2010年10月30日土曜日

ヒラメ顔が好き

仏人留学生のAlexiaは自身がコーカソイド(白色人種)のくせに、
白人顔の男の子は苦手(見飽きてる?)のようで、
「ボーイフレンドは絶対日本人がいい」と、凹凸の少ない
扁平なモンゴロイドの顔を絶賛している。趣味がちょっと変なのだ。

というわけで、モンゴロイド顔の典型でもある僕は、ある種の安堵感に
満たされながら、日々、彼女と接しているわけだが、同じ人間でありながら、
どうしてこんなに見てくれが違うのか、不思議でならない。

以前、アメリカのレストラン事情を視察するためのツアーに参加したときの話。
頭のはげ上がった冴えないオッちゃんがバスの運転手をつとめてくれたのだが、
ある晩餐会の夜、そのオッちゃんも正装して参加することになった。

これがみごとな変身ぶりで、威風あたりを払うような存在感があった。
正直「負けた……」という感じだった。オッちゃんのほうが主賓で、
貧相な体格の我われのほうが、まるで運転手のように見えたのである。

彼らは数百年も洋服を着ていて、からだが服によくなじんでいる。
が、日本人の洋装は実質まだ百年にも満たない。
どこかチグハグで不釣り合いに見えるのはそのせいだろう。

日本の歴代首相も、各国首脳の集まるサミットなどに参加すると、
体格の貧弱さと押し出しの弱さで、どうしても見劣りがする。
それならいっそ、背広なんぞ脱ぎ捨てて、袴羽織で出席したらどうか。
胴長短足の我らが体型は、和服を着てはじめて生き生きと躍動する。

今日はあいにくの雨。慶應志木高校の文化祭に行って、
イケメン男子を物色するつもりだったAlexiaは、
行くべきか行かざるべきか、今、深刻に悩んでいる。

モンゴロイドの若者たちよ、勇気ある者は、この奇特な白人少女の
ボーイフレンドになってはくれまいか。顔がヒラメみたいに扁平であれば
あるほど、「カワイイ」といってくれるのだから、遠慮することはない。
Bonjour!(こんにちは)と一声かけてやってほしいのだ。

2010年10月24日日曜日

身を捨つるほどの……

自衛隊の観閲式を見に行った。
元自衛官のプール仲間から招待チケットを2枚もらったのである。
で、さっそく僕と同じく元軍国少年のS君と連れ立ち、
目と鼻の先にある陸上自衛隊朝霞訓練場へいそいそと出かけたのだ。

用意された席は観閲官(菅総理)の席にほど近い、相撲で言えば
砂かぶりともいうべき上席で、観閲部隊をつぶさに観察することができた。

徒歩部隊の行進は圧巻だった。とりわけ防衛大学校学生隊や空挺部隊が
勇ましく、陸海空の女性自衛官部隊も負けず劣らず凛としていた。

軍隊行進というと、今月10日に行われた北朝鮮の軍事パレードを思い起こさせる。
北鮮軍のそれは膝を曲げずにまっすぐ伸ばし、足を高く上げるという、
いわゆるガチョウ式行進(英語ではgoose-stepという)というもの。
旧ナチスや旧ソ連といった独裁的、全体主義的な政治体制の国で
多く採用された行進スタイルである。

ガチョウ式行進の利点は、視覚効果が高く式典映えのするところ。
北鮮のニュース映像を見ても、怖気をふるうくらい迫力がある。
ただ、行進する兵隊はさぞ大変だろうと同情したくなる。
実際やってみればわかるが、膝を伸ばしたまま足を高く上げて行進するのは
並大抵ではないのだ。だいいち、
失敗して隊列を乱したりしたら処刑されてしまうかも知れない。
やっこさんたちの形相も必死だ。

兵隊たちの固く引き締まった鋼のような肉体に引きくらべ、
壇上で手をふる金正日・正恩父子の醜く太った体つきときたら……。

そういえば戦後間もない頃、全国各地に食糧デモが巻き起こったことがある。
皇居前広場のプラカードの中には、
《朕はたらふく食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね》
なんていうのもあった。哀れこのプラカードの主は、
不敬罪で訴えられてしまったが、この文言、
そのまま、キタのバカ父子に見せてやりたいものだ。

さて、わが自衛隊の行進だが、威圧感こそないが、スマートで洗練されている、
というのが第一印象だ。オモチャの兵隊に見えなくもないが、文句なしに美しい。
見ているだけで心が洗われるような美しさなのである。

一方、菅総理大臣の訓示は、相変わらず迫力を欠いていた。
北朝鮮と中国の軍事的脅威を名指しで指摘したのが、
唯一評価できる点だろうか。

今年は日米安保条約改定50周年の年。
米軍機の祝賀飛行もあって気分を盛り上げてくれたが、
防衛意識の希薄な民主党政権で、ほんとうに国の安全が守れるのか。
軍人(海外青年協力隊ではないぞ)の誇りが守れるのか、いささか心もとない。

観閲式に行ったなどと云うと、すぐ右翼だ軍国主義者だ
などとレッテル貼りをするおバカさんがいるが、反論するのもアホらしいので、
ここはあえて沈黙する。福澤諭吉はこんなことを言っている。
《独立の気力なき者は、国を思うこと深切(痛切なこと)ならず》と。

2010年10月20日水曜日

羊のような日本人

イギリスの元首相・マーガレット・サッチャーはこう云った。
《私は議論好きだ。論争を愛してさえいる。ただそこに座って、
私に賛同するだけの人間など少しも必要としていない。
彼らの果たすべき役割はそんなことではないはずだ》

憧れの日本へ来て、ちょっぴりガッカリなのは高校の授業が退屈なこと、
と留学生のAlexiaは云う。一方的に先生がしゃべり、生徒は黙ってノートをとる。
あるテーマをめぐって、教師と生徒が丁々発止とわたり合う、
なんて場面はついぞ見られない。いま評判の『ハーバード白熱教室』
のようなエキサイティングな授業風景はのぞむべくもない、というのだ。

Alexiaの嘆きを聞いたときに思ったのは、
(学校の授業というのは、昔も今もちっとも変わってねえな……)
という諦めにも似た思いだった。Alexiaは云う。
「ただ先生の云うことを書き写してるだけでは、自分の考えが育たない」
お説ごもっともであります。そもそも主体的な考えというものは、
言葉にしてしゃべったり書いたりしないことには輪郭が定まらない。

しゃべることよりまず書くこと。漠然と思っている考えも、
書くことによって、くっきりとした像を結び、自分の考えとして定着してくる。

日本人は議論下手とよく云われる。当然だろう。
もともと《和を以て貴しとなす》の精神が、聖徳太子の時代から
連綿と受け継がれてきている。自己を主張するより互いの協調性を
保つことが最も大切であると教えられてきているのだ。
いやむしろ、和を尊ぶDNAが日本人の精神のコアを形成している、
と云ったほうがいいかもしれない。議論下手は日本人の宿痾なのだ。

しかし、この間の日中関係のすったもんだを見ると、
いつまでも《和を以て貴しとなす》と澄ましているわけにもいかなくなる。
謙譲の美徳がいっこうに通じない相手に対しては、
やはりサッチャー流の“I love argument, I love debate.”という
荒っぽい精神が必要に思えるのだ。

日本人が一朝にして議論好きになることはあり得まいが、
一留学生が嘆くような受け身の授業を続けている限り、
悪擦れした中国人やロシア人にはとうてい太刀打ちできないだろう。
ここが思案のしどころか。

2010年10月17日日曜日

Alexiaの秋

留学生のAlexiaと二人で浅草に行った。仲見世通りは
相変わらずごった返していて、英語、中国語、韓国語などが
にぎやかに飛び交っていた。ガイジンばかりである。

渋谷とか原宿とか、どちらかというと若者の集まる街が
お好みのAlexiaに、さて浅草はどうかとも思ったが、「一度は見てみたい」
というものだから、定番スポットでもある町をあちこち案内してやった。

とってもシャイな女の子、というふれ込みだったはずだが、
意外や意外、けっこうなおしゃべりで、電車内でもぶらぶら散歩の
間じゅうも、ずっとしゃべり続けていた。

女子高校生らしくファッションだとか、音楽、芸能の話かと思いきや、
中身はほとんど政治や経済の話ばかり。フランス・サルコジ政権のダメさ加減や
左派社会党の不人気ぶり、そしてフランス経済の停滞、若者社会の荒廃、
いじめ問題など、いやしゃべるわしゃべるわ……。

で、最後には「フランスはきらい。フランスの男の子はサイテー。日本がいい、
日本の男の子はカッコいい、わたし絶対日本に住む」で必ず締めくくられる。
こっちとしては悪い気はしないが、惚れた欲目なのだろう、何でもかでも
よく見えてしまうというのは、ちょっぴり気の毒な気もする。

それにしてもフランスの若者はどうしてこんなに政治への関心が高いのか。
僕らの世代からすると、つい1968年のパリ「5月革命」を思い出してしまう。
あの時のstudent powerはものすごかった。

『ル・モンド』紙を隅から隅まで読むというAlexia。
「フランスはだめな国になってしまった」としきりに嘆くが、
フランスのことを愛するがゆえの慨嘆であることは、
容易に理解できる。それだけに、なんだかとても痛ましい。

せっかくの浅草見物だったが、往きも帰りもずっと議論のしっぱなしで、
どこをどう歩いたのかあまり憶えていない。こんな若い女の子と、
熱く政治を語り合ったのは生まれて初めて。歩き疲れてしまったけど、
心地よいけだるさが僕の全身を覆っていた。

2010年10月15日金曜日

ニッポンびいき

昨日からフランス人の女子高生をあずかっている。
名前はAlexia。ちょっぴりシャイな、可愛い子だ。
日本にずっと憧れていて、高校留学という形で
ようやく夢が叶ったのだ、という。

好きな歌手は浜崎あゆみと宇多田ヒカル。
フランスにいた頃から宮崎駿の『となりのトトロ』や『もののけ姫』
に魅せられ、岸本斉史の漫画『NARUTO』に熱中していたという。

「フランスの若者たちは、みんな日本が好き。私のオトーサンは
sushiも自分でにぎります」とAlexia.

ここまで褒めちぎられると、かえって恐縮してしまい、
尻がむず痒くなってくる。最初は外交辞令的なお世辞だろう、
と話半分に聞いていたが、話しているうちに、だんだんホントに思えてきた。

「フランスの男はきらいです。日本の(男子)高校生はカッコいい」
と、なおも褒めまくるAlexia。僕なんか、あの日なたのモヤシみたいに
ボーッとした日本の若者のどこがいいのか、といぶかしく思うのだが、
彼女はもともと草食系好みらしく、現代ニッポンの
〝柳腰(仙谷官房長官のマネ)〟の男の子が殊のほか肌に合うようだ。

それにしても、日本のことをこんなに好きになってくれるなんて、
なんだか狐につままれたような気がしないでもないが、褒められれば
やっぱり悪い気はしない。以前のブログで、
《フランス人さえいなければ、フランスという国は最高なのに》
なんてイヤミを書いてしまったが、百万人に一人くらいは優しい心根の
フランス人がいるのだ、ということがよーく分かった。

「梅干し以外はぜーんぶ好き」という日本食びいき。
昨夜は手抜きをしてカレーライスでごまかしてしまったが、
今夜はさて、どんなおかずを作ろうかしら。隠し味に
こっそり梅干しを入れたりなんかして……。

2010年10月9日土曜日

一炊の夢

20年も料理を作りつづけていると、いささか厭きる。
金に糸目をつけなければ、満漢全席だって作れないこともないが、
なにせこの不景気である。食費に金はかけられない。

バブル時代の再現を夢見るのは愚かなことだが、こう景気が悪いと
あの気狂いじみた浮かれぶりが、かえって懐かしくなる。

地球を1週間で回ってくれ、と某新聞社系の雑誌社に頼まれたことがある。
金にあかせて大名旅行をやってくれ、というような優雅なものではない。
詳しい中身は忘れてしまったが、たとえば月曜日にバイカル湖のA地点に立ち、
水曜日にはマダガスカル島のB地点に立つ。

指定された場所に立っていると、見知らぬ男(女もある)が近づいてきて、
紙切れを渡される。その紙切れには次に行くべき場所が書かれている。
守るべき条件は、どんな乗り物を使ってもいいから決められた場所に
時間どおり到着すること。そして1週間で地球をひとまわりする。
その一部始終をおもしろおかしく読み物にまとめてくれ、という依頼である。

今から思えば、何というバカバカしい企画だろう、と思う。
カネ余りになると、人間はここまで愚かなことを考えるのか、
という見本のような企画である。でも、あのバブルの時代は、
こんな呆れ返ったような企画が目白押しだった。

僕は体よく断った。行かなくてよかった、と今でも思っている。
バイカル湖のA地点といったって、ピンポイントで場所が特定されている
わけではない。

「ただ湖の畔に立っていればいいんです。行けば分かりますよ、ハハハ……」
と、雑誌の編集長はのんきに笑うのだが、なんだか気味が悪い。
だいいちロシアなんて行ったことはないし、英語だってろくすっぽしゃべれない。
バイカル湖の畔に着くまでに、たぶん迷子になるか遭難してしまうだろう。

またヨーロッパの星付きレストランを数週間にわたってはしごしたこともある。
金は使い放題。毎夜、高価なワインをばんばん空けた。
どうせ俺のカネじゃない、と思えば、人間の精神は限りなく堕落し、
欲望のおもむくままに行動する。人間がだんだんケモノ化していく。

思えばあれは〝邯鄲の夢〟だった。覚めてみれば、
まるで夢幻のごとくに思えてくる。

     世の中のカネと女は仇なり。どうか仇にめぐり合いたし

こんな〝夢〟を見ているうちが花か……

2010年10月4日月曜日

「粛々と…」は聞き飽きた

あの鳩山のお坊ちゃま(ハトではなくサギ、カモとめまぐるしく変身し、
最後はガンで終わった)を大将に担いだオメデタイ政党である。
トップの顔がガンからカンに替わっても体質は何ら変わることはない。
その証拠が、尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件から
派生した一連の外交的失態と敗北である。

一歩後退したら、相手は必ずその隙間を埋めるべく歩を進めてくる。
二歩後退したら、三歩も四歩も攻めてくる。これが外交のリアリズムなのに、
ノーテンキな鳩山のお坊ちゃまは、東シナ海を「友愛の海にしましょう」
などと提案し世界の失笑を買っただけでなく、
沖縄から米国海兵隊を追い出そうとまでした。
自分で自分の身も守れないのに、タダ飯食いの番犬など要らない、
と大見得を切ったのである。

その結果が今回の一連のドタバタ劇である。尖閣諸島に「領土問題など存在しない」
といいながら、対外的には「領土問題がありそうだ」という印象を与えてしまった。
結果的に声のでかい隣人(中国やロシア)の主張が通る、
というのでは、外交不在といわれてもしかたがない。

『君主論』で知られるマキアヴェリの人間観は実に単純なものだ。
要約すれば「人間はみな悪党だ」というに尽きる。
そこにはいかなる種類の感慨もなく、およそ空想といったものも存在しない。
目に見えたままの人間を語ろうとしたら、「みな悪党だ」という結論に至り、
そのことを遅疑なく言い放ったのだ。

民主党政権に言いたいのは、「健全なリアリストであれ」という一言だ。
「平和」だとか「友愛」だとか、いたずらに観念の符丁を振りまわすのではなく、
リアリズムに徹してくれ、と言いたいのだ。

政治を空想化してはならないし、イデオロギーの対象にしてもいけない。
必要なのは空想を交えない、リアリストによる確実な一手だ。

この間の民主党政権による外交的失策によって、
日本国民のストレスは爆発寸前にまで高まっている。
そしていまだに、鬱憤のはけ口を見出せないまま、
気ぶっせいな日々を送っている。

僕もふさぎの虫に取りつかれた者の一人だが、首相官邸外務省自民党
(クリックしてください)へはしっかり抗議のメールを送っておいた。
僕一人では何の力にもなり得まいが、それが幾千幾万の声となれば、
少しは政治を動かせるかもしれない。the Silent Majority(声なき民)が
いまこそ沈黙を破る時なのだ。

あの盗っ人猛々しい隣国にも、もちろん抗議の手紙文を送ったが、
相変わらず梨のつぶて。それでもめげずに抗議文を送り続けるつもりだ。

学生運動の華やかなりし頃、良くも悪くも若者たちは政治に関与したが、
今は見る影もない。student powerなど幻想で、薬にしたくともありはしないのだ。
嘆かわしいことだが、これもまた現実だ。

僕のブログを読んでくださっている人たちに一言。
健全な愛国者(nationalistではなくpatriot)を自任するのであれば、
黙して語らずというのではなく、どんな形であれアクションを起こしてほしい。
事なかれ主義こそが他国の侮りを招くのである。

ささやかなものでいい、自分の主張をカタチに表すのだ。
幸い、インターネットという情報発信装置が手もとにある。
中国はそれを巧みに世論形成の道具に使っている。

政治家どもの「粛々と……」を待っていたら日が暮れてしまう。
中国やロシアの横暴をただ指をくわえて見ているだけではだめなのだ。
悲しいけれど、うるわしき謙譲の美徳が通用するような相手ではない。
「無理が通れば道理引っこむ」では、世の中、真っ暗やみでございます。