わが家にはドイツ語の絵本が数冊ある。
ボクはドイツ語を少しばかり囓ったから、辞書片手なら読めないこともないが、
わざわざそこまでしてドイツ語の絵本を買ったりはしない。
ドイツの友人S女史がボクの娘たちに送ってくれたのだ。
その本は世界的な絵本作家ミヒャエル・エンデ作のもので、
なんと娘たちに宛てたエンデ氏直筆のサインが入っている。
ミュンヘン在住のボクの友人Sさんは、エンデさんの大の親友なのである。
エンデさんは残念ながら数年前に亡くなってしまったが、
彼は『モモ』という大ベストセラー作品を残していってくれた。
モモは眼の大きな女の子の名前だ。
ドイツの村の広場では村人たちが歌ったり踊ったりして楽しく暮らしていた。
そこに「時間泥棒」というふしぎな存在がやってきて、村人を説得する。
「毎日遊んでばかりいないで、もっと働きなさい。時間を節約して働けば、
金持ちや有名人になれますよ」
村人はなるほどと思い、広場に集まるのをやめ懸命に働き出す。
結果、ある人は金持ちになり、またある人は有名人になった。
しかしある日、ハッと気づく。あれほどにぎやかだった広場にはもう誰もいない。
みな、さびしくなってしまう。そこにモモが登場し、時間泥棒を退治して、
再び広場にかつてのにぎやかだった生活を取り戻す、というお話だ。
この『モモ』は働き蜂の日本人のために書かれたのではあるまいか、
と時々思うことがある。イタリア人みたいに食べたり歌ったり踊ったりしていたら、
国の経済が傾き、個々人の生活は決して豊かにならない。
が、何ものにも換えがたい「宝」を得ることはできる。
それは互いに友だち、仲間であるという共生感だ。
ボクは昔からお金というものにとんと縁がなく、女房には苦労をかけ通しだが、
恒産を持つことはむずかしくても、「心の恒産」なら持てそうな気がする。
年を取ってくると、むしろ心と心の結びつきといったものに関心が移っていく。
いっしょにお酒を飲んだり、歌を唄ったり、旅をしたりすることこそ、
生きることの真の意味ではないのか――そんなふうに思うようになる。
流行り言葉でいうと〝絆(きずな)〟ということになるのだろうか。
きょうも隣町のプールで、見ず知らずの人たちと軽口をたたき合いながら、
楽しいひとときを過ごしてきた。
プールにはいろんな人が来る。なかには足の不自由な人、半身マヒの人、
人工透析を受けている人、心臓にペースメーカーを埋め込んでいる人、
あるいは心の病(ボクもそう)に悩んでいる人、婚活中の人など実に様々だ。
そのほとんどが隠居した人で、時間泥棒に「もっと働け!」と言われることもないので、
おおらかというか、開き直っているというか、みな人生を半分降りちゃっているような、
どこか潔い、そしてまたすがすがしい顔をしている。
ひとりぼっちは限りなくさみしい。
階下に住むじいさんは、因業な性格が災いしてか、友だちがおらず、
いつもひとりぼっちだ。元は教師で、校長までやったと自慢していたが、
こんな教師に教わったら、生徒がとてつもなく不幸になりそう、
と思わせるような男で、ボクは今でも口をきかないし、挨拶もしない。
この男には、過去にずいぶんひどい目に遭わされてきたからだ。
《食事のときに大切なのは、何を食べるかではなく、誰と食べるかである》
とは『セネカ道徳書簡集』の中の一節だ。仲良く楽しく食べ合う「共食」こそ、
いま最も求められている生き方ではないのか。
というわけで、たまには色っぽいグラマー美人と〝共食(共食い?)〟したいな、
と夢想するボクであった。←バカ、一生夢想してろ!
←『モモ』を読んで、失った時間を取り戻してください
ボクはドイツ語を少しばかり囓ったから、辞書片手なら読めないこともないが、
わざわざそこまでしてドイツ語の絵本を買ったりはしない。
ドイツの友人S女史がボクの娘たちに送ってくれたのだ。
その本は世界的な絵本作家ミヒャエル・エンデ作のもので、
なんと娘たちに宛てたエンデ氏直筆のサインが入っている。
ミュンヘン在住のボクの友人Sさんは、エンデさんの大の親友なのである。
エンデさんは残念ながら数年前に亡くなってしまったが、
彼は『モモ』という大ベストセラー作品を残していってくれた。
モモは眼の大きな女の子の名前だ。
ドイツの村の広場では村人たちが歌ったり踊ったりして楽しく暮らしていた。
そこに「時間泥棒」というふしぎな存在がやってきて、村人を説得する。
「毎日遊んでばかりいないで、もっと働きなさい。時間を節約して働けば、
金持ちや有名人になれますよ」
村人はなるほどと思い、広場に集まるのをやめ懸命に働き出す。
結果、ある人は金持ちになり、またある人は有名人になった。
しかしある日、ハッと気づく。あれほどにぎやかだった広場にはもう誰もいない。
みな、さびしくなってしまう。そこにモモが登場し、時間泥棒を退治して、
再び広場にかつてのにぎやかだった生活を取り戻す、というお話だ。
この『モモ』は働き蜂の日本人のために書かれたのではあるまいか、
と時々思うことがある。イタリア人みたいに食べたり歌ったり踊ったりしていたら、
国の経済が傾き、個々人の生活は決して豊かにならない。
が、何ものにも換えがたい「宝」を得ることはできる。
それは互いに友だち、仲間であるという共生感だ。
ボクは昔からお金というものにとんと縁がなく、女房には苦労をかけ通しだが、
恒産を持つことはむずかしくても、「心の恒産」なら持てそうな気がする。
年を取ってくると、むしろ心と心の結びつきといったものに関心が移っていく。
いっしょにお酒を飲んだり、歌を唄ったり、旅をしたりすることこそ、
生きることの真の意味ではないのか――そんなふうに思うようになる。
流行り言葉でいうと〝絆(きずな)〟ということになるのだろうか。
きょうも隣町のプールで、見ず知らずの人たちと軽口をたたき合いながら、
楽しいひとときを過ごしてきた。
プールにはいろんな人が来る。なかには足の不自由な人、半身マヒの人、
人工透析を受けている人、心臓にペースメーカーを埋め込んでいる人、
あるいは心の病(ボクもそう)に悩んでいる人、婚活中の人など実に様々だ。
そのほとんどが隠居した人で、時間泥棒に「もっと働け!」と言われることもないので、
おおらかというか、開き直っているというか、みな人生を半分降りちゃっているような、
どこか潔い、そしてまたすがすがしい顔をしている。
ひとりぼっちは限りなくさみしい。
階下に住むじいさんは、因業な性格が災いしてか、友だちがおらず、
いつもひとりぼっちだ。元は教師で、校長までやったと自慢していたが、
こんな教師に教わったら、生徒がとてつもなく不幸になりそう、
と思わせるような男で、ボクは今でも口をきかないし、挨拶もしない。
この男には、過去にずいぶんひどい目に遭わされてきたからだ。
《食事のときに大切なのは、何を食べるかではなく、誰と食べるかである》
とは『セネカ道徳書簡集』の中の一節だ。仲良く楽しく食べ合う「共食」こそ、
いま最も求められている生き方ではないのか。
というわけで、たまには色っぽいグラマー美人と〝共食(共食い?)〟したいな、
と夢想するボクであった。←バカ、一生夢想してろ!
←『モモ』を読んで、失った時間を取り戻してください