2014年2月24日月曜日

蔦屋書店トークイベント顛末記

おかげさまで『コーヒー おいしさの方程式』(NHK出版)が売れている。
1月の発売以来、アマゾンの売れ行きランキングでは「グルメ一般」「飲み物」
部門でずっとトップを走ってきた。

版元のNHK出版もホクホクで、佐村河内守(さむら・かわちのかみ?)でソンこいた分
(絶版・回収代)必死に取り戻すべく(←自業自得だけどね)、この本にかける意気込み
にはすさまじいものがある。

それにしてもこのお騒がせ男はずいぶん芝居がかってたな。曲想が浮かばないのか
(←もとからそんなものあるわけない)、壁にガンガン後頭部を打ちつけたり
真に迫った顔で床を這いずり回ったりしていた。たいそうな役者である。

ドラマの中で、作家に扮した男が原稿を書きあぐね、しきりに原稿用紙を丸めてポイし、
部屋中が紙くずだらけになるシーンがよくある。あの頭ガンガンシーンもウソっぽいが、
あのポイ捨てもウソっぽい。ふつう物書きは今も昔も髪をかきむしったり、原稿用紙を
丸めてポイなんてやらない(紙がもったいないし、吹き出しをつければ足りるから)。
が、書斎の中を檻の中のクマみたいに歩き回ったり、いきなり机の回りを片づけ
始めたり、無意識のうちに仕事とは関係ないことに手を染めて、霊感というか閃きが
自然と向こうからやってくるのを待つ、というようなことはある。

ボクの場合は、冒頭の数行が決まればあとは比較的スイスイ書けるタイプで、
問題はどんな書き出しで始めるかだ。フランスの詩人ボードレールは
こんなことを言っている。
最初の1行は神から来る。2行目からは人が作る

〝かわちのかみ〟は図々しくも、
楽想は天から降りてくる。それを逃さずキャッチする……」
なんてことを言っておる。よくもまあヌケヌケと……。
が、ある種の閃きというか、究極の直観的境地に身を置くようなところは
たしかにある。

ボクは新垣隆ほど才能あるゴーストライターではもちろんない。
しがない〝100円ライター〟です」と自嘲気味に言ってるのは、
ほんとうにそう思っているからで、頭を壁にガンガン打ちつけるような
芝居っ気がちょびっとでもあれば、もう少し売れっ子になっている。

昨夜は代官山の「蔦谷書店」の一角で、前記の本の発刊を記念したトークイベント
開かれた。ゲストは「カフェ・バッハ」の田口護氏と滋賀医科大講師の旦部幸博氏だ。
不肖ゴーストライターの私めは司会進行役をつとめさせてもらった。

ボクの話は冒頭からいきなり過激だった。
《この数年、ゲイシャ遊びが流行ってるそうですね。このご両人もさんざっぱら
ゲイシャと遊んだクチでして、ボクも一度だけご一緒したことがあります。最近は
赤坂とか柳橋とかいうんではなくて、中米パナマの色黒ゲイシャが人気なんだそうです。
で、アフリカンベッドにしけこんでドンパチやる……これが今風のトレンドというわけ
ですが、このゲイシャ、ちょっとばかり体臭がきつい》

会場の中には、こいつはいったい何を言い出すんだ、というような不審顔を
していた人も何人かいたが、この「ゲイシャ」があの「芸者」ではなく、
スペシャルティコーヒー業界のスーパースター、ゲイシャ種だということは
すでにみな承知で、「アフリカンベッド」や「ドンパチ」の意味するところも知っている。

2004年の「ベスト・オブ・パナマ」というコーヒー豆の品評会で彗星のごとく登場し、
国際オークションで超高値をつけたことで一躍有名になったゲイシャ種。
今でも人気は続いていて、高いものになると100グラム当たり
2万4000円もする。コーヒー1杯当たりに換算すると2400円もする。

このゲイシャは〝レモンジュースのような〟香味がする。レモンジュースの香りが
するコーヒーを高い金払って飲むくらいなら、100円ちょっとの「キリンレモン」を
飲んだほうがまし、と不心得にもボクはそう思っているのだが、実はそんなことを
言いたいわけではなく、コーヒーの中にはレモンやオレンジの香りがするものもあれば、
キャラメルやメープルシロップ、カシスや焼きりんごの香りがするものもある。
《……つまりコーヒーにはいろんなフレーバーがあるんですよ、
ということが言いたいわけです。それでは他にどんな香味があるのか、
ご両人にもっと精しくうかがってみましょう……》


←ゴーストライター嶋中労の司会風景。
みなしっかりメモをとり、神妙な顔つきで
聴いていた。お疲れさま。
主役の〝タグタンコンビ〟は哀れにも
右手の「キッズ」と書かれた看板の下に
埋もれて見えない。

photo by のぶじい







というような感じでトークショーは始まり、なんとか無事に終えることができた。
不慣れな司会なんぞ頼まれて往生したが、つつがなく終えてホッとしている。
閉会後、著者2人にはサインを求めて長い行列が。憐れと思ったのか、
ボクにも数人がパラパラと寄ってきて、「すみません……サインをいただけますか?」

金釘流のへたっぴぃな字でサラサラとサインするのだが、
こんな時は、いつも尻の穴がムズ痒くなる(←不慣れなもので照れちゃうのだ)。
が、超チョー可愛いヤング女性2人にサインをせがまれたときは、
おじさんやおばさんの時の数倍くらい心をこめて書いてやった(←バカ)。

「下ネタから入ったから、どうなることかとヒヤヒヤしましたよ」
とは版元の担当編集者S君。ほんとうは『NHKスペシャル』で世間を騒がせた
〝かわちのかみ〟をもっと掘り下げようと目論んでいたのだが、時間がないので
割愛した。聞けばNHKのディレクターは5年も〝かわちのかみ〟に密着して
あのドキュメンタリーを完成させたという。5年も一緒にいて〝インチキ〟に
気づかないものなのか。天下のNHKさんよ、まずその不明を恥じなさい。
それにしても、あの頭ガンガンは堂に入ってたな。ボクもやってみることにする。




←会場の近くのフレンチレストランで
ささやかな打ち上げパーティ。
著者の旦部幸博さん(右)と本の装幀
を担当した山崎信成さん。下戸だった
はずの旦部先生は、この日、飲み放題
と聞いた途端、ワインをガンガン飲み
始めた。今まで猫をかぶっていたのだ。
〝かわちのかみ〟になれる要素は
十分にありそうだ。末恐ろしいキッズである








2014年2月22日土曜日

ぬるま湯大っきらい

日本では「忌憚のない意見」を発することはタブーとされている。
「今夕は無礼講ですから、大いに楽しみましょう」
などという上司の言葉を真に受けて、部長の肩を叩いたり、
「ハゲおやじ」などと放言したら、左遷されることは必至だ。
「無礼講」というのは社内の危険分子や不満分子、仕事のできない
お調子者を洗い出すための巧妙な罠なのだ。

ボクはこどもの頃からトモダチがいなかった、と再三書いている。
実は今でもいない。飲み仲間とか遊び仲間、仕事仲間はいっぱいいるが、
真のトモダチはいない。いなくても別段痛痒を感じないから、
今のままで充分だと思っている。

デリケートな日本人には「公理」ともいうべきルールがある。
他人を傷つけず、自分も傷つかない」というルールである。
したがって、日本人は他人から注意されたり、痛いところを突かれたりすると
その中身が正しくても、注意されたそのことを嫌い、注意した人間を激しく怨む。
相手を思いやるという「公理」に反したからである。

ボクは外国で仕事中にこれをやってしまい、仲間のひとりが離反した。
後悔はしていないが、やり方がまずかったという反省はある。

こうした公理がまかり通っている国では、相手の欠点を指摘したり注意することに
ついためらいを感じてしまう。勇気も必要だ。で、蛮勇をふるって注意すると、
案の定、相手は屈辱と感じ、ヘソを曲げてしまう。友情にヒビが入ってしまう。
自己愛の強い相手だと、こじれた糸がなかなか元に戻らない。

そんな事態を招きたくないから、みんな黙っている。わが身可愛さに、
ほんとうの気持ちを偽り真実を押さえこんでしまう。

「対立を避ける」ということは大事なことかもしれない。
が、言いたいこともいえず、互いに「いいね!」「いいね!」
と褒め合っている〝ぬるま湯〟みたいな関係は、
どこか不自然で薄気味がわるい。

真実に面と向かい合う勇気のないものに、明るく健全な未来などない。
酒や趣味の世界に逃げ込んでも、所詮は惰弱な心のシェルターに過ぎず、
いつまでたっても問題は解決しない。戦うべき時に戦わなかったら、
いったいいつ戦うのだ、という話になる。怯懦は恥だ
対立を避け、和合ばかりを求めたがる精神は「惰弱な精神」と知るべし。

人間の本性は自己愛である。人間は息をひきとるまで、
生涯をかけて私を認めてくれ、私を認めてくれと、
声なき声で叫び続ける可憐な生き物なのだ》(『人間通』より)

自己愛もいいが、ゆきすぎるとみっともない。
愛するに足る〝自己〟かどうか、胸に手を当ててよーく考えてみるといい。

トモダチなんて七面倒くさいものは要らない。
酒の相手をしてくれるつかの間の仲間がいれば、
もうそれで充分だ。





←美しき〝ナル男〟ちゃん。
もちろんおじさんたちにもナル男はいっぱいいる。
誰にでもナル男の要素はあるが、
あまりに自己陶酔してしまうと薄ッ気味わるい。
おいらも気をつけねば……(笑)


 

2014年2月20日木曜日

中国四千年の歴史? フフンだ!

「中国四千年の歴史」などといわれると、わけもなく畏れ入ってしまうものがあるが、
あんなもの、「白髪三千丈」の類で、単なる〝こけおどし〟にすぎない。
最近は「中華民族の偉大な復興」などというスローガンもよく使われるが、
なんのことはない、軍事力強化のための体のいい隠れ蓑にされているだけだ。

そもそも「漢民族」の定義からして定まっていない。
代表的なのは「漢」だが、「後漢」末期の黄巾の乱の戦禍と度重なる飢饉で
人口が激減、さらに北方の遊牧民が流入し、『三国志』の魏・呉・蜀の争乱が
終焉を迎えるころには、漢時代の人口の8割は消え、民族がすっかり入れ替わって
しまったといわれている。

「随」の初代皇帝・楊堅や「唐」の初代皇帝・李淵は鮮卑系(モンゴル系とも
トルコ系ともツングース系ともいわれる)とされるし、「遼」は北方の契丹族
南宋と戦った「金」はやはり北方の女真族、「元」はもちろんモンゴル族で、
「清」は満州族というように、入れ替わり立ち替わり異民族の支配を受けている。

もちろん「宋」や「明」、「中華民国」、「中華人民共和国」は漢民族とされているが、
「秦」や「漢」のころの漢民族ではない。連続性はないのだ。

だから孫文が起こした政治運動を「辛亥革命」と呼ぶのは正確ではない。
あれは満州族の王朝だった「清朝」に対して漢族が起こした〝独立回復運動〟
と捉えるべきなのである。

中国は「易姓革命」の国といわれている。
別の姓をもつ一族によって、前の王朝の皇帝一族が〝放伐(ほうばつ)〟される。
放伐とは放逐されるか討伐されるか、のどっちかで、要はこの興亡の繰り返し
が中国の歴史だった。そこには連続性はなく、漢民族単独の四千~五千年
の歴史などという〝たわごと〟は、まさしく噴飯物もいいとこなのである。

日本人は孔子や孟子、老子や荘子に世話になったという引け目があるから、
数千年の歴史などといわれると、その場にひれ伏してしまいそうになるが、
そんな物はフィクションで、畏るるに足らないのだと一蹴してしまえばいい。

まだ信じられないのなら、こう応えれば充分だろう。
「古代ギリシャは立派な文明でした。でも現代ギリシャはどうですか?
EUのお荷物で、とても尊敬に値する文明とはいえないでしょ?」
輝ける古代文明と現代中国とはまったく関係ないのである。

だいいち、共産中国は二言目には先の大戦の勝者だと胸を張っているが、
仮に中国が勝者だとしたら国民党の蒋介石政権こそがその勝者であって、
厳密にいえば「台湾」ということになる。火事場泥棒みたいに利を横取りした
共産中国が〝戦勝国〟などとはおこがましいのだ。奸智にたけた奴らには
〝僭称国〟または〝僭上国〟の蔑称こそふさわしい。




←偉大な漢民族に偉大な韓民族か?
フン、笑わせやがる

 

2014年2月17日月曜日

後ろから前から

今月はボクと長女の誕生日のある月。
15日(日)の昼、合同誕生会を開くべく渋谷の某イタリアンレストランに向かった。
折からの雪で、道路はびしょびしょ。スノーブーツを履いていったのだが、
すでに靴下まで浸水し、店に着いたときは青息吐息の状態だった。

いやな予感はあった。雪道を歩きながらも、
(なんか、いつもと違うぞ。風邪でもひいたかな……)
自然と無口になり、店に着いたら何やら嘔吐感もおそってきた。

(おかしいな……食欲が全然ないぞ。それに寒気も……)
案の定、うまそうな「前菜の盛り合わせ」に手が出ない。
この店はエミリア・ロマーニャ州の料理が専門で、
ビオワインなど自然派ワインの品揃えが売り物だ。
しかし……そのワインも飲む気がしない。かろうじて水を飲む。

スパゲッティ、サルシッチャ、ラザニア、メインの「仔羊のコトレッタ」にもまったく
手が出ず、隣の長女などは「もったいないなァ」と横目で不機嫌そうに睨む。
店のソムリエやシェフたちもガラス越しに心配そうな顔だ。

「大変申しわけないんですが、にわかの体調不良で食べられません。
せっかくの料理なのに、ほんとうに申しわけない」
心配そうなソムリエにそっと耳打ちをした。

家に帰ったボクはそのままバタンキュー。
腹痛と嘔吐、それにシャーシャーという水便に悩まされ、
ほぼ1時間ごとにトイレに立った。後ろから前からと、大忙しだ。

医者にはかからなかったが(そんな状況ではない)、たぶん100%ノロウイルスと直感
ネットで調べたら、症状がピッタリ合っていた。
で、2次感染を防ぐため、希釈した漂白剤入りの霧吹きで便器や便座、
ドアノブなどを消毒。トイレに立つたびにこのことを繰り返した。

そして丸2日間床に臥せったあとの月曜の朝。
腹痛も治まり、下痢も止まったようなので、ようやく床上げをした。
ほぼ2日で症状が治まるというのもノロウイルスの特徴。
ボクは教科書どおりの症状をふり返ってみて、完全にそのことを確信した。
でも、どこで感染したの? 
もしかして、数日前に酒のつまみとして食べた牡蠣が原因か……

いずれにしても散々な誕生会で、お店のスタッフにも心配をかけてしまった。
が、悪いことばかりではない。おかげで絶食、断酒がムリなく実現でき、
心なしかお腹もへっこみ、男っぷりが上がったような気がする。
転んでもただでは起きない、したたかなおじさんであった。





←合同誕生会。かろうじて笑顔を
つくっているが、ずっと嘔吐感に
苛まれていた。
ああ、料理がまったく食べられず、
残念なことをした。いつかリヴェンジを。

2014年2月12日水曜日

メダリストは〝半ケツ〟男

ハーフパイプに「歩夢(あゆむ)」が2人。
(この名前って、いま流行りなの?)
わが家はだれも、まずこのことに驚いた。平野歩夢に子出藤(ねでふじ)歩夢。
腰パン半ケツ男たちは、名前までもが半分キラキラしていた。
さてその半ケツ男、みごと「夢」を掴み取ったのはまだ15歳というションベン垂れ
の平野だった。平野歩夢と平岡卓の〝ひらひらコンビ〟はスノーボードの
ハーフパイプ部門で堂々と銀と銅を獲得したのである。

一方、メダルを確実視されたジャンプの高梨沙羅は重圧に押しつぶされたのか、
僅差で4位に甘んじてしまった。ハーフパイプで金メダル確実とされた米国の
ショーン・ホワイトも4位と失速。状況はまったく同じである。両者ともその無念さは
察するに余りある(←沙羅ちゃん、よくがんばったな。君はニッポンの希望の星だ)。

ハーフパイプというと半ケツ腰パンの國母和宏を思い出す。
バンクーバーオリンピックに向かう際、公式のユニフォームを着崩して批判を浴びた。
腰パンにネクタイをゆるめ、裾出しシャツにドレッドヘアー、そして鼻ピアス。
記者会見場では、記者からその非礼を突かれると、「反省してまーす」と発言、
この際に小さく舌打ちをして「チッ、うっせーな」などと悪態をついた。
この國母、日本に愛想づかししたのか、今はアメリカ・カリフォルニアに住んでいる。
平野歩夢の敬愛する人物でもあって、今回も貴重なアドヴァイスを受けたと聞く。

さて、ハーフパイプで銅メダルを獲った平岡卓は「ぜんぜんあがらなかった」と言うし、
緊張と無縁の平野も「思いきり楽しめた」などと語っている。小心者のボクなんか、
それだけでも「すっげぇ(←汚い言葉だときらってるくせに、すぐ使う)」と心底感心してしまう。

体操の内村航平も大舞台で「緊張しない」タイプとして知られている。
衆人環視のもと、常に平常心でいられるというのはすごいことだ。
いったい心臓に何本毛が生えてるのか、いっそ解剖してみたくなるほどだが、
人間には「ビビる派」と「非ビビる派」があって、内村や平岡、平野などは
「非ビビる派」の代表選手なのだろう。

ボクなんか典型的な「ビビる派」で、昔から本番に弱いと評判だった。
英語の弁論大会はビビって失敗し、大学受験にもビビってつまずいた。
また水泳大会ではビビって下痢ばかりしていた。
まるで映画『シコふんじゃった』に出てくる〝うんち男〟そのものだった。

ボクが沙羅ちゃんの立場だったら、ジャンプ台の上で緊張しまくり、
順番がきて呼び出しがあってもカチンカチンに固まったままか、
それとも、
「たびたびスミマセン……便所に行ってもいいですか?」
などと哀願し、係員を困らせていたにちがいない。

「ビビる派」は生涯ビビりっぱなしなのか、というとそうでもない。
そこは年の功で、年々面の皮が厚くなり、ノミの心臓にもうっすら毛が
生えてくるようになると、人前でもあがることが少なくなる。
だいいち、うつむいてばかりいたら講演の仕事などできっこない。

ボクもようやく心臓に産毛が生えてきたのか、
本番で便所に駆けこむことがめっきり少なくなった。
それでも「ビビる派」の人間であることは変わらず、
今ではむしろ「ビビったほうが人間的じゃないか」などと半分開き直ってもいる。

もっとも、年がら年中酩酊状態だから、ビビってるヒマがない、
というのが正解なのだが、たまに〝しらふ〟でいることもあるので、
その時は堂々と介護用オムツを着けることにする。
人間の一生は〝オムツからオムツまでの間〟という。
娘たちはメリーズに世話になったから、ボクもさらっさらのメリーズにするつもりだ。




←ハーフパイプの表彰台にて、
「非ビビる派」の半ケツ男たち




(写真は時事通信より)


 

2014年2月5日水曜日

「世界市民」なんてどこにもいない

「わが国」といわず「この国」という人がいる。
「国民」という言葉をきらい、「市民」と言いたがる人もいる。
民主党や社民党議員などはその代表で、そのイデオロギーに同調する
人たちもまた「市民」と称し、「市民運動家」などと胸を張る連中もいる。

ボクの身近にも市民運動家を気取る市議会議員がいる。
とってもいい人で、友人の列に連ねたい人の1人なのだが、
ボクには彼女の唱える革新やら改革が口先だけの偽善に思え、
また自民党など「保守」勢力を激しくきらっているところもあって、
どこか心を開けない自分を感じている。

「国民」と「市民」の違いは何だろう。
ある人は「国境の観念のあるなしだ」と言う。
「市民」には国境がない。
国境なんていうややこしいものがあるから紛争が絶えない、あんなもの
無くしてしまえばいい、というのが彼らの言い分である。ボーダーレスになれば
人種を超え民族を超え、地球上の全人類が仲良く交わることができる。
これが「市民派」の考える平和のイメージである。

たしかに高邁な理想で、そうなってくれればどれだけ幸せだろう、
と夢想しないでもないが、このような「平和」がかつてこの地球上にあっただろうか、
と考えると、残念ながら過去にも現在にもそんなおあつらえ向きの平和は存在しない
し、この先も存在しないだろう、という確信じみた現実に引き戻されてしまう。

かつて民主党の鳩山由紀夫首相は、東シナ海を〝友愛の海〟にしようと唱え、
また「日本の国土は日本人だけのものではない」などと発言した。
その結果はどうなったか。とどのつまりは、日米同盟関係のほころびと見てとられ、
支那も韓国もロシアも「しめた!」とばかりに攻勢に出てきたのである。

ロシアのメドべージェフ首相などは2度にわたって択捉島を訪問、
北方領土はれっきとしたロシア領だと高らかに宣言した。
また、尖閣諸島周辺では支那の漁船が領海侵犯し、日本の巡視船に体当たりを
食らわせた。さらに韓国の李明博大統領は支那の尻馬に乗って竹島に上陸、
天皇が訪韓するのなら土下座して謝罪することが条件》などと、
外交儀礼上考えられないような非礼な発言をして澄ましていた。
いずれも自民党政権下では起こりえなかったことである。

市民運動家がそのまま首相になったりすると(菅首相のことです)、
歴史観、人間観、国家観が激甘のため(なんてったって「性善説」に立脚してんだもんね)、
結局こういう不測の事態を招いてしまう。

では真の平和はどうしたら成立するのか。
答えは簡単だ。国境を明確にし、互いにそれを尊重し合った上で、
仲良く交わる――これ以外にない。

それを実現するためには、国境の観念をしっかり保持した「国民」が必要で、
この観念こそが国防の礎となる。国境の観念を持たず、「世界市民」などと
いう、ありもしない観念を弄んでいる「市民」に国の防衛は任せられない。

「市民派」は別名「リベラル派」などと呼ばれる。
「リベラル」とは何か。辞書には〝自由主義的な〟とか〝進歩的な〟などと
のんきなことが書かれているが、ボクの辞書にある「リベラル派」は、
《何かというと反体制や反権力を気取る薄っぺらな人たち》のことで、
《崩壊した社会主義に、いまだにシンパシーを寄せている「喪家(そうか)の狗(いぬ)」
の意味でもある。要は口先だけで良心的なポーズを気取る〝ええかっこしぃ〟
が「リベラル派」の正体なのである。

「市民派」を標榜する口達者な連中には、よくよく気をつけたほうがいい。




←この衒学趣味の坂本龍一や大江健三郎なども
「リベラル派」の代表で、日本の国力を減じようと、
必死に〝脱原発〟を叫んでいる。
なにが〝教授(坂本のニックネーム)〟だ、
バカバカしい。