①英語は読解できる。でもしゃべれない。
②日本語は読めるが解らない。でも英語はしゃべれる。
①は不肖わたくしで、②はわが家の豚児(次女)である。
豚児の名誉のためにいくぶん訂正すると、現代文はもちろん読解できる。
しかし古文といわないまでも、ちょっと時代をさかのぼると、もう手も足も出ない。
事実、泉鏡花の『高野聖』に挑戦したものの、巧緻を尽くした幻想的な美文に
まったくのお手上げ状態だった。しかたなく英語に翻訳されたものを読み、
ようやく「おもしろかった」との感想をもらした。
英語の早期教育が叫ばれている。が、美しい日本語、正しい日本語を
身につけるほうが先だろう、とボクは思っているが若いお母さんたちは
思わない。「幼児期から習わせなければ国際人になれない」とばかりに、
まだ日本語も満足にしゃべれないうちから幼児向けの英語塾に通わせようとする。
英語がしゃべれるというのはまことに慶賀に堪えない。ただ問題は、何をしゃべるかだ。
名論卓説などハナから期待していない。天下国家を論じろというのでもない。
話柄など卑俗であっていいのだ。が、俗な話題であっても、どこか人生の機微に
ふれるような、さりげない味つけがほしい。二十歳そこそこの娘にそんな芸当など
できるはずもないが、話の中身が〝きゃりーぱみゅぱみゅ
(正式芸名はきゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ)〟なんて、
舌を噛みそうな名前を付けたがる無脳のパープリンでは国際人もヘチマもない。
だいいち「国際人」なんていう人種が存在するとホンマに思っているのだろうか。
思っているとしたら底無しの大バカ野郎である。
何度でもいう。「国際人」なんてものは日本人の欧米コンプレックスが
生みだした幻影にすぎない。もうそろそろこの迷妄から覚めたらどうだ。
さて偉そうな説教を垂れ流してしまったが、ボクにしたって豚児の無知を笑えない。
というのは、先般、コンピュータ相手に将棋を差し、接戦の末に負けてしまった
米長邦雄名人のエッセイを読み、目が点になってしまったからだ。
米長氏はこんなふうに書いている。《実は60歳になるまで知らなかった読み方がある》と。
それはなんと「君が代」の中に出てくるというのだ。
《君が代は 千代に八千代に 細石(さざれいし)の
巌(いわお)となりて 苔のむすまで……》
この「むす」を漢字で書くとどうなるか。実は「生す」と表記し、
「苔の生すまで」と相成る。米長氏は「むす」を「生す」と書くことを知らなかった、
と告白しているが、恥ずかしながらボクも知らなかった。
また同じエッセイのなかで、こんなことにもふれている。
「学力世界一」といわれるフィンランドでは、
9割以上が「子供の成績は親の責任」と答えているという。
《フィンランドと日本の一番の違いは何かと言えば、親が学校の先生を尊敬していることと、
子供が親を尊敬していることです。(中略)一方、日本では、子供は親の言うことを聞かないし、
親は教師を尊敬しないうえに成績が悪ければ学校のせいにする》
娘たちがまだ小さかったころ、ボクはよく学校の授業参観に出かけた。
懇親会の席で先生や母親たちを前にこんな発言をしたことがある。
「子供の前では、決して父親をこきおろしたり、教師の悪口は言わないことです」
若い母親たちは神妙な顔してうなずき合っていたが、数日後、
「◎◇ちゃんのお父さんは右翼の人らしいわよ」
こんな噂が、母親たちの間を電光のように駆けめぐった。
②日本語は読めるが解らない。でも英語はしゃべれる。
①は不肖わたくしで、②はわが家の豚児(次女)である。
豚児の名誉のためにいくぶん訂正すると、現代文はもちろん読解できる。
しかし古文といわないまでも、ちょっと時代をさかのぼると、もう手も足も出ない。
事実、泉鏡花の『高野聖』に挑戦したものの、巧緻を尽くした幻想的な美文に
まったくのお手上げ状態だった。しかたなく英語に翻訳されたものを読み、
ようやく「おもしろかった」との感想をもらした。
英語の早期教育が叫ばれている。が、美しい日本語、正しい日本語を
身につけるほうが先だろう、とボクは思っているが若いお母さんたちは
思わない。「幼児期から習わせなければ国際人になれない」とばかりに、
まだ日本語も満足にしゃべれないうちから幼児向けの英語塾に通わせようとする。
英語がしゃべれるというのはまことに慶賀に堪えない。ただ問題は、何をしゃべるかだ。
名論卓説などハナから期待していない。天下国家を論じろというのでもない。
話柄など卑俗であっていいのだ。が、俗な話題であっても、どこか人生の機微に
ふれるような、さりげない味つけがほしい。二十歳そこそこの娘にそんな芸当など
できるはずもないが、話の中身が〝きゃりーぱみゅぱみゅ
(正式芸名はきゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ)〟なんて、
舌を噛みそうな名前を付けたがる無脳のパープリンでは国際人もヘチマもない。
だいいち「国際人」なんていう人種が存在するとホンマに思っているのだろうか。
思っているとしたら底無しの大バカ野郎である。
何度でもいう。「国際人」なんてものは日本人の欧米コンプレックスが
生みだした幻影にすぎない。もうそろそろこの迷妄から覚めたらどうだ。
さて偉そうな説教を垂れ流してしまったが、ボクにしたって豚児の無知を笑えない。
というのは、先般、コンピュータ相手に将棋を差し、接戦の末に負けてしまった
米長邦雄名人のエッセイを読み、目が点になってしまったからだ。
米長氏はこんなふうに書いている。《実は60歳になるまで知らなかった読み方がある》と。
それはなんと「君が代」の中に出てくるというのだ。
《君が代は 千代に八千代に 細石(さざれいし)の
巌(いわお)となりて 苔のむすまで……》
この「むす」を漢字で書くとどうなるか。実は「生す」と表記し、
「苔の生すまで」と相成る。米長氏は「むす」を「生す」と書くことを知らなかった、
と告白しているが、恥ずかしながらボクも知らなかった。
また同じエッセイのなかで、こんなことにもふれている。
「学力世界一」といわれるフィンランドでは、
9割以上が「子供の成績は親の責任」と答えているという。
《フィンランドと日本の一番の違いは何かと言えば、親が学校の先生を尊敬していることと、
子供が親を尊敬していることです。(中略)一方、日本では、子供は親の言うことを聞かないし、
親は教師を尊敬しないうえに成績が悪ければ学校のせいにする》
娘たちがまだ小さかったころ、ボクはよく学校の授業参観に出かけた。
懇親会の席で先生や母親たちを前にこんな発言をしたことがある。
「子供の前では、決して父親をこきおろしたり、教師の悪口は言わないことです」
若い母親たちは神妙な顔してうなずき合っていたが、数日後、
「◎◇ちゃんのお父さんは右翼の人らしいわよ」
こんな噂が、母親たちの間を電光のように駆けめぐった。