2011年8月29日月曜日

自由について考えるのココロだァ

さあ、何でも好きなものをキャンバスいっぱいに描いていいよ、
遠慮することはない、はみ出したっていいんだから――。
いわゆる〝自由画〟と呼ばれるもので、子供の欲するままに
絵を描かせ、個性や創造性をのばそうという美術教育運動の
ひとつである。

タブローTableauは一見、不自由なもののように思える。
「枠」というしばりを取っ払ってしまえば、精神は自由に飛翔し、
かつて存在しなかったほどの創造性あふれる絵が描けるのではないか――
誰もがふつう、そんなふうに考えてしまう。

しかし実際は違う。しばりが無くなると精神の光輝が逆に失われてしまうのだ。
なぜなら、「不自由」の中に画家の精神が押し込められて初めて、
浮かび上がってくるものが光輝というものの本質だからだ。

「産経抄」にしろ「天声人語」にしろ、800字という〝しばり〟があるからこそ、
コラム子の精神が自由に躍動することができる。限られたマス目の中に、
わしづかみにした本質をいかに定着させるか――そこが腕の見せどころだ。

もしも800字という〝束縛〟や〝不自由〟がなかったら、
散漫でしまりがなく、中身の薄いマヌケなコラムになってしまうだろう。
古人は《絵の本質は額縁にあり》と云ったものだが、
なるほど何らかの束縛があって初めて本当の自由があるのかもしれない。

福田恆存曰く、《結婚という束縛がなければ〝浮気〟もできない》
独身者の女遍歴には真の自由はなく、結婚という桎梏(手かせ足かせ)の
中にこそ自由がある――とまあ、たしかに正論を吐いているのだが、
凡夫匹夫の悲しさか、他人の女遍歴をつい羨んでしまう。

話変わって韓国・大邱で開かれている世界陸上。
男子100メートル決勝で、世界記録保持者のウサイン・ボルトが、
なんとフライングを犯し一発退場を食らってしまった。

世界陸上の最大の華であり見せどころ、料理で云えば前菜がずっと続いた後の、
いわば最大のお楽しみでもあるメインディッシュが、いきなり目の前で取り上げられ、
生ゴミとして廃棄されてしまったような状況である。
観客としては「カネ返せ、バカヤロー!」と叫びたくもなる。

いくらきれい事を並べても、商業目的の見世物であることには違いがない。
となれば顧客第一。客を喜ばせるサービス精神があってもバチは当たるまい。
「一発失格」のルールはルール。誰であっても例外はない、とは国際陸連の弁。
「ルール厳守も、ここまでやると自分の首を絞めることになる」という声が出てくる
のも、致し方ないことか。

ルールという名の「しばり」をどこまで許し、どこで線引きをするか。
ボルト失格という〝事件〟は、「自由」と「不自由」について
いささか考えさせるところがあった。

ああ、それにしても、ボルト抜きの決勝だなんて、
ヘビの生殺しにあったようなものだ。
てめえ、この薄バカの、アンポンタンの、タマなし野郎の、
コンコンチキの、すっとこどっこいの※○◎△☆♂♀……←ののしってる







2011年8月23日火曜日

飲酒 So what?

夏の全国高校野球選手権で準優勝した光星学院(青森)の野球部員3人が、
去年の12月、帰省中にそれぞれ飲酒したとして停学処分を食らってしまった。
高野連の某エライさんは、「事実であれば言葉が出ない」と呆れているという。

ボクもこのニュースを聞いて呆れてしまった。
もちろん酒を飲んだ野球部員にも呆れたが、
「事実であれば言葉が出ない」と立派に言葉をお出しあそばされた
高野連のエライさんにまず呆れてしまったのである。

野球部員に対しては口あんぐり。
生ビールや酎ハイを飲んで泥酔してしまったと、
自慢気にブログに書いてしまったというのだから、
バカというかたわけというか、
呆れ果てた大バカ野郎どもである。
「偏差値38だもの、この程度でしょ」
スレの中でバカにされるのも当然か。

しかし逆にいうと、それだけ無邪気でたわいのない行為ということでもあり、
この程度の非行?なら男の通過儀礼みたいなものだろう。
ボクの目にはむしろ健全そのものに映るのだ。
だいいち高校生にもなって、親や教師の目を盗み、
酒タバコをやらないようなマヌケな奴がいるだろうか。

野球に秀でた少年はみな品行方正でなければならない、
とどこかの法律の条文にでも書いてあるのか? 
高校球児は例外なく純真で爽やかだと、
みな本気でそう思っているのか?

高校野球だけを、どうして清純なスポーツに祭り上げ神聖視したがるのか、
ボクにはさっぱりわからない。「汗と涙の青春ドラマ」に仕立て上げたい
気持ちはわからないでもないが、ウソっぽさが見え透いて気持ちが
わるいのである。それとも高校野球を平成の世の「教育勅語」にでも
見立てているつもりなのか?

まさか高校野球は聖人君子のやる清浄無垢なスポーツだ、
なんてだれも本気で思ってはいまい。
毎年のように繰り広げられる〝いい子ぶりっこ〟の茶番劇。
呆れて言葉も出ない(だいぶ出てるけど)。

2011年8月19日金曜日

ヨイトマケ娘

商社マン(いや、PC時代だと商社パーソンか? それとも商社ガール?)
の長女が5泊6日のボランティア活動から戻ってきた。
活動場所は岩手県大船渡市。例によってAll Handsの仲間たちといっしょだ。

All Handsはアメリカに本部がある災害ボランティア団体で、
岩手の大船渡市と陸前高田市を中心に復興支援を展開、
すでにその活動は4カ月におよんでいる。

19カ国から300人以上のボランティアが集まり、
側溝の泥上げや瓦礫の撤去、家屋の片付け、
引っ越しの手伝い、記念写真のデジタル修復など、
その活動は広範囲におよび、地元住民にも
すっかりお馴染みになっている。

だいぶ片づいてきているとはいえ、依然町全体が悪臭を放ち、
瓦礫を掘り返すとその臭いはいっそう強くなる。

だから酷暑の中、写真(中央の黒ずくめが長女)のように防塵マスクに
ゴーグル、帽子に厚手のゴム手袋、長靴で全身を覆うといういでたちで、
行くたびに娘の手足はアザだらけとなる。


遠い国から自腹を切って駆けつけてくれる外国人ボランティアたち。
猛暑の中、文句もいわず黙々とスコップをふるう。
彼らはハリケーンに襲われたアメリカのニューオリンズでも活動し、
ハイチ地震の際にも逸早く駆けつけた。

政治家たちが党利党略を剝き出しにし、不毛な議論を続けている間にも、
彼らはひたすら汗を流し、被災地のためにがんばってくれている。

娘の身体を気づかえば、「ほどほどにしろよ」と言いたくもなるが、
深夜バスで早朝帰宅し、とって返すように会社へと急ぐ彼女に
そんな無責任な言葉はかけられない。
(あんまり無理すんなよ……)
心の中でそっとつぶやく。

親の欲目は重々承知の上ですが、
娘はかくも心優しい頑張り屋であります。

身体は頑健で根性があり(母親似だな)、少食ながらよく働きます。
草食系の男性はやや苦手にしていますが、男嫌いというわけではなさそうです。
どこかに「つき合ってもいい」とおっしゃる奇特な方はおりませんか?
いまなら十分お買い得となっております。

2011年8月15日月曜日

納棺師は美人がいい

第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞した『おくりびと』の影響か、
日蔭者の葬儀業者にも光が当てられ、若い人の中には、モックン(本木雅弘)
の演じたカッコいい納棺師に憧れるものも少なくないという。

母が死んだとき、実家で『おくりびと』のシーンそのものが目の前で
繰り広げられた。バリッとした制服の美人納棺師(美人というところがミソか)
が母を湯灌し、洗髪し、ドライ後は髪型を整える。そして着物をきせ、髪を染め、
ファウンデーションや口紅をつける。これら一連のパフォーマンスを、
一種のアトラクションのように遺族の前で披露するのである。

口紅の色は何色もズラリと揃い、「どのお色にいたしましょうか?」と納棺師
(死化粧師という場合もある)に尋ねられたが、男衆にはさっぱりなので、
ここは女衆に助けを請い、上品な色を選んでもらった。
死化粧(最近はエンゼルメイクとかラストメイクと呼ぶ)の出来映えは
予想以上にすばらしく、母の女っぷりも2~3割アップしたかのように思えた。

一方、死装束というのは、昔から変わらず白無垢に手っ甲脚絆、
白足袋というダサ~いいでたち。21世紀になったというのに、
あの世では時間が止まっているようで、こればかりはどうにもならない。
しかし三途の川の渡し賃は、数百年のあいだ値上がりもせず、
また年収960万円の所得制限もなく、一律六文と変わらない。

三途の川というのは、初七日に渡るという川のことで、
川の瀬に緩急の異なる三途(3つの渡し口)があって、
その選択は生前の業(罪)の軽重によって決まるという。

●善人……架かっている橋を渡る。
●小悪人……やや深みを歩いて渡る。
●極悪人……深くて流れが急なところを泳ぎ渡る。

しかし以上の三途は平安時代の決まりごとで、室町時代になると、
いくぶん便利になり、善人でなくとも、六文の渡し賃さえ払えば、
貧富貴賤の別なく豪華カラオケ付きの渡し舟で彼岸まで送ってくれるようになった。
ずいぶん楽ちんになったのである。

もっとも、泳ぎ上手のボクなら、激流も濁流もものともせず、
優雅なバタフライで泳ぎ切り、鬼たちの鼻を明かせてやれるのだが、
カナヅチの母となると、まるまる渡し賃を払うしかあるまい。
しかし海千山千の母のことだ、逆に鬼を脅して有り金を
残らず巻き上げているにちがいない。

今週末の20日、早くも母の四十九日(七七日忌)を迎える。
忌中だからと、ことさら身を慎んで過ごしているわけではない。
手元不如意のため、しかたなく身を慎んでいる。
あの世でもこの世でも、カネがなくてはどうにもならない。

2011年8月10日水曜日

それがどうした

次女の友人たち、とりわけ英国出身の留学生たちにはなぜか
エキセントリックeccentricな人間が多い。Danielは極端な
偏食家で、日本での主食はラーメン。それも博多一風堂の
豚骨ラーメンが大のお気に入りで、それ以外の食べ物は
ほとんど受けつけない。そのためか欠食児童みたいに生気がなく、
背中をトンと押されたら倒れてしまいそうだ。

広島の大学で学んでいるEmmaも見るからに畸人変人のたぐいで、
さすがにMr.ビーンを生んだ国の娘だ、顔の表情やジェスチャーが
とにかくおかしい。彼女が投稿している動画サイトには
その畸人ぶりが横溢し、爆笑に次ぐ爆笑だ。

エキセントリックの反対語はコンセントリックconcentricで、
「同心円的な」とか「集中的な」という意味で、円とか球の中心に向かう
感覚をいう。エキセントリックは逆に「離心円的な」とか「常軌を逸した」、
「風変わりな」という意で、円の中心から外に向かって離れていくような
ニュアンスで使われる。

日本は〝和を以て貴しと為す〟の国。つまり典型的なコンセントリックな
お国柄で、「くれぐれも人に笑われないように」といわれて育つためか
エキセントリックな人間が生まれにくいといわれている。
逆にイギリスは「人と違ったことをやれ」というお国柄。
エキセントリックな人間に対してはひどく寛容なところがある。

幕末から明治期にかけて、日本にも齋藤緑雨や淡島椿岳・寒月父子といった、
世界のどこへ出しても恥ずかしくない?エキセントリックな人間たちがいた。
椿岳はボクの出身地・川越の生まれで、本業は画家。
奇才縦横円転滑脱、やることなすこと奇妙キテレツで、
超マルチな趣味人ぶりはケタが外れていた。

笑っちゃうのは椿岳の辞世の句。
今まではさまざまな事してみたが 死んでみるのはこれが初めて
なんとも人を食っている。

齋藤緑雨だって負けちゃいない。
僕は、本月本日を以て目出たく死去仕(つかまつり)候」という
死亡の自家広告まで出している。死生までをも茶にしてしまう、
という筋金入りの洒落っ気だ。江戸戯作者の流れを汲むという
浮世三分五厘の人生観をみごとに貫いている。

緑雨の名言は数々あれど、これも面白い。
それが何(ど)うした。唯この一句に、大方の議論は果てぬべきものなり」

たしかに世の中のクソ真面目な議論なんぞ「それがどうしたSo what?」の
一言でことごとくナンセンス化してしまう。

菅首相が退陣する? 「それがどうした?」
株価が9000円を割った? 「それがどうした?」
美人の後家さんに言い寄られた? 「それ……それでどうなった? ねェ」






2011年8月5日金曜日

「十戒」なんか要らない

♪ コッ、コッ、コッ、コッ、コケッコー
  コッ、コッ、コッ、コッ、コケッコー
  わたしはミネソタの卵売り……(暁テル子『ミネソタの卵売り』)

ボクがちょうど生まれた頃、こんな奇妙奇天烈な歌が流行っていた。
戦後日本は、この歌の歌詞のように、
《個っ、個っ、個っ、個っ、個けっこう》とばかりに、
アメリカ譲りの「個人主義」をいたずらに賛美し続けた、
と宗教学者の山折哲雄氏が言っている。

しかし「個の自立」などしょせん掛け声倒れで、
とどのつまりは、中身の薄っぺらで空疎な個人が
工業製品のように大量に生み出されただけだった。

日本には古来から、高い文化と道徳観が育っていた。
individualityと云ったって、ヨーロッパ近代が生み出した皮相浅薄な
概念でしかなく、たかだか300年程度の歴史しか持ちあわせていない。

西欧社会にあってはキリスト教の教えが道徳規範の根本だが、
モーセの十戒にしろ山上の垂訓にしろ、大仰に説かれている中身は、
なんともおどろおどろしいものばかりだ。曰く、
「汝の父母を敬え」「殺すなかれ」「姦淫するなかれ」
「盗むなかれ」「だますなかれ」etc……。

「殺すな、犯すな、盗むな、だますな……」
言いまわしがあまりに直截すぎて、説かれる側にすれば、
蛮人かケダモノになったような気がしてくる。

この程度のことなら、わざわざもったいぶって教えられなくても、
日本人ならとっくの昔にわきまえている。
どれも人の道として当然のことばかりだからだ。

さて、下に掲げたのは進歩的文化人たちに悪評ふんぷんたる
『教育勅語』の一部だ。能書きはいい。
まずは色メガネをかけずに、朗々と音読してもらいたい。

父母に孝に兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、
恭儉(きょうけん)己(おの)れを持し、博愛衆に及ぼし、
學を修め業を習い以て智能を啓發(けいはつ)し、
徳器(とっき)を成就し、進で公益を廣(ひろ)め、
世務を開き、常に國憲を重んじ、國法に遵(したが)い、
一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壤無窮(てんじょうむきゅう)
の皇運を扶翼(ふよく)すべし

モーセの十戒と比べてみてくれ。
ケダモノたちに向かって説かれた訓戒との違いがわかるだろう。
これだけ高次の精神性を備えた道徳律が他にあるだろうか。

なかには「義勇公に奉じ」とか「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」
などという文句がお気に召さない人もあるだろう。いや、
そもそも天皇から下し賜るという意の「勅語」からして気に入らん、
というものもあるかもしれない。

でもボクはそんなもの、たいした瑕瑾(きず)だとは思わない。
左翼進歩主義者たちはいつだって、バカの一つ覚えみたいに
皇国史観や軍国主義と結びつけたがるのだ。

旧弊な教育勅語を復活させろ、とは云わない。
21世紀の日本人にふさわしい新たな『教育勅語』を創れ、
と言いたいのだ。それもできれば高雅な筆致の文語文で。

そしてその新生・教育勅語を毎朝、子供たちに唱和させるのだ。
そうすれば日本はきっと変わる。
ケダモノにももとるデレッとした若者たちの顔つきが一変し、
背筋もピンと伸びるだろう。




2011年8月1日月曜日

男の穴?

明治の昔、アイヌのことを公式には「北方土人」とか「旧土人」
と称していた。しかし今、この土人という言葉は差別用語ということで使えず、
ネイティヴとか「先住民」などと言い換えられている。トルコ風呂がソープランドに、
痴呆症が認知症に〝格上げ〟されたのと同じ理屈である。

アメリカでは1980年代に、差別偏見のない中立的な表現をいたしましょう、
というムーヴメントが高まり、人種、性別、職業、文化、ハンディキャップ、
年齢等による差別表現とおぼしき単語が次々と駆逐されていった。
いわゆるpolitically correct(PC)というものである。

男性優位を象徴しているような、たとえばchairman(議長)はchair personに、
policeman(警官)はpolice officerに、fireman(消防士)はfire fighterに
というように、とにかくmanのつく言葉はたちどころに排除されていった。
なんとmanhole(マンホール)もperson holeと呼べなんていわれている。

Merry Christmas!(メリー・クリスマス!)もだめ。非キリスト教徒の人たちも
いっぱいいるのでHappy Holidays!と言え、というわけだ。人権を重視するあまり、
なんだかとてもややこしいことになっている。

アメリカとイギリスへ留学した次女にそのへんの事情を聞いてみたところ、
「そうね、Merry ChristmasよりはHappy Holidaysのほうが一般的かな。
イギリスではHappy Christmasなんていうのも使ってたけど……でも背の低い人を
shortじゃなくvertically challenged(垂直的障害のある)なんて言うのはやりすぎで、
かえって差別的なんじゃない?」

和製英語のブラインドタッチもだめ。blind(めくら)が差別的ということで、
いまはタッチタイピングとかタッチメソッドが一般的だ。もっとも、
中国ではいまだに「盲打」という言い方をしているから面白い。
ボクなんか「めくら打ち」に大賛成なんだけど、いったいどこがいけないわけ?

美人は3日で倦き、醜女(ぶす)は3日で慣れる、というからugly(醜い)を
Cosmetically different(美容上の見解の?相違)と呼ぶのは勝手だが、
Worst(最悪な)を遠慮がちにLeast best(ベストから最も遠い)と言い換えたって
ワーストであることには変わりがない。

つまりpolitically correctで表現されるほとんどすべてが、
リベラル派へのお追従であり、弱者へのリップサービスであり、
見え透いたおべんちゃらなのだ。要するに偽善なのである。

頭のてっぺんが薄くなりかけてきたボクは、そのうちcomb free(くし要らず)
などと呼ばれるに違いないが、bald(ハゲ野郎!)とズバリ言ってくれたほうが
どれほど救われるか(救われねェか)。

この伝でいくと「女ぎらい?」のボクは、さしずめfemales free(メス要らず)で、
金がなくピィピィ言ってても、貧乏人はmoney free(カネ要らず)っていうのかしらん? 
痩せ我慢もここまで来ればたいしたもんだ。