2013年1月29日火曜日

時間泥棒よ去れ!

わが家にはドイツ語の絵本が数冊ある。
ボクはドイツ語を少しばかり囓ったから、辞書片手なら読めないこともないが、
わざわざそこまでしてドイツ語の絵本を買ったりはしない。
ドイツの友人S女史がボクの娘たちに送ってくれたのだ。

その本は世界的な絵本作家ミヒャエル・エンデ作のもので、
なんと娘たちに宛てたエンデ氏直筆のサインが入っている。
ミュンヘン在住のボクの友人Sさんは、エンデさんの大の親友なのである。
エンデさんは残念ながら数年前に亡くなってしまったが、
彼は『モモ』という大ベストセラー作品を残していってくれた。

モモは眼の大きな女の子の名前だ。
ドイツの村の広場では村人たちが歌ったり踊ったりして楽しく暮らしていた。
そこに「時間泥棒」というふしぎな存在がやってきて、村人を説得する。
「毎日遊んでばかりいないで、もっと働きなさい。時間を節約して働けば、
金持ちや有名人になれますよ」

村人はなるほどと思い、広場に集まるのをやめ懸命に働き出す。
結果、ある人は金持ちになり、またある人は有名人になった。
しかしある日、ハッと気づく。あれほどにぎやかだった広場にはもう誰もいない。
みな、さびしくなってしまう。そこにモモが登場し、時間泥棒を退治して、
再び広場にかつてのにぎやかだった生活を取り戻す、というお話だ。

この『モモ』は働き蜂の日本人のために書かれたのではあるまいか、
と時々思うことがある。イタリア人みたいに食べたり歌ったり踊ったりしていたら、
国の経済が傾き、個々人の生活は決して豊かにならない。
が、何ものにも換えがたい「宝」を得ることはできる。
それは互いに友だち、仲間であるという共生感だ。

ボクは昔からお金というものにとんと縁がなく、女房には苦労をかけ通しだが、
恒産を持つことはむずかしくても、「心の恒産」なら持てそうな気がする。
年を取ってくると、むしろ心と心の結びつきといったものに関心が移っていく。
いっしょにお酒を飲んだり、歌を唄ったり、旅をしたりすることこそ、
生きることの真の意味ではないのか――そんなふうに思うようになる。

流行り言葉でいうと〝絆(きずな)〟ということになるのだろうか。
きょうも隣町のプールで、見ず知らずの人たちと軽口をたたき合いながら、
楽しいひとときを過ごしてきた。

プールにはいろんな人が来る。なかには足の不自由な人、半身マヒの人、
人工透析を受けている人、心臓にペースメーカーを埋め込んでいる人、
あるいは心の病(ボクもそう)に悩んでいる人、婚活中の人など実に様々だ。

そのほとんどが隠居した人で、時間泥棒に「もっと働け!」と言われることもないので、
おおらかというか、開き直っているというか、みな人生を半分降りちゃっているような、
どこか潔い、そしてまたすがすがしい顔をしている。

ひとりぼっちは限りなくさみしい。
階下に住むじいさんは、因業な性格が災いしてか、友だちがおらず、
いつもひとりぼっちだ。元は教師で、校長までやったと自慢していたが、
こんな教師に教わったら、生徒がとてつもなく不幸になりそう、
と思わせるような男で、ボクは今でも口をきかないし、挨拶もしない。
この男には、過去にずいぶんひどい目に遭わされてきたからだ。

食事のときに大切なのは、何を食べるかではなく、誰と食べるかである
とは『セネカ道徳書簡集』の中の一節だ。仲良く楽しく食べ合う「共食」こそ、
いま最も求められている生き方ではないのか。
というわけで、たまには色っぽいグラマー美人と〝共食(共食い?)〟したいな、
と夢想するボクであった。←バカ、一生夢想してろ!




←『モモ』を読んで、失った時間を取り戻してください

2013年1月21日月曜日

葦鶴を生きる

正月の2日、長野・松代に行った折、蓮乗寺に詣でた。
ここにはNHKドラマ『八重の桜』にも出てくる佐久間象山の墓がある。
京都の妙心寺より分葬されたもので、この寺は佐久間家累代の菩提寺でもある。

象山は開国思想家で、後に京都で凶刃に斃れてしまうが、
門下生でもあった吉田松陰の密航を激励した人物としても知られている。
夷の術をもって夷を制す――象山の外国に対する基本的戦略はこれだった。
敵に大鑑あらば、我もまた大鑑を造るべし。敵に巨砲あらば、我もまた巨砲を造るべし。
近代文明の象徴でもある黒船に対しては、我々もまた富国強兵策を採用し、
海の守りを固めなくてはならないと説いた。

佐久間象山は傲岸不遜な男で、勝海舟などは大ボラ吹きといって敬遠していた。
同じく大ボラ吹きといわれた海舟だけには言われたくないと思っただろうが、
とにかく「俺の言ってることは正しい」と鼻につく言い方をする男だったようで、
思想家としては高い見識の持ち主ながら、周囲からはたいそう煙たがれた。

海舟はいわゆる「幕末の三舟」と呼ばれるうちの一人で、他の二人が山岡鉄舟と
高橋泥舟だ。泥舟は徳川慶喜の護衛役を務めた槍の名人で、山岡鉄舟の義兄でもある。
また泥舟の兄はやはり槍術の天才と謳われた紀一郎こと山岡静山。
27歳で夭逝してしまうが、静山の木刀にはこんな文句が刻まれていたという。

    
            無道人之短(人の短を道(い)う無かれ)
     無説己之長(己の長を説く無かれ)

泥舟は戊辰戦争に敗れた後は草莽に隠れてしまうが、明治政府から出仕するよう
懇請されると、総理大臣ならやってもいいよ、とからかった。主君の慶喜が
隠遁生活をしているというのに、自分が明治政府の顕官要路の人となれば、
主君を売ったことになる。至誠をモットーとするこの男にそんなマネができるわけがない。
そして詠んだ歌がこの狂歌だ。

    狸にはあらぬ我身もつちの舟 漕ぎいださぬがカチカチの山

自分を『カチカチ山』のタヌ公に見立てた洒落っ気のある歌である。
泥舟は字がうまいし、絵もうまいので、書画の売り食いで露命をつないだ。
そしていつ死んだか分からないような消え方をした。
泥舟はこんな歌も詠んでいる。

    野に山によしや飢(う)ゆとも葦鶴(あしたず)の むれ居る鶏の中にやは入らむ

自分は気高く美しい鶴。たとえ野山に飢えることになっても、鶏舎の中に飼われた
ニワトリの群れの中に入っていくようなことはしない――と。カッコいいですね。

晩年、泥舟は髑髏(どくろ)の絵ばかり描いていた。随筆の中には、
美妃と醜婦、貴賤貧富とに論なく、ひとしくこの髑髏となるを免るる者なし
とある。まさにニヒリズムの権化と化している。

生きているときの栄華だとか美貌に何の意味があろう。この世はすべて夢まぼろし。
人間の存在など仮のもので、一生を終えればみな等しく骸骨になってしまう。
人間なんてものは、所詮我欲にとり憑かれた醜い骸骨に他ならない――。

そういえば、漱石もまた同じような無常観あふれる句を詠んでいる。
25歳の若さで早世した嫂・登世の死を悼み、詠んだ句がこれだ。
     
     骸骨やこれも美人のなれの果て

嗚呼、負け惜しみといわれたっていい。
おまえには土台無理な相談だよ、といわれてもいい。
ボクは泥舟のように生きたい。
葦鶴のような凛とした生き方がしたい。
そして、ふっと消えるように生涯を閉じたい。






←俗に貧すれば鈍するというが、高橋泥舟は
気高い鶴であろうとする気概の人でもあった。
こんなカッコいい男が、ほんのちょっと前の
日本にはゴロゴロいたのである。
日本の学校では、なぜこういう偉人傑人の
生き方を教えないのだろう。

2013年1月18日金曜日

国賊を召し捕れ!

鳩山の〝馬鹿ップル〟がまたやってくれた。
支那から招待されたルーピィ鳩山夫妻(かつてこの元日本国首相は米国訪問時に、
ワシントンポスト紙からloopy(頭のおかしい男)と揶揄されたことがある)は、
またまた支那を利するようなおバカなパフォーマンスをやってしまった。

尖閣諸島を日中間の〝係争地〟であると認めてしまったり、南京大虐殺記念館に
のこのこ出向き、「多くの南京の人々を苦しめた事実は素直に受け入れなければならない。
大虐殺はなかったという方は、ここに来られてから話をされたらいい」と述べ、
よせばいいのに向こうが勝手に言いつのっている30万人虐殺説に、
何度も大きくうなずいたという。このニュースを聞いた小野寺防衛相は
久しぶりに頭の中に〝国賊〟という言葉がよぎった」と怒りをぶちまけている。
この宇宙人野郎はいったい何を考えているのか。

南京事件は昭和12年12月に起こった、と支那は言う。日本軍の南京占領前後の6週間で、
市民と捕虜が「30万人以上虐殺」されたというのである。しかしこの数字がでっちあげである
ことは明白だ。その証拠はいくつもある。たとえば、南京陥落時の人口は約20万人だった。
が、翌年1月にはその人口が25万人に増えている(当時南京に在住していた外国人による
組織「安全区国際委員会」の報告)。この事実を何とする。

それに当時は、アメリカの外交官や他国の人々もたくさん南京にいた。
日本からの特派員やカメラマンも300人近くいた。首都南京が陥れば、
このいくさは終わると、国民も将兵も思っている。もちろん軍紀は保たれていた。
その南京市民を虐殺したというのなら、一番乗りした記者たちは目撃したはずである。
従軍記者の中には大宅壮一や石川達三もいた。作家の石川は、どっちかといえば
左翼思想の持ち主で、あの戦争には反対していた。
その石川が虐殺などという事実はなかった、と証言している。

いや、そもそも日本政府に「大虐殺」の抗議をしたという外国政府など1つもない。
だいいち、蒋介石も毛沢東も一言もふれていない。あの大虐殺には何の根拠も
ないのである。

考えてもみてくれ、人口が20万人しかなかったのに、殺されたのは30万人だと言う。
その空っぽになった南京市の人口が事件から2カ月後に5万人増えて25万人になっている、
という客観的事実をどう説明するのか。日本軍の統治でかえって安全になったと、
避難民たちが戻ってきたからこの数字になったのではないのか? もちろん戦争だもの、
多少の市民や便衣隊(軍服を着ていないゲリラ)の犠牲はあっただろう。
しかし死屍累々ともいうべき30万人という数字はいったいどこから出てくるのか。
支那が得意の白髪三千丈の類であることは明々白々ではないか。

古森義久氏によると、『中国歴史』の教師用指導書には次のように書かれているという。
《「南京大虐殺」については血に満ちた事実により日本帝国主義の中国侵略戦争での
残虐性と野蛮性を暴露せよ。教師は授業の中で、特に小文字の記述での日本軍の
残虐行為の部分を生徒に真剣に読ませ、日本帝国主義への深い恨みと激しい怒りを
生徒の胸に刻みこませよう。南京大虐殺の時間的経過と日本軍に殺された中国軍民の
人数を生徒に覚えさせよ》

つまり、狙いは日本に対する憎しみを子どもたちの心に植えつけること。
事実はその目的のために書き変えられ、ねじ曲げられていった、
というのが真実だろう。

それなのに、朝日新聞は大虐殺はたしかにあったと主張し、決定的な証拠写真と
称して生首写真まで掲載した。しかしこれは後に中国軍が馬賊の首を切り落とした写真と
判明した。ことほどさように、朝日新聞は終始支那におもねる記事を載せ続けた。
ありもしない殺戮をあったと言い張るのはふしぎな情熱である。多く殺されれば
殺されるほど支那は喜ぶと察した上での捏造か。

さて鳩山由紀夫や河野洋平は、いわゆる〝ハト派〟と呼ばれている。
しかし鳩山の仰天パフォーマンスや「河野談話」にもあるように、
この国のハト派の言動はなぜかいつも国益を損なう方向へいってしまう
北朝鮮のような独裁国家には「国家反逆罪」という法律があるという。
ボクは時々、(日本にもこんな法律があればいいのに……)と夢想することがある。




←憲政史上、最も愚かな首相として名を後世に残す
 だろう、といわれているルーピィ鳩山。こんな男を
 戴いた日本人の民度こそ責められるべき、
 とボクは思うのですがねェ……
 

2013年1月16日水曜日

少年よ、カレーを食べよ!

カレーはインドが起源なのに日本の国民食と呼ばれている。
ある時、インドで日本風のカレーを作り現地の人にふるまったら、
「こいつはうまい。いったい何という食べ物なんだ?」
と真顔で聞かれたというエピソードがある。

日本のカレーはベタベタしているが、インドやタイのカレーはサラサラしている。
なぜベタベタしているのかといえば、小麦粉をバターで炒めたルゥを使っているからだ。
本場インドでは小麦粉は入れない。油とスパイスと水だけで作る。

日本にカレーがお披露目されてから、およそ140年経つ。最初に紹介した『西洋料理指南』
という本には、具材として長ネギやニラ、赤ガエルを入れましょう、などと書いてあるから、
最初から玉ネギ・ニンジン・ジャガイモの〝三種の神器〟が入っていたわけではない。

カレーが直接インドから伝わったとしたら、たぶん国民食と呼ばれるほどには普及しなかった
だろう。インドからかつての宗主国イギリスに伝わり、イギリスのシチュー文化と合体
したものが日本に伝わった。つまり小麦粉入りのカレーである。洋食のひとつとして
紹介された、というのも大きい。かの鹿鳴館でもカレーがふるまわれていたというから、
カレーライスは〝文明〟そのものでもあったのだ。

インドには各種スパイスはあるが、そもそもカレー粉というものがない。
カレー粉はイギリス人の発明で、1世紀近く統治したかつての植民地インドの味を
懐かしみ、工夫に工夫を重ねて開発したものだ。そしてこのカレー粉をさらに発展させた
ものがカレールゥで、バーモントカレーやゴールデンカレーがそれにあたる。
発明したのは日本人だ。

さてカレーライスの名付け親は、かの札幌農学校のクラーク博士だといわれているが、
カレーライスとライスカレーの違いは何なんだろう? それについては面白い逸話がある。

戦後間もない国会で、「社会民主主義」を唱える政党と「民主社会主義」を唱える政党
ができた時、この2つはどう違うのかという質問に対し、後に山口二矢に刺殺される
浅沼稲次郎(社会主義者)は、
「それはライスカレーとカレーライスの違いのようなものだろう」
と答えてひとしきり話題になった。
日本の国会史上、まれにみるユーモラスな答弁だったという。

スパイスは香りはするが味を作るものではない。つまりカレーは調味料ではなく
〝調香料〟なのだ、とカレー博士の異名をもつ水野仁輔さんは言っている。。
だから50種類の料理があるとすると、カレー粉をふりかけるだけで、
たちまち50種類のカレー料理ができあがってしまう。

つまり、その気になれば「欧風ブラックビーフドライカツカレースパゲッティ」
などという奇妙奇天烈なメニューだって可能なわけだ。
カレー南蛮にカレーパン、カレー煎餅まで作ってしまう国は他にない。
インド発のカレーが、日本に渡って独自の〝カレー文化〟を開花させた。
ラーメンもまた然り。日本という国は、ほんとうに面白い。

 

2013年1月13日日曜日

ネクタイが締められない

《国境のトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった……》
川端康成の名品『雪国』の冒頭はこんな書き出しで始まる。
この国境を「こっきょう」と読むか「くにざかい」と読むかで、
いまだに熱い論争が続いていると聞くが、そのことはひとまず措く。

《国境のトンネルを抜けると発狂していた。その顔は紙のように白かった……》
こっちは嶋中労が車で長いトンネルを抜けた時の情景描写である。
群馬から新潟に抜ける関越トンネルはおよそ11キロという長大さで、
以前、このトンネルを走っていた時、ほとんど発狂寸前になったことがある。
抜けた時はかろうじて息をしていた状態で、顔面蒼白、身体は硬直していた。

ここのところ仕事が忙しく、2日間連続して朝の早い取材があった。
朝が早いということは満員電車に乗らなくてはいけないということで、
ボクにとっては長いトンネルを抜ける時のような決死の覚悟が要った。

以前少しふれたことがあるが、ボクは障害者のひとりで、
いわゆるPTSD(心的外傷後ストレス障害)の患者である。
ボクの場合は閉ざされた狭い空間に対して極度の恐怖を感じる病気で、
一般的には〝閉所恐怖症〟と呼ばれている。

一番恐いのは、ギュウギュウ詰めの満員電車の中ほどにいて、
人身事故とか踏切故障があって、駅でないところに緊急停車してしまうこと。
それが10分、20分と続くともういけない。頭の中は真っ白になり、
過呼吸症候群を引き起こし、呼吸困難になって気を失ってしまう。
患者の中にはむりやり人をかき分け、車掌室のドアを叩き、脱出を試みた、
という人もいるようだが、ボクも可能なら窓をたたき割って脱出しようとするかもしれない。

つき合いの長い編集者にはボクの病気のことをそれとなく伝えてあって、
朝晩のラッシュ時と重なる取材等はなるたけ避けるよう配慮してもらっているが、
こればっかりは取材先の都合もあることなので、勝手ばかりは言ってられない。

病気も〝たけなわ〟の頃は、数時間早めに起きて、一駅ごとに降りては呼吸を整え、
「エイヤー!」の気合いで乗り込み、次の駅でまた降りるということを繰り返した。
目的地まではなかなか到着しない。

もちろん薬はある。医者に処方された精神安定剤のようなものを常に何種類か
携帯していて、地下鉄や映画館、長いトンネル、場合によってはエレベーターや
窓のない小部屋などに備えているのだが、たとえ薬を服用していても、満員電車の
緊急停車があった場合は自信が持てない。その状態を想像しただけで呼吸困難に
なってしまうから、ふだんはできるだけ閉所空間のことを考えないようにしている。

でも、ときどきニュースなどで宇宙ステーションに滞在している日本人飛行士のことが
話題になったりする。なぜあんな所に数ヵ月も滞在できるのか。
とてもまともな神経とは思えない。いや、宇宙飛行士にはそもそも神経がないのだろう。
あの映像は非常にひっじょーにヤバイ。

長女の上司に当たるIさん(ボクの本の愛読者でもある)は、正月休みが終わり、
赴任先であるアルゼンチンはブエノスアイレスに戻っていった。彼の地は気温35℃で
夏真っ盛り。機中にいる時間がなんと26時間だったという。パニック障害発症前なら
「ああ、そうですか」と、大して驚きもせず聞けただろうが、今は無限に続く時間のように
感じられる。とてもじゃないが、世界を股にかける商社マンなど到底つとまりそうにない。

なぜこんな話をしたかというと、昨日、取材現場で女性スタイリストがしている結婚指輪
が目に入り、それを凝視してしまったからだ。ボクは指輪をしていない。腕時計もしていない
以前、自分の指輪をじっと見ていたら、突然、病気がフラッシュバックしてきて、
呼吸が困難になってしまったことがある。抜こうとしても抜けない。
焦れば焦るほど指輪はがっちり肉に食い込んでくる。

ボクはほとんど気を失いそうになりながら、デパートの宝飾店に飛び込み、
「スミマセン、急いでこの指輪を切断してください!」
店員もビックリしたようで、あとで聞いたらボクは顔面蒼白、息も絶えだえになって
飛び込んできたという。あの指輪を外した時の安堵感といったらない。
深く息を吸い込み、
(ああ、今回もまた助かった……)
ホッとするあまり、その場に崩れ落ちてしまった。

身体を締めつけるものがPTSDとどう結びつくのかはよく分からないが、
たぶん「締めつけるもの=気道を塞ぐ」というイメージと結びつくのだと思う。
結婚指輪を外しているのはナンパ目当てのチャラ男ばかりではない。
閉所恐怖症の患者もまた仕方なく外しているのである。

また時々ネクタイを結ぶことがある。あらたまった席や慶弔時の席などがそれで、
ボクにとってネクタイ着用は明らかに寿命を縮めるゆるやかな自殺行為なのだが、
薬でなんとかもたせ、その場をつくろっている。

その頑丈そうな肉体だったら、殺されても死なないね――口さがない友人たちは
ボクのことをそんなふうに評するけど、なに、ボクを殺すのなんか簡単だ。
窓のない部屋にものの30分も閉じこめておけば、あっけなく死んでしまうだろう。
ついでにウニやキャビアにカラスミ、それと高級ワインに対する猛烈アレルギー疾患
(アナフィラキシーショックで死に至る)があるから、食い物を一切与えず、
それらを部屋に放り込んでおくだけで即死してしまう。

それって、もしかして〝饅頭こわい〟の変形版? 
お疑いとあらば、ぜひ試してみてください。


2013年1月10日木曜日

♪窓を開け~ればァ

何度もいうけれど、ボクはバラエティ番組と呼ばれるものをいっさい見ない。
あのアホ面したバカタレ(おバカなタレント)や芸ノー人、騒々しくて下品な司会者
の顔を見ていると、にわかに憂国の情にかられ、六尺棒を片手にもろ肌脱いで
スタジオに殴り込みをかけたくなってしまう。

あの雛壇みたいなところに、日本国じゅうから選り抜きの愚か者を集めて並べるという
趣向は、いったい誰が考え出したものなのだろう。最近はテレビ画面の隅に小窓のような
小さな枠を作って、そこにスタジオ内に居並ぶアホどもの顔をアップで映し出すという
奇妙な演出までやりだした。うっとうしいったらありゃしない。

コラムニストの中野翠女史は、あの小窓が出てくるなりメモ用紙を貼りつけ隠してしまう
という。そこまでして見る必要があるのかいな、とふつうなら思ってしまうが、
彼女の場合は職掌柄、森羅万象のことごとくに目配りしておかなければならないので、
いかな国辱的なアホ番組であってもガマンして見続けるしかないのであろう。
その無念、哀切、悲愴……心からお察し申し上げる。

さてあの小窓だが、コーナーワイプ(画面分割)と呼ばれるものらしく、
メカニカルな面からいうと画期的な技術なのだという。だから製作者側は、
あくまで善意でやっていることで、必ずや視聴者へのサービスに資するもの、
と固く信じているようだ。それにタレントの所属事務所などから、
「もっとうちの子を映してやってくれ」といった執拗な圧力がかかっているとも聞く。

あの小窓ができてからというもの、バカタレどもは常にカメラを意識するようになり、
目を大きく見開いておどろいて見せたり、お涙頂戴の愁嘆場では
必要以上に涙を流すようになった。リアクションがやけに大きいのである。

この手の番組に〝Non!〟を突きつけた視聴者はどこへ行くかというと、
BSの『小さな村の物語イタリア』とか『世界ふれあい街歩き』とか『地球バス紀行』、
あるいは『吉田類の酒場放浪記』とか火野正平の『にっぽん縦断こころ旅』といった
癒し系の番組に行ってしまう。

〝小さな村〟なんてのは、出てくるのは決まってじいさんとばあさんと太った猫だけ。
ただ淡々と、何事もなく、ごくふつうのイタリアの山村の日常が描かれているだけなのだが、
その無欲で素朴な村人たちの生き方を見るともなく見ていると、いつしか心が温まってくる。
なんてったって番組のテーマ曲とナレーションがいい。

吉田類の番組も同じだ。あのちょび髭のおっさんが、ひとり酒場のカウンターに陣取って、
日々の頽落と虚無を溶かし込んだようなモツ煮をほお張りながら、梅チュウをおちょぼ口で
すする。そして店主や他の客相手に軽口をたたく。他には何もない。ただそれだけ。
でも、なぜかホッとする。バラエティなんぞを見て大口開けて笑っているより、
はるかに人間的で上品でもある。しかし類さんよ、その好色そうなにやけた顔は、
も少しどうにかならんもんかね。


←吉田類の酒場放浪記。
いつも酒ばかりかっ食らっているから、
肝臓のほうは大丈夫なのかいな、
とちょっぴり心配になる。
類さん、お酒はほどほどにね。






 

2013年1月8日火曜日

食べて歌って恋をして

仕事が忙しいとこぼすと、
「それはけっこうですな。男にとっては、仕事が忙しいのが何よりですから」
などと逆に羨ましがられる。この忙しさを愛でる文化というか、「多忙=幸福」
という公式を誰もが信じきっている文化というのは、いったい何なんだろう。

サラリーマン時代も手帳が予定でぎっしり埋まっている男が、
概して〝仕事のできる男〟と見られていた。実はこの男が底抜けに無能だったとしても、
通常は手帳の真っ白な男よりも評価は上位にランクされる。ボクなんか生来のなまけ者で、
人に会うことがきらいだったから、予定表はいつも真っ白だった。
雑誌記者をやっていて、人に会うのがきらいというのでは、土台お話にならないのだが、
きらいなのだから仕方がない。

以前、イタリアとスペインで長期に取材活動をした時、あっちの人間から、
「日本人は仕事ばかりしてるけど、人生何が楽しくて生きてるんだ?」
と、呆れ顔で聞かれたことがある。マンジャーレ・カンターレ・アモーレ(食べて歌って恋をして)
をモットーにしている怠け者のお前さんたちなんかに言われたくないね、
と反論したかったが、いまにして思うと、彼らの言い分もわかるような気がする。

人生は短いのだ。仕事ばかりやっていて、貴重な時間をどんどん削られてしまうと、
残り時間が少なくなってしまう。仕事が生きがいという人は別だが、ボクなんか
仕事は苦役(30%くらいは楽しいかな)だと思っているクチだから、
できれば、腱鞘炎にならない程度の仕事をこなしつつのんびり生きてゆきたい。
「忙しい」という字は〝心を亡ぼす〟と書くが、まさにこの数週間がそれだった。
心がカサカサに乾いてしまい、顔から笑顔さえも消えてしまった。

ボクはいまはイタリア人になりたいと思っている。国の経済が破綻してしまっては
元も子もないが、1回こっきりの人生を思いきり謳歌しようとする姿勢は共感できる。
だいいち年がら年中手帳をまっ黒にしていたら、浮気ひとつできないではないか。
いくらお金を稼いでも、できる男と褒めそやされても、歌ったり踊ったり恋したりする
時間がなければ、いったい何のための人生なのか。

たしかに日本人は働いてばかりいる。その割には労働生産性が低いという事実を
もっと知ったほうがいい。ムダな時間が多すぎるのだ。仕事は効率よくこなし、
定時になったら帰宅して家族と過ごす。あるいは愛人と過ごす。←いいなァ
生涯のほとんどの時間を会社で過ごすという「社畜」にだけはなりたくないものだ。
何? 偉そうなことを言ってるお前はどうなんだって?
ハイ、ボクは生涯のほとんどを家の中で過ごす「家畜」であります。メーエ……





←これは〝cantare(歌って)〟だけ。
 家畜だって唄ぐらい歌えるのだ
 
 
 この左端に実はピアノを弾いている
 NICKさん(コメントでお馴染み)が写っている
 のだが、ひどいご面相なのでカットした




 

2013年1月4日金曜日

妻にひかれて善光寺

牛にひかれて善光寺、ならぬ女子(おなご)にひかれて善光寺にお参りしてきた。
ボクにはそんな悠長なことをやっているヒマがなく、一刻も早く原稿を書き上げなくては
ならない使命(大げさだな)があったのだが、女たちが勝手に決めてしまったのだから
しかたがない。←編集者の目を意識して、かなり言い訳がましい

それに事前の予報では信州は雪だという。スタッドレスタイヤを持っていないボクとしては、
なんとも憂鬱な旅になってしまった。というのは、「ノーマルタイヤ+チェーン」という装備で
過去にずいぶん危険な目に遭っているからだ。下り坂でブレーキを踏んだ途端にスピンして、
正面から来たバスに衝突しそうになったり、菅平のスキー場で窪地から出られなくなって
しまったり……。雪道、というより凍結した道に対しての恐怖感が拭いきれないのだ。

そんな心配をよそに、女どもはやれ蕎麦が食べたい、野沢菜入りのおやきが食べたいなどと、
勝手に計画をめぐらしている。家族全員の命をあずかっているボクとしては、
とてもじゃないけど一緒になってはしゃぐ気にはなれなかった。それにボクは旅行というものに
根っから情熱を持たないタチで、見たい物食べたい物がそれほどないのである。

善光寺は案の定、雪にけむっていた。気温が氷点下だったから当然といえば当然だが、
顔の皮膚がつっぱらかるくらい寒かった。この無宗派の寺に詣でるのは35年ぶりだ。
参道の装いもすっかり様変わりしていて、倉敷の美観地区や川越の蔵造りを想わせるような、
新旧の様式がうまくミックスされた洒落た佇まいを見せていた。

長野ICの近くでは「蕎麦打ち」も体験した。次女以外は群馬県の某所ですでに体験済み
だが、もうすっかり忘れてしまっている。ボクなんか蕎麦打ちの本(ムック)を数冊著して
いて、全国の蕎麦屋もずいぶん巡ったはずなのに、記憶がすっかり飛んでいる。

この日、午後3時からの部に蕎麦打ち体験を申し込んだのは、ボクたち4名と
もうひと組(日本人1+オーストラリア人2)だけ。暖房が切られた寒~い部屋で
ひたすら蕎麦をこね、延ばした。外人さんたちも初めてだそうで、蕎麦を練るたびに
キャーキャー言いながらデジカメのシャッターを切っていた。

できあがった蕎麦は即茹でられ、その場で試食。てっきり暖かい別の部屋で
食べさせてもらえるのかと思ったら、なんとその場で立ち食い。窓の外は雪である。
ボクたちは寒さをこらえ、鼻水を垂らしながら冷たい蕎麦を懸命にすすった。←汚ったないなァ
見た目は蕎麦だかきしめんだかわからないような代物だったが、けっこういける味だった。

車のトランクには酒や味噌や漬物など土産物がいっぱい。
帰りの車の中では、眠気覚ましに「しりとり」をしながら帰ってきた。
心配した雪によるトラブルもなく、無事に帰ってこられてほんとうによかった。

だが安心もつかの間、ボクはさっそくパソコンに向かい原稿の続きを打ち始めた。
腱鞘炎は相変わらずで、かなりつらい作業だが、やめるわけにはいかない。
ボクは充血する目を瞬きながら、一心不乱にキーボードをたたいた。
(ずいぶん芝居がかってきたじゃないの)
心の中でそんなつぶやきを聞きながら……。




←粉雪に煙る善光寺門前のにぎわい。
  けっこうオシャレな店が多く、
  長野県人のインテリジェンスと
  センスの良さに感じ入った













←家族と蕎麦打ち。
 茹でたらフェットチーネみたいな平べったい
 のもあったけど、それなりにうまかった。
 教室内はつららができるほど寒かった。







 

2013年1月1日火曜日

孫なんていらない  

とうとう右手首腱鞘炎のまま新年を迎えてしまった。
今日も元旦の朝から原稿書き。お屠蘇気分もヘチマもない。

みなさん、明けましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になりました、またお世話もしました。
昨年は年男だった割には可もなく不可もない年で、
ただべんべんと無為に過ごした1年でありました。

暮れから次女も加わって、久しぶりに一家4人全員が揃いました。
ボクが書斎にこもって日がな一日原稿書きに追われている間、
女ども3人は台所に入り、おせち料理作りに精を出していました。
ボクがのぞこうとすると「男は入るな」と強固なバリケード。
女房を中心に、女だけのつかの間のふれあいを楽しんでいるようでした。

気晴らしに年賀状をのぞいたら、「初孫誕生」だとか「おじいちゃんになりました」
だとか、同窓たちの目いっぱい目尻を下げまくった字句ばかりが目立ちます。
プール仲間のTさんは、
  孫に明け 孫で暮れて 除夜の鐘
なんていう句まで添えていました。みなヨレヨレのじじぃばかりです。

今年はどんな年になるのだろう。
フランスからはAlexiaが再来日する予定だし、Sabrinaも帰ってくる。
じいさんにとっては、若い娘のフェロモンが一番の回春になります。
今年も激しく泳ぎ、恒例のキャッチでは剛速球にも磨きをかけるつもりです。
それと、時々は駅前の歯医者で〝頭ツンツン〟の余得にあずかろうとも思っています。
今年もろくでもない年になりそうです。



←シンプルなおせち。
あんまり凝った物はできない。