く染める残酷シーンが登場するだけでなく、
イルカ肉が鯨肉と詐称して売られたり、肉は水銀に汚染されている、
といった事実(漁民たちは否定)も告発されているという。

この映画を見た中国人たちも、インターネット上で「日本人は残酷だ」
などと書き込みをしているらしい。これには笑った。
「あんたら中国人だけには言われたくないね!」
大人気ないかもしれないが、中国人の〝おぞましい美食〟
の伝統に想いを馳せると、つい憎まれ口の一つも叩きたくなってしまう。

A long time ago,斉の桓公のお抱え料理人に易牙という者があった。
年来の美食に飽きた桓公は、ある時、易牙を前に
「人の肉というのはどんな味がするものかのォ?」とふと呟く。
そこで桓公の意を察した易牙は幼いわが子の首を落とし、
蒸し焼きにして捧呈した、という実話である。
歌舞伎の『先代萩』みたいな話だ。

中国における「喫人」の歴史には筋金が入っている。
最も盛んだったのは唐代で、戦乱や飢餓による
やむにやまれぬ喫人もあったが、趣味や嗜好で
人を食べるという習慣も実は根強くあった。

市場では人肉は「両脚羊(2本足の羊)」などと呼ばれ、
鈎に吊され売られていた。『資治通鑑』には犬の肉よりも安かった
(狗肉が1斤500銭に対して人肉は100銭)との記述があるから、
味はそれほど上等ではなかったのだろう。
羊頭狗肉どころか「狗肉を掲げて人肉を売る」の図だ。

もっとも女性や子供、酔っぱらいなどはうまかったらしく、
酔っぱらいの肉などは粕漬けの豚肉と同じくらい美味だった、
との記述もあるから、いかにも食にこだわる中国人らしい。
黄巣の乱の時などは、人肉用の食肉工場まであって、
数百の臼で良民をギシギシと生きながら砕き、骨ごと食べたという。
「アンデスの聖餐」どころの話ではない。

喫人・食人の伝統は実は中国以外にもあって、
つい7年ほど前の話だが、アフリカはコンゴのピグミー族の代表が、
国連の先住民フォーラムの会場で、「どうか、われわれを食わないでくれ!」
と世界に向けて訴えたことがある。

コンゴ民主共和国では久しく内戦が続いていたが、その間、
森林地帯で狩猟生活を営んでいるピグミー族の人々は
「獲物」として狩られ、食用にされていたという。食べていたのは、
政府軍側と反政府軍側で、彼らに言わせると、矮軀のピグミー族は
とても人間とは思えず、「人間以下のモノ」だから食用にして当然なんだという。
また彼らはピグミー族の肉を食べれば不思議なパワーが授かる、
と信じていたらしい。

21世紀に入っても喫人が行われていた、という事実にまず驚くが、
食べた側にしてみれば、「これは昔からの伝統的な食文化なのだから、
ほっといてくれ!」という理屈なのかもしれない。
イルカやクジラを食べるのは日本民族の食文化なんだから、
外国人がとやかく言うな、というのと、これも同列の理屈なのかしら?

それともピグミー族は「イルカと同じ賢い動物?」なのだから、
食べてはかわいそう、ってか?

2010年4月6日火曜日

天保老人の繰り言

人間を2種類に分ける。これが人間理解の近道だ、
としたのは辛口コラムニストの山本夏彦である。
美人か不美人か、ノッポかチビか、捕まえる人か捕まる人か……。
夏彦の弟子を自任する僕も、もちろん師に倣っている。

見れる出れる、の「ら」抜き言葉を使う人か、そうでないか。
「愛する」という言葉を平気で口にする人か、そうでないか。
「地球にやさしい」などと言うエコ人間か、そうでないか。
ラーメンのために行列に並ぶ人か、そうでないか。
「肉ジャガ」をおふくろの味とありがたがる人か、そうでないか。
相田みつをの人生標語が好きな人か、そうでないか。
朝日新聞を愛読している人か、そうでないか……etc。

キリがないからやめるが、もちろん僕は後者の側で、
できれば残り少ない人生を、省エネの見地からも
後者のグループの中で心安らかに送りたいと思っている。
言葉は僕にとって生理そのものだから、
生理になじまないものは迷わず拒絶することにしている。

「私って、面食いじゃないですか~」
こんなふうに「じゃないですか~」を連発する人がけっこういる。
どこか押しつけがましい響きがある。僕は意地悪く、
「知らんがな、そんなもの」と突っ込みを入れたくなるのだが、
そこはぐっとガマンする。
「お友達とかに言われて、とりあえずそうかな、みたいな……」
「友達以外の人ってどんな人なの?」
「いえ、友達とかひとりなんですけど……」
「…………」

ああ、「ら」抜き言葉のない世界は美しかった。心地よかった。
できるなら美しい日本語を話す人々といっしょに暮らしたい。
奇妙な日本語を操る人たちは、自分に自信がないのか、
それとも心に傷を負うのが恐いのか、すべてを曖昧にぼかし、
「あたし、こう思うんだけど……」といった意思表示を極力避けようとする。
そのため、何が言いたいのかさっぱり伝わってこない。
癇癪持ちの僕などは、ついイライラしてしまう。

「でもお父さんとかも、けっこう曖昧に言うときがあるじゃん」
娘が上目づかいに反発したことがある。
「おまえのお父さんは『オトウサントカ』ではない。唯一無二のオトウサンだ!」
そう、天上天下唯我独尊の「オトウサン」なのだ、
な~んてムリに強がって、失笑トカ買ったりするみたいな~。

2010年4月4日日曜日

『冬の蝿』から「五月蠅」に

  ♪花は散りても 春また咲くが 人に来世はあるものか 
   ハテ、ゆめのゆめの夢の世を うつつ顔して何しようぞ
   一期は……一期はゆめ、よ    チトン、チトシャン……

これは〝えんぴつ無頼〟を自称した竹中労が、少年の頃
「アラカンの他に神はなし」と憧れた嵐寛寿郎へ捧げたオマージュである。
   
   色は匂えど 散りぬるを 吾が世たれぞ 常ならむ

わが家のバルコニー越しに小学校の校庭の桜が見える。
テレビでは千鳥ヶ淵の桜が満開になったと報じていた。
この季節、わが家は市内の樹林公園へ毎年花見に行く。
弁当とワインを1本ぶらさげ、枝振りのいい桜の樹を見つけたら、
ゴザを敷きのべ、しばし花見酒を楽しむ。

しかし今年は、ハテ、どうしよう。
脚をケガしていて、とても公園までは歩けない。
車椅子で観桜と洒落てもいいけれど、気分はすでに萎えている。
もともと花より団子のクチで、ほんとうは桜などどうでもいいのだが、
われら日本人が「桜、サクラ」と大騒ぎする気持ちはわからないでもない。

桜の樹の下には屍体が埋まっている! これは信じていいことなんだよ。
何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか》

これはご存知梶井基次郎の『桜の樹の下には』の冒頭の一節だ。
青春期に、この作品を読んで病的な主人公(作者でもある)の資質に
同類に似たニオイを嗅ぎとり、深くのめり込んだことがある。

あの頃は、とにかく精神が不安定だった。
劣等感のかたまりがそのまま着物を引っ被っているようなもので、
この世の中を渡っていく自信がまるでなかった。
現実に押しつぶされそうな自分を必死に支えていた。

どうやって生きていったらいいのか、
自分の精神が憩える場所はあるのか、不安で一杯だった。
手探りで生きている時、ふと手にしたのが梶井のこの小品で、
『檸檬』『冬の蠅』などという一連の作品を夢中になって読んだ憶えがある。

僕は死んだように生きている「冬の蠅」そのものだった。
そしてあれから幾星霜。腺病質の少年は、ごっついおじさんに変身した。
桜の樹の下には屍体が埋まっている、とするイメージに共感した
柔らかな感性をもった青年は、もうどこにもいない。
そこに憮然とした顔で突っ立っているのは、
もののあはれを感じとるセンサーが著しく鈍磨した、
ただの説教臭いおやじだけである。

生きていくことがあれほど困難に思えたのに、
四十路を越えた頃になると、図々しくも
(あの頃の悩みって、いったい何だったの?)
と過去を悠然と、また他人事のようにふり返っている。
心は軽くなったけど、これって進歩なの? それとも退歩? 
まさに、ゆめのゆめの夢の世……。
うつつ顔して、サテ、何して生きていこう。