2012年11月30日金曜日

ハレムな朝

昨日の朝、またまたギックリ腰をやってしまった。
日頃、水泳やジョギングで身体を鍛えているつもりなのだが、
持病の腰痛は相変わらずだし、時々、このギックリ腰を再発させてしまう。

今朝は駅前のT歯科に一番で予約してあったので、無理して出かけた。
杖をつき、カメのようにのろのろと、途中で何度も一服し、
どうにかこうにかたどり着いた。ふと気づいたのだが、どういうわけか、
歩行の際に身体が右に15度ほど傾いている。どんな状況下にあっても、
左傾化することがないという志操堅固な精神。まさに日頃の精進のたまものだろう。
われながら自分を褒めてやりたくなる。

いくぶん首うなだれ、哀れっぽいかっこうで医院の扉を開けたら、
可愛い受付嬢が「どうしちゃったんですかァ?」
と驚き、やさしくいたわってくれた。がんばった甲斐があった。

この駅前のクリニックにはすでに15年通っている。院長の腕は並みの上といったところだが、
歯科技工士たちがいい。腕だけでなく、なんと粒選りの美女ばかりが揃っているのだ。
たぶんそのお陰だと思うが、近隣に数店舗を展開、どこもみなハレムか後宮のように
美女たちが迎えてくれる。当然のことながら待合室は助平なおじさんたちでいっぱいだ。
ボクが浮気をせず15年間通い続けられたのも、この〝美女パワー〟のお陰なのである。

さて、いつも思うのだが、診察台に横になり、大口開けている図はどう見たって間が抜けている。
それに口の中なんて歯垢がいっぱい溜まっているし、虫歯だってある。歯抜けのジジババだって
来るのだから、惨憺たる光景で、とても見られたもんじゃない。
人一倍美意識の発達しているボクとしては、実にどうにも、堪えがたいひとときなのである。

おまけに、そのマヌケな口の中を「どれどれ」とばかり美女にのぞかれる。
時には指を乱暴に突っ込まれ頬を横に引っぱられる。そしてガリガリやられる。
いつだったか、「はい、アーンして」といわれたことがある。俺は赤ちゃんか?

それでも美女にグリグリされたり、プニュプニュされたりするのは気持ちがいい。
意図的なのか、美女の胸が時折ボクの頭にツンツン当たることがある。
「男の患者さんには〝スペシャルサービス〟をしてやるように」
と、商売上手の院長からきつく言い渡されているにちがいない。
こんな素敵なサービスがあるのなら、おじさんたちは這ってでも通う。

ところが、支店網を拡大しすぎたのか、美人技工士が品薄で、
なかなか集められなくなったという。時折、相撲取りみたいな体格を
したおばさん技工士を見かけることが多くなったから、
いよいよ急速成長のひずみが出てきたのかもしれない。
「でね、最近は男の、それもジャニーズ系の技工士を採るようにしたんですよ」
マジメな顔して院長が言う。いったいどーゆう経営方針なのだ。
結果、おばさんの患者が急増したという。

「ひどいな。そんなのマニフェスト違反じゃないの」
ボクが厳重に抗議すると、院長は「ヘッヘッヘ」と笑い、空っとぼけた。
今日は頭のツンツンはなく、最初から最後まで院長にガリガリ、バキバキと
乱暴にいじくり回された。ギックリ腰をおしてわざわざ行ったのに、何という仕打ち。
サイテーの1日が始まった。




←こんな美人にグリグリ、ぱみゅぱみゅされたい。
  「はい、アーンして」
  「アッハーン……」
 

2012年11月25日日曜日

われら絶滅危惧種

本を買うとなると、昔は池袋・東武デパート7階の「旭屋書店」や西武の「三省堂」まで、
あるいは駅南口の「ジュンク堂」まで足をのばしたものだが、最近は横着になって、
ほとんどAmazonですませてしまう。送料無料だし、レビューなども参考になるので、
わざわざ電車賃をかけて都心まで出向く必要がなくなってしまったのだ。

近所に本屋がないわけではない。駅前にそこそこ大きい本屋はあるのだが、
ほしい本がない。もっと言えば、食いもの屋に入ったはいいが、滋養があって、
美味で、噛むほどに味がしみ出してくるような、見るからに旨そうな食い物が払底している、
といったあんばいなのだ。食いたくても食えるものがない、というのは実に気の滅入る状況だ。

小さな本屋となるともっと悲惨で、雑誌と受験参考書と漫画しか置いてない。ブックオフも
同様で、実に惨憺たる光景が広がっている。ドストエフスキーは? チエホフはどこにあるんだ?
ボクたちの青春時代をよくも悪くも彩ったあの〝純文学〟が跡形もなく消え去ってしまっている。
(ああ、こうやってオレとオレの属する「種」は絶滅していくのだな……)
思わず背筋がゾーッとして、後ずさりしたくなる。

こうした感慨を懐いているのは当然ながらボクたちだけではない。、
おそらくは何百年も繰り返されてきた慨嘆に他ならない。現にボクの読解力では
せいぜい鷗外漱石までで、露伴となるともうお手上げだ。漢籍の素養がないため、
まるで歯が立たないのだ。こうして露伴や鏡花が忘れられ、一葉でさえ
満足に読めない世代が多数派を占めていく。歴史文化の連続性は
ここでプツリと絶たれる。

ボクらの世代にはまだ教養主義の残滓があった。無知な人間を軽蔑する風潮があった。
自室の書棚にはあふれんばかりの本が並び、哲学書や社会科学系の小難しい本を
みな競って読んだ。無知であることは恥ずかしきことで、酒の席でも、
英国人がシェイクスピアの金言を引用するみたいに、自然と文学作品や詩の一節が語られ、
みなそれに堂々和して議論を高めていった。

それがどうだ。いまや純文学どころか、文学の「ぶ」の字も出てきやしない。
電車内では背広姿のサラリーマンが、恥ずかしげもなく分厚い少年漫画を広げ、
コンビニでも、いい大人が週刊エログロ漫画を食い入るように見つめている。
「いい年をして、恥ずかしくないのか、このスットコドッコイ!」
怒鳴りつけてやりたくなるが、恐いのでぐっとガマンする(笑)。
廉恥心はとっくの昔に失われ、平成無教養主義という名の氷河期が
日本国じゅうを覆い尽くしている。嗚呼!

「結婚相手は最低でも3000冊、いや2000冊の本を読んだヤツでないとだめだからな!」
と、わが豚児たちには厳しく言い渡してあるが、なに、ちっとも聞いちゃァいない。
今どき、そんな男は金の草鞋で尋ねたっているものではないし、そんなことは
とっくの昔に分かっている。分かってはいるが、ひとこと言っておきたいという、
むずかしい年頃なのですよ、この気難し屋のポンコツおやじは。

ああ、なんとしたことだ。絶滅寸前の恐竜たちの心持ちが実によく分かってしまう。
すでに自分の居場所がなく、用なしの烙印が押された寒々しくも切ない気持ちが。
この際だ、ボクも愛しのマックの決め科白をパクってしまおう。
Old soldiers never die; they just fade away.
消え去るってどこへ? 
「老人ホームですよ」
「へーっ、気が早いね。どこの何という名のホーム?」
「アルツハイム」←ちょっと作りすぎちゃったかな、ヘヘ(笑)。

 

2012年11月20日火曜日

ストーカーと呼ばないで

いわゆる「ストーカー殺人事件」が頻発している。相手に執拗につきまとい、
相手だけでなく、その家族にまで危害を加える。ボクにはストーカー心理ってもの
がよく分からないが、年頃の2人の娘をもつ親としては無関心ではいられない。

ストーカーという呼称は90年代に定着したという。それ以前は「変質者」とか「変態」と
呼ばれていた。ボクは〝呼び方〟は大事だと思っている。一時、「援助交際」という
言葉が流行った。ボクは最初、女性に不慣れな若者たちを支援するボランティア活動
かな、などと思ったが、大いなる勘違いで、実体は「売春」そのものだった。

言葉というものはふしぎだ。援助交際と呼ぶだけで、その意味合いが軽くなり、
罪の意識も薄れる。そのためか、気軽に売春する少女たちがどんどん増え、
買春するオジサンたちもまた増えた。日本語の構造にはそうした〝すり抜け〟
がある。

ストーカーという言葉は、なんだか響きがカッコよすぎる。言葉がカッコいいと、
やってる本人の罪の意識も軽くなり、マネするバカな人間がホイホイ出てくる。

そもそもstalkerという概念は、アメリカなどでは「殺人を目的につけ狙う」という
意を含み、日本とは自ずと異なっている。本来のstalkは「大またに歩く」だが、
他に「獲物を狙ってそっと歩く」の意もある。いずれにしろヨコ文字にすると
カッコよく響いてしまうのは欧米コンプレックスのなせる業か。ボクは思うのだ。
この際、ストーカーという言葉を廃し、「変質者」とか「変態」「色魔」といった
恥ずかしい呼び名を復活させるべきだと。

とにかく犯罪的行為に対してはカッコいい呼び名は付けないこと。
ストーカーと呼ばれると、つい「おれもやってみよう」というコピーキャットが
出てこようというものだが、もろ「変態」とか「色魔」と呼ばれたら、
「カッコ悪いからやめとこ」ということになる。この手のロクデナシたちには、
恥ずかしくてお天道様の下を歩けないような名前をつけてやるに限るのだ。

その点、中国語はハッキリしている。ラブホテルは『色情旅館』」だし、
映画の『危険な情事』(Fatal attraction)は『致命的吸着』と訳されている。
たしかにマイケル・ダグラスは、おっかないグレン・クローズに対して
致命的な吸着を犯してしまった。吸着するちょっと手前くらいでガマン
しておけばよかったのに、実に惜しいことをした。

言葉の問題を言い出すと切りがないのだが、「~とか」「~のほう」「~ってゆうか」
といった、いわゆる〝ぼかし言葉〟も若者たちの間ですっかり定着してしまった。
「一応」とか「とりあえず」といった言葉もよく使われる。
「大学はどこなの?」
一応東大です」
なにが〝一応〟だコノヤロー! ←オジサンは東大と聞くとなぜか突然凶暴になる

劇作家の永井愛が、ある夜奇妙な夢を見たという。
どういうわけか、あの植木等が、若い男に包丁を突きつけ、
「〝ら〟を入れろ!」と脅している夢だ。
「金をよこせ」ではなく「らを入れろ」と脅迫する光景。けっこう笑える。

わが家の全員はかろうじて「ら」を入れている。でも次女は時々、
「~ってゆうか」を使うし、もっと過激に「~てか」になることもある。
衆寡敵せず。そのうち多数を占める「ら抜き」派に吸収され、
少数派の「ら入れ」派に向かって「らを抜くんだよ!」と包丁で脅しているかもしれない。

「あなたは〝ら入れ〟派? それとも〝ら抜き〟派?」
「はい、一応〝ら入れ〟派です」←てめぇ、コノヤロー!





←よりどりみどりの「色情旅館」街。懐かしいなァ。
 ♪そんな「時代」もあったねと~←歌ってる場合か!

2012年11月15日木曜日

ウソつきじゃないもん!

野田のどぜうも〝ウソつき批判〟に耐えきれず、とうとう衆議院を解散すると宣言した。
公示は来月4日で、投開票は東京都知事選と同じ16日だ。

どぜうは小学生の時、成績の下がった通信簿を恐る恐る父親に見せたという。
激しく叱られると思ったが、そこには担任教師の手で「野田君は正直の上にバカがつきます」
と書き添えてあった。父はとても喜んだという。正直の頭(こうべ)に神宿る、というわけか。
まるでジョージ・ワシントンと桜の木の話みたいだ。安倍自民党総裁との党首討論の際、
そんな微笑ましいエピソードまで持ちだし、自分はウソつきどころか
バカが付くくらい正直な男なんだ、と力んでみせた。一時、燃え尽き症候群か、
と揶揄されていた〝どぜう〟も、亡びの前の輝きか、あの日はやけに元気がよかった。

これは余談だが、少年ワシントンが斧で父親の大事にしていた桜の木を切ってしまったとき、
父親はなぜその場で叱らなかったのか。あの時、ワシントンは正直に「ボクがやりました」と
告白した。父親はほんとうのところ叱り飛ばしてやりたかったのだが、なぜか
「お前の正直な答えは千本の桜の木より値打ちがある」などと逆に褒めあげてしまった。
ではなぜ叱らずに褒めてしまったのか?
答え:ワシントンがまだ斧を手にしていたから(プッ)

さて、欧米にあっては、ウソつき呼ばわりされることは今も昔も最大の侮辱だ。
男が面と向かって“You liar!”といえば、即その場で決闘が始まるという時代もあった。
こうなると、ウソばかりついている中国人や韓国人は毎日のように決闘していなくては
ならなくなる。そういえば昔、中国の要人が、
「たとえウソでも何度も繰り返し言い続ければ真実になる」
なんて言ってたっけ。そのことがまさに「尖閣」で証明されようとしている。

総選挙になると、いわゆる〝陣笠議員〟というやつが、いやがおうもなく選ばれてくる。
陣笠議員というのは、小泉チルドレンとか小沢チルドレンと呼ばれているような代議士
たちで、議会などの採決に当たって、自分の庇護者である大物政治家の「挙手要員」に
成り下がっている、社会人のなかでも最も低劣とされる〝税金ドロボー〟のことだ。
残念ながら〝柔(ヤワラ)ちゃん〟こと谷亮子もこのドロボーの一味だ。

選挙の際に、よく「人がらで選ぶ」と言うものがあるが、この手合いがいちばんダメだ。
自慢じゃないがボクなんか、見てくれは10人くらい人を殺していそうな極悪人の顔をしている
(運転免許証の顔がまさにそれ)。でも、人がらはとてもいい(自分で言うな!)。

昔から「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」というではないか。
人の性行(人がら)の善し悪しなんて、親しく接してみなければ分からないのだ。

また代議士のことをまるで国民の代弁者のように思っている人が少なくないが、
実際は党の「代者」ならぬ「代者」に過ぎぬ、と福田恆存は喝破している。
《代議士は始めから人ではない、数である。もし人であるとすれば、問題は彼が何人分
であるかという、その党内、党外の勢力にある。何人分というのは、つまり数ではないか》
(『民主主義を疑う』より)

選挙のたびに「党」か「人」か、あるいは「政策」か「人がら」かという愚問が投げかけられる。
それがまた高踏的に論じられたりするから、ますます救われなくなる。
何度も言う。代議士は「人」ではない、「数」なのだ。「政策」ではなく「人がらが良さそうだから」
なんてアホみたいな理由で投票するから、日本の政界は「無脳」の巣窟になってしまうのだ。

「こんどの選挙は天下分け目の関ヶ原になる」と〝耐用(年数の切れそうな)の党〟じゃない、
〝太陽の党〟の石原党首はのたまわった。さあ、どの党に投票しましょうか。
前回、「いっぺんやらせてみようよ」と軽い気持ちで民主党に1票を投じたあなた! 
こんどこそ、こんどこそ、あなたの良識が問われますよ。
千慮(一失はあるけどね、ヘヘ)は、まあいいけれど、浅慮は禁物ですぞ。



←陣笠議員の典型が小沢チルドレンの一員〝柔(やわら)ちゃん〟。
  議員になった途端、金メダルのメッキが剥げ、
  人間の値打ちが急落。
 
  とうとう税金ドロボーと呼ばれることに。





 

2012年11月13日火曜日

紅茶党に囲まれて

1日に何回コーヒーを飲むだろう。
毎日、午前10時頃に机に向かうのだが、そのときにドリップだてしたコーヒーを1杯飲む。
起き抜けに飲むこともあるが、そのときは横着してインスタントにしてしまう。
でも、飲むといつも後悔する。やっぱりインスタントはまずい。
冷めるととりわけまずくなる。アラビカ種のコーヒーなら冷めてもうまいが、
ロブスタ種を胃の腑へ流し込めるのは熱いうちだけだ。

わが家の冷蔵庫&冷凍室にはコーヒー豆がいっぱい、と以前書いた。
自分で焙いたのもあるし、全国から取り寄せた名店のコーヒーもある。
自分で焙いたコーヒーをご近所さんに配ることもある。
でも、なぜか紅茶党が多く、「コーヒーは苦いから」と敬遠されることがある。

話はガラッと変わるが、
ボクの住んでいる棟はすべて4LDKで、戸数も56と少ない。こうした小ぶりの棟が
全11棟ある団地の中で3棟だけある。で、2LDKや3LDKに住む他の棟の人たちからは、
「ああ〝金持ち棟〟の方ですね」などと皮肉っぽく呼ばれたりする。
たしかにボクの周りには医者や弁護士、大学教授、一部上場企業のお偉いさんと、
近寄りがたい人ばかりが集まっている。そんな中にポツンと中流の下のわが家が
混じっているのだから、どうしたって浮いてしまう。

「これ、ボクが焙いたコーヒーなんですけど、飲まれます?」
上品そうな奥様に恐るおそる差し出すと、ちょっぴり困ったような顔つきになる。
「あたくし、どちらかというと〝お紅茶〟のほうが……」
(〝お紅茶〟ときたもんだ。まいったな……)
というわけで、わが棟内ではコーヒー党は少数派のようなのだ。

ボクのカミさんも実は紅茶党だった。お嬢さん育ちというわけではもちろんないが、
実家ではもっぱら紅茶を飲んでいた。でも今はすっかりコーヒー党に〝転向〟。
今や深煎りコーヒーがないと仕事が手につかないほどだ。

コーヒーを敬遠する人たちの多くは、たぶんほんとうにうまいコーヒーを飲んだことが
ないのだろう。誰だってインスタントや缶コーヒーばかり飲んでいたら、
コーヒーが嫌いになってしまう。←缶コーヒー飲むなら「街カフェ」のコンビニへどーぞ

名店中の名店といわれた吉祥寺「もか」の標交紀(しめぎゆきとし)は、
《世の中の99%の人はほんとうにおいしいコーヒーを知らない》
と言っていた。たぶん当たっているだろう。
フレンチといえば結婚披露宴に定番の「伊勢エビのテルミドール」しか
食べたことのない人が、ほんとうのフレンチの奥深さを知らないように。

標のコーヒーは飽きるほど飲んだ。
そのどれもが、居ずまいを正したくなるほど端正なコーヒーだった。
《品格のないコーヒーは踏み倒していい》
そんなことも言ってたっけ。
コーヒーに〝品格〟まで求めようとする日本人。
この国の住人はほんとうに変わっている。

さて日頃、ブログの中で悪口ばかり書いている朝日新聞が、どういう風の吹き回しか、
ボクの本『コーヒーに憑かれた男たち』(中公文庫)を土曜版Be(2012・11・10)
で紹介してくれた。なんとアガサ・クリスティの『ブラック・コーヒー』をも凌ぎ、
畏れ多くも筆頭に掲げてくれたのだ。やっぱ朝日はお目が高い!(←すぐこれだ!節操がないね)
とゆーことで、今後は朝日への〝毒言毒語〟の舌鋒が腰砕けになりそう、
という観測が早くも流れている(笑)。
長いものには巻かれろ主義か? こちとら、ハナから節操なんてないもんね、
ヘっヘっヘっ……。





←拙著『コーヒーに憑かれた~』には
「もか」の標交紀さんの奇行奇癖も
いっぱい出てきます。標さんが亡くなって
もうすぐ5年(2007・12・24没)です。

2012年11月11日日曜日

犬と中国人

昨日、女房がイタリアから帰ってきた。1年365日、ほとんど休みなしで働く自分自身への
ご褒美なのだろう。彼女の大好きなトスカーナ地方で、1週間の骨休めをしてきた。
亭主の稼ぎが悪いので、カミさんも何かと苦労が絶えないのだ。

女房は料理記者でフレンチとイタリアンが専門、とはすでに述べた。だから遊びと云っても、
半分仕事みたいなもので、今回も珍しい物を食べたり、チーズ工房、ワイン醸造所などを
見て回ったという。

「イタリアはどうだった? 景気悪そうだった?」
ボクの関心はどうしてもEU経済危機のほうに向いてしまう。
「そうね、どことなく街がさびれているという感じだわね。ヨーロッパ人観光客が
ほとんどいなくて、わが物顔に闊歩してるのは中国人と日本人くらいかしら」

そういえばテレビのドキュメンタリー番組でスペインの経済危機についてレポートしていたが、
状況はイタリアの比ではないらしい。住宅ローンが払えなくなった人たちは、
なにしろ食べるものがないものだから、閉店後のスーパーのゴミ箱をあさっている。
今までごくふつうの生活をしていた中産階級の人たちが、急転直下、ゴミあさりだ。
この光景には唖然とした。

さて支那人と云えば、つい最近、こんな事件があった。
2014年開業予定のフランスの高級ブティックホテルが、「中国人客お断り」の宣言をし、
その後、すぐに撤回したという事件だ。ホテルの創業者はこう言ったという。
《40室のホテルはプライベートホテルっぽいが、すべてのお客さまに開放している。
ただし、こちらとしても客は選びたい。たとえば中国人観光客はお断りする。
建設地のパリ市民は『特定のプライバシー空間と静かなホテル』を望んでいるからだ》

最近、「Sinophobiaシノフォビア」という英語をよく目にする。「sino=中国」と「phobia=嫌悪」
がくっついた言葉で「中国ぎらい」という意味だ。むかし日本人がエコノミックアニマルと
呼ばれて総スカンを食ったことがあるが、その総スカンのお鉢が今度は支那人に回された、
という感じだろうか。形を変えた黄禍論Yellow Perilの再来かもしれない。

支那人のマナーの悪さは世界的に有名だ。
特に集団になると絶望的で、街中にしろレストランの中にしろ周りなんかおかまいなしに、
ツバを飛ばし大声でしゃべりまくる。アスファルトの道の上に平気でツバや痰を吐く。
またホテルの備品を平気で盗む。盗むものは火事の際の非常脱出用ハンマーや水道の蛇口、
テレビのリモコンといったもので、鍵のかかっていないもの、チェーンでつながれていないもの
は持っていってもいい、と勝手に思っちゃうらしい。

いちばん困るのはトイレだという。支那では下水がよく詰まる。時に逆流したりするので、
ウンコ付きのトイレットペーパーはトイレに流さずゴミ箱に捨てる。
それを海外でやってしまうから、その置きみやげの臭いこと臭いこと。
ホテルやレストランでは上を下への大騒ぎになってしまう。

「ホテルの朝食時には紅茶用のお湯がポットに入れられて置いてあるんだけど、
そのお湯を中国人のおばさんたちは持参のポットに全部入れちゃうの。
他の客が困ってサービスの人に湯の補充を頼むと、また別のおばさんが
自分のポットに入れてしまう。あとで口直しに中国茶でも飲むのかしらね。
とにかく自分さえよければ何をやってもいい、というのが中国人の際立った特徴かしらね。
これじゃあ嫌われるのもムリないわね」
と女房も少々おかんむりだ。

日本人も昔はステテコ姿でホテル内を歩いたり、韓国のホテルでは農協のおっさんたちが
まっ昼間からキーセンを自室に引っ張り込んだりして、ホテルマンの眉をひそめさせたものだ。
もっとずっと昔はアメリカ人やドイツ人が世界各国でひんしゅくを買い、
日本人が恥をかいたあとは、金持ちの支那人や韓国人が後に続いた。
こうやって100年くらい恥をかき続けると、マナーが少しずつ身についてくる。

さらにもっと昔、支那にあったフランス租界内の公園には「犬と中国人は入るべからず
という看板が立てられていた。あれから100年ちょっとで、今回のフランスでの
「中国人お断り」騒動。お高くとまった欧米人の上から目線も鼻持ちならないが、
郷に入っては郷に従えで、白人のルールに従わない支那人も悪い。

おそらく支那人の場合は100年ではきかず、マナーが洗練されるまでには、
どう転んでも1000年くらいはかかるだろう。
その間は、世界があの騒々しい連中の傍若無人にひたすら堪えるしかない。




←犬と同列にされたら支那人だって怒るよね。
ちょっぴり同情します。



 

2012年11月7日水曜日

貧しき履歴書

みんなで寄ってたかってなぶる。「なぶる」とは責め苛み、いじめ倒すことだ。
漢字でどう書くかというと「嬲る」。男2人が女1人を間に挟んでいたぶっている構図だ。

近頃世間を騒がせているのが、いわゆる猟奇的な「尼崎事件」だ。
角田美代子というおっかないバアさんが、複数の男女を殺し、民家の床下に埋めたり、
死体をドラム缶に入れ海中へ遺棄したりしている。バアさんは同居人たちと共謀し、
被害者に殴る蹴るの暴行をはたらいたと云われているが、こういう事件を目の当たりにすると、
「嬲る」という字の〝男と女〟をいっそ入れ換えたほうがいいのでは、などと思ってしまう。

それにしても表意文字の漢字はおもしろい。女が3人寄れば、「姦(かしま)しい」で、
女が台になると「始まる」だ。いったい何がおっ始まるのか。
また女のおでこに寄る年波が押しよせれば「婆」で、女のよい(鮮度か?)のが「娘」。
夫婦になって賞味期限が過ぎ、よろず鼻についてくると「嬶(かかあ)」と相成る。
男に挟まれた女は「嬲る」だが、それでは男2人の間に「毒」の字だったら何と読む。
答えは「ニコチン中毒」だ。
アハハ、これはまあ冗談(笑)。

柄にもなく品位を落としてしまった。では名誉挽回のため格調高く、
Every man over forty is responsible for his face.
「男は40になったら自分の顔に責任がある」
ご存知のように、かの米国はリンカーン大統領が言った有名な科白だ。
日本でもジャーナリストの大宅壮一が「男の顔は履歴書である」
などと余計なことを言ったものだから、その気になって鏡をのぞきこむと、
そこに映った〝履歴書〟には誇るべき何ものも書いてない。
ああ、男というものは大変だなァ、とつくづく思ってしまう。

一方で、「女の顔は請求書である」と勇気ある発言をしたのが作家の藤本義一だ。
あいにく先月の30日に亡くなられてしまったが、彼は女の顔は履歴書などという
大それたものではなく、単なる「請求書」だと明快に決めつけた。
韓国の整形美女たちを思い起こしてもらえればよく分かるが、
女の顔の価値はそれに投じられた「コストの総額」で決まるということらしい。
言い得て妙だ。いっそ男の顔も請求書にしてもらいたいくらいだ。

藤本義一さんには一度会ったことがある。
銀座の「維新號」という広東料理の店で、藤本さんと某氏との対談を設定し、
その司会をやったのだ。気さくな人で、その場の雰囲気を自然と和やかにしてくれた。
関西弁というのも大きい。ボケたりつっこんだりするには最適の方言で、
つい釣り込まれて笑ってしまう。享年79。ご冥福をお祈りしたい。

そろそろ最後を締めよう。これまた格調高く『論語』の一節から、
   吾れ十有五にして学に志し、
   三十にして女色を絶つ。
   四十にして惑わず酒を飲み、
   五十にして余命を知る。
   六十にして人の言に従わず、
   七十にして心の欲するところを放言して矩(のり)をこえる。

男は年齢(とし)をとると話とションベンが長くなるという。ご寛恕あれ。






←「女の顔は請求書」との迷言を吐いた藤本義一さん
  あの節は大変お世話になりました。謹んで合掌





 

2012年11月5日月曜日

火病の国

韓国の女性はなぜ美容整形に走るのか――それには理由がある。
韓国人男性の言い方を借りるなら「醜女(ブス)は人間じゃない」からだ。
ブスでは就職もできないし、もちろん幸せな結婚もできない。
「性」の商品化が進んだ韓国では、不細工な女性は徹底して差別されるからだ。

韓国の女性は一般に骨張った輪郭の人が多く、切れ長の目、薄い眉、
小さめの鼻、唇も薄く、概して〝キツネ顔〟といわれている。
ソウルの街中を歩くと、「コギャル」たちはみんなそんな顔をしている。

しかし高校を卒業する時期になると、彼女たちはそろって整形外科へと殺到する。
まずは大学入学前に二重まぶたの手術をし、大学入学後の長期休暇に入ると、
こんどは鼻を高くし顎(エラ)を削り、目頭や目尻にメスを入れる。
最近では脂肪吸引手術を受ける大学生も増えているという。

儒教の国だからといって「親からもらった身体」なんて意識はカケラもない。
美容整形は親もいっしょになって勧めているくらいだから、
身体の至るところを切りきざみ、骨を削りまくる。

さて、美容整形によってめでたくブスから脱却でき、夢の結婚がかなったとしても、
韓国の女性は妻としてよりも嫁としての立場が重視される。嫁は夫の両親に孝養を尽くし、
まず何より男の子を産まなくてはならない。女の子を産むと露骨にがっかりされ、
夫や義父母に「男の子でなくてすみませんでした」と謝らなくてはならない。

それに長男と結婚しようものなら「祭祀(チェサ)」という悪名高き韓国式法事が待っている。
春夏秋冬の季節ごとに親族を招いておこなうチェサは年に7~10回。
長男の嫁はそのたびに準備に奔走しなくてはならない。韓国人にクリスチャンが
多い(全人口の30%)のは、チェサから解放されたくて入信する人が多いから、
という説もある。カソリックはチェサをおこなうが、プロテスタントはおこなわない。
そういえば、韓国取材で世話になった通訳の独身女性はプロテスタントだった。

韓国にいまだに残る男尊女卑の考え方。かつて韓国人の友人から「族譜(チョクボ)」を
見せられたことがある。族譜は一族の本貫(出身地)や歴史、由来、墓所や廟の位置など
が書かれたもので、始祖から現在に至るすべての男子の名前、官職経歴などが
記載されている。一族にとっては宝のようなものだが、女性となるとその姓と本貫が
記されているだけ。韓国の家族関係は夫婦のつながりより、父子関係の連続性のほうが
優先されるので、女性は男系を継承させるための〝子作り機械〟みたいな扱いなのだ。

韓国人男性が女性をどう見ているか。その典型がテレビ番組のこの女性蔑視発言だ。
米国医学会の報告によると、韓国人のおよそ9割は「火病」、すなわち憤怒症候群
anger syndromeを患っているという。この番組で大声を張り上げ、周囲の非難も何のその、
隣の韓国人女性の頭をこづいたりしている男も、たぶんこの火病患者のひとりだろう。

怒りがこみ上げてくると、突発的衝動性にかられ自宅に放火したり、
自傷行為にふけったり、性犯罪に走ったりする。自分をコントロールできなくなってしまうのだ。
反日デモの際に、必ず日の丸を焼いたり食いちぎったりする獰猛なおっさんが出てくるが、
たぶんこの火病患者だろう。

韓国ドラマを見て、ウォンビンがいいだとかチャン・グンソクがいいだとか、
年甲斐もなくお熱をあげている、ねえ、そこのおばさんたち!
見た目はカッコいいかもしれないけど、彼らの心の中は男尊女卑のかたまり。
結婚なんてしようものなら、口喧嘩しただけで家に放火されてしまいます。
整形コリアンは遠くから冷たく眺めるにかぎります。




←アーッチッチッチッーッ!
 火ぃ吸いこんじゃったよォー、ウギャーッ!
(熱いだろうねェ、ご苦労さまです)




 

2012年11月2日金曜日

「近いうち」っていつなのさ?

首相の野幇間(のだいこ)は「近いうち」に解散すると言って、
いっこうにその気配を見せない。言質をとろうと安倍ちゃんも執拗に攻め立てるのだが、
「寝言でもいわない」と口を真一文字に結んでしまう。しぶとい男だ。
おそらくこの「近いうち」は今年の流行語大賞の最有力候補になるだろう。

「近いうち」や「そのうち」は日頃よく使われる。
「近いうちにまたやろうよ」といえば、たいていまた一杯やろうという意味で、
「そのうち飯でも食おうや」というのもよく使う。
一種の社交辞令みたいなもので、あっさり「じゃあサイナラ!」と言うよりは
ちょっぴり当たりがやわらかい。英語で言うとkeep in touchというようなニュアンスか。


酒を飲んだり飯を食ったりするのなら、別段、天下国家の一大事ではないから、
「近いうちって、いつなのさ?」などとヤボなことは聞かないけれど、
「近いうちに必ず代金は支払います」と言って、2ヵ月も3ヵ月もほったらかしにしたら、
取引先は信用ならぬと言って怒るだろう。「解散」だって同じで、もう2ヵ月以上過ぎている。
最近の国会答弁では「近いうちに」が「しかるべきときに」に変わってきている。
どっちも曖昧で、さすがにドジョウの異名をもつ男。つかんだと思ったらスルリと逃げてしまう。

恋人同士が「じゃあ、また近いうちに」と言って別れたら、まず脈はないと見ていい。
一刻だって離れていたくない発情期の男女の間に、「近いうち」と「そのうち」などないからだ。
かくいうボクにだって、そんな熱い「時代」があった。
    ♪そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわァ ←歌ってる場合か! 
     

誰にでも人が恋しくなるときがある。
(今夜はあいつとしみじみ飲んで語り明かしたいな……)
親友の顔や昔の恋人の顔、死ぬほどヒマそうなヤツの顔などがチラチラと頭に浮かぶ。
思いきって電話する。
「何? 一杯やりたい? いいよ。そうね……再来週の木曜なら空いてるけど」
電話の向こうからつれない声。
本日ただいま、これからすぐにでも飲みたいんだよォ、このバカヤロー!
と叫び出したいのだけれど、ぐっとガマンする。

「近いうち」と「そのうち」はまったく当てにならない。社交辞令だと分かってはいても、
「近いうちっていつなの? えっ? 何月何日の何時なの?」
と問い詰めたいときがある。そんなときは、たいがい気弱になっていて、
誰かに悩みを打ち明けたいときか、逆に幸せを分かち合いたいときだろう。

若いときは会いたくなると、遮二無二バイクをかっ飛ばし会いに行ったものだが、
歳を取って〝分別〟なるものが身についてしまうと、陽明学的な「知行合一」が
だんだん叶わなくなる。で、ちょっぴり腰が引けたようなポーズで「そのうち会おう」
などと言っては、その場をとり繕うのである。
物欲しげな顔をしないこと――これがオトナの分別というものらしい。
オトナというのは何かと不自由な生き物なのだ。

木枯らしが吹く季節になると、無性に酒が飲みたくなる。←一年中飲んでるだろ!
    ♪秋の日のヴィオロンのため息の 身に滲みてひたぶるにうら悲し
つい詩人のようにため息をついてしまう。秋はどうしてこんなにうら悲しいのだろう。

野幇間の「近いうち」から、思わずヴェルレーヌの詩まで行ってしまった。
還暦は感じやすい年頃なのかしら。
そんなわけで、ムダ話はそろそろお開き。ではまた近いうちに。




←こんな並木道を歩くと、
ひとはみな詩人になってしまう。