2011年7月26日火曜日

樗材だって生きられる

『週刊新潮』にはかつて「夏彦の写真コラム」という人気連載があった。
婦人とマジメ人間の正義は正義ではない
《男が助平なら、女も助平に決まっている》
《年寄りのバカほどバカなものはない》
《わが国の悪口を言っている教科書なら、それは悪いにきまっている》

ボクが師匠と仰ぐ山本夏彦が逝って早や9年。
ボクにとって夏彦翁のコラム・アフォリズムは
キリスト教徒における聖書、イスラム教徒における
コーラン以上のもので、これほど含蓄があり、
人間通になるための示唆に富んだ書物は当代無比だろう、
と今でも思っている。

夏彦は二度、自殺未遂の前科がある。16と18の時で、
カルモチンという睡眠薬の一種を大量に服用した。
二度目の未遂時にはスイスの雪山の中でそれをやり、
凍死を図った。が、幸か不幸か救い出され、
以後、ツキモノが落ちた。

夏彦が老荘思想に惹かれたのは自殺未遂と無縁ではない。
老荘思想は「無為自然」「小国寡民」を理想としている。
有用より無用、賢より愚、働くよりボンヤリしていたほうがいい、
と説き、所詮人間なんて樗櫟(ちょれき)散木(何の役にも立たないもの)
なのだから、余計なことをするより温和しくしていたほうがいいと、
近頃の怠惰な〝ひきこもり〟人間たちが糠喜びしそうなことを言っている。

老荘思想は世捨て人的なイメージが強く、怠惰哲学の色彩が濃いけれど、
知足安分――すなわち、足るを知って分に安んずる精神は、
現代にも通ずるものがあるだろう。

夏彦は生きている人と死んだ人を区別しなかった。
ボクも読書尚友に目覚め、友だちは死んだ人に限る、
と考えているつむじ曲がり人間だから、
夏彦が死んでしまっても、さほど痛痒を感じない。

読書というのは元来そうしたもので、作者の生死は関係ないのである。
ましてや新人作家の100冊より、
死んだ夏彦の1冊のほうがどれほどありがたいか。

夏彦の最高傑作は? と問われれば、ただちに答えよう。
完本 文語文』が第一だと。

2011年7月22日金曜日

短調の消えた時代

若い頃、チャーリー・パーカーやアート・ペッパーに魅せられ、
アルトサックスを衝動買いしてしまったことがある。

このサキソフォンという楽器、敵性語だからと横文字が禁じられた
先の大戦中は、「金属製先曲がり音響音出し器」などと呼ばれていた、
と淡谷のり子の回顧談にある。ピアノを「洋琴」、ヴァイオリンは「提琴」
と呼び直していた時代の話で、よく知られているところでは、
野球のストライクを「よし1本」、三振アウトを「それまで」なんて言っていた。

「こんなマンガみたいなことをやってるから、勝てる戦争にみすみす負けちまうんだよ…」
と、腹いせまぎれに思ってしまうが、まァ、いかんせん日本人の料簡が狭すぎた。

反骨精神のかたまりのような淡谷は、
「そんなややこしい呼び方ができるか」
とばかりに、サックス奏者に向かって
「おい、そこの尺八ッ!」などと呼びすてにしていたという。

淡谷は〝ブルースの女王〟と呼ばれ、満州などの外地へよく慰問に行った。
しかしヒット作の『別れのブルース』や『雨のブルース』などのレコードは
すでに発禁処分を食らっていて、舞台上では絶対歌ってはならぬ、
と当局からきつく申しわたされていた。歌の内容がおセンチすぎて、
国民や兵士の士気を鼓舞するには甚だ不向きだ、というのである。

しかし明日をも知れぬ最前線にあっては、兵士たちは勇ましい軍歌など
聴きたくなかったし歌いたくもなかった。現に兵士たちのリクエストは
哀愁あふれる歌謡曲やブルースばかりで、そんな時は憲兵や将校たちも
気を利かし、ホールからそっと出ていってくれたという。
そして彼らもまた、舞台の袖からのぞき見ながら涙を流していた。

アメリカの「9.11同時多発テロ」の1周忌に行われた追悼式典では、
モーツァルトのニ短調『レクイエム』が演奏された。
モーツァルトの遺作とされるミサ曲で、死者を悼むにこれほどふさわしい曲はない。
人々の深い悲しみを癒すことができるのは、快活で明るい長調の曲より
悲哀に満ちた短調の楽曲のほうがふさわしいのだ。

我らが幼き時代に流行った哀調を帯びた童謡や小学唱歌、それに子守唄は
どれもみな短調だ。ところが今や、テレビなどから流される曲の大半が長調で、
赤ん坊でさえも昔の子守唄をきかせると、眠るどころかむずかるという。

短調の消えた時代というのは、果たしてよい時代なのだろうか。
物悲しい短調の曲が街角に流れている時代のほうが、
気分が前向きで健康的なのではなかろうか。
なぜか、そんな気がしてならないのである。

2011年7月19日火曜日

冷やすんじゃない!

団地内のスーパー「サミット」に行ったら、
全国各地の地ビールを揃えた特別セールをやっていた。
店長が書いたとおぼしき謳い文句には、
キンキンに冷やして飲もう日本の地ビール!」とあった。
ウヘーッ、こりゃ、ダメだ。ちっともわかってないや。

この店の店長を初め日本人の多くは、ビールは
キンキンに冷やして飲むものだ、とハナから決めてかかっている。
しかし、広い世間には冷やして飲んではいけないビールだってある。

世界には60以上の[ビールスタイル]があるが、日本のビールは
ほとんどがピルスナーという1種類の範疇に収まっている
早い話、ほとんどの日本人はたった1種類のビールしか知らずに
短い生涯を終えてしまう。

ビールは大きく上面発酵ビールと下面発酵ビールに分けられる。
日本のビールは銘柄を問わず下面発酵酵母を使うのが主流で、
これがいわゆるキンキンに冷やして、すっきりした喉ごしを競うビール、
すなわちラガー(下面発酵ビールのこと)ということになる。

しかし中小零細の地ビールメーカーの多くはエールと呼ばれる
上面発酵ビールを造っている。イギリスやアイルランド、ベルギー
ビールの同類で、特徴はフルーティな香りとコクである。

下面発酵酵母は4~10℃で働き、上面発酵酵母は16~21℃で働く。
後者は13℃以下になると、自ら膜を張って冬眠状態に入ってしまう。

エールをおいしく飲むコツは、キンキンに冷やすという愚を犯さぬことだ。
グラスも冷やさず、常温よりやや低目の温度でゆっくりチビチビと飲む。
〝ゴクゴク、プファーッ!〟はビアガーデンで飲むラガーの世界で、
エールはおちょぼ口で噛むようにして啜る。あのヌメッとした舌ざわりは
滋養のある〝液状ごはん〟を胃袋に流し込む、という感覚だろうか。

世界にはさまざまなビールがある。アルコール度数13%なんていうのもあるし、
サミュエル・アダムス・トリプルボックというアメリカのラガービールは
17.5%もある。ワインよりも度数が高いのだ。色は真っ黒で泡も立たず
ドロリとしていて、まるで紹興酒の古酒のような味わいだ。

ラガーに慣れた舌にはエールは〝変なビール〟に映るかもしれないが、
ラガービールしか知らない日本人こそ、世界標準からすれば
〝変な人たち〟なのだ。

サミットの店長には気の毒だが、「キンキンに冷やして飲もう」
などと謳っている限り、地ビールは売れず、ファンも増えないだろう。
冷やしたエールはふつうのラガーと変わらず、飲んだ人は割高感
(ラガービールに比べ3~4割高)だけを感じてしまうからだ。

地ビールなら「よなよなエール」や「常陸野ホワイトエール」、
銀河高原ビール」といった銘柄が好きだ。蒸し暑い日本の夏には、
キンキンに冷やしたラガーが似合うが、たまにはブランデー代わりに常温の
エールを味わってもらいたい。日本で一番売れているという「Toriaezu-beer」
とは違った世界の存在に気づき、きっと虜になってしまうだろう。


←日本の地ビールはキンキンに
冷やさないこと。ヌルッとした喉ごし
を堪能してほしい。
おい、サミットの店長!
聞いてっか?

2011年7月18日月曜日

応援やつれ

スーパーで買い物していたら、知り合いの奥さんから、
「なんか、ずいぶんお痩せになられたみたいね」
と声をかけられた。
「ええ……たぶん応援やつれだと思います」

なでしこジャパンがついにやってくれた。
女子W杯サッカー決勝。アメリカとの決戦で、
ハラハラドキドキの末にPK戦でみごと勝利をもぎ取った。

昨夜は8時に寝床へ入り、朝まだきの3時過ぎに起きて、
テレビの前に陣取った。愛国者の女房も覚悟は同じである。

しかし応援空しく、なでしこは最初から苦戦を強いられた。
プレスがきついのか、いつものパス回しができない。
ボールを追いかけても、短足がネックで後れをとってしまう。
きゃしゃな身体が力負けして軽々と吹っ飛ばされる。
ああ、それでも必死にボールを追いかける健気な娘たち。

わが家のなでしこたちもサッカー好きで、
長女は高校・大学とフットサル部、
次女も米国留学中はサッカー部の一員だった。
周りは臼のような尻をした巨人のような選手ばかり。
その彼女らにど突かれたりこづかれたり……。

まるでなでしこジャパンそのものだが、
それでもボールに食らいついていったんだ、
と目撃証拠がないのをいいことに、本人はひとしきり自慢する。

次女の試合は一度だけ目撃したことがある。小学校の授業参観の時だ。
たしかディフェンダーだったと思うが、ボールが来ないのに退屈したのか、
試合中、お友だちと一緒に地べたに座り込み、お絵描きをしていた。

ボクが「コラーッ! 何やってんだァ」と怒鳴ると、あわてて立ち上がったが、
相手チームの選手がボールをもって突進してくると、
「キャーッ!」と叫んで逃げていってしまった。こりゃ、ダメだ……。
留学中の〝武勇伝〟がにわかに信じ難いのは、キャーキャー叫び
ながら逃げまどう、世にもふしぎな光景が目に焼きついているためだ。

MVPと得点王に輝いた澤穂希選手は、アメリカのプロリーグに在籍中、
7歳年上の連邦政府役人と恋に落ち、一緒に暮らしていたという。
しかし「結婚orサッカー」の狭間で悩み、ついに恋人から、
「君に専業主婦は似合わない」と引導を渡され、結婚を断念したという。

その決断が正しかったかどうかは澤にもたぶん解らないだろう。
しかし世界一のなでしこジャパンを率いたキャプテン澤は、
一世一代の晴れ舞台で、たとえようもないくらい輝いていた。

積年の夢を実現し、女子サッカーの頂点に立ったなでしこたち。
にわかに目標を失い、燃え尽き症候群にならなければいいのだが。

ああ、それにしても、ゴールシーンは何度見ても興奮する。
興奮ついでに、決勝のアメリカ戦は丸々2度見てしまった。
こんなことなら、早起きする必要などなかった?

2011年7月14日木曜日

そのまんまがいい

ひとの性格は変わるものだ。
というより変えようと努力すれば、
努力したぶんだけ変わっていく。

ひとは弱さを見せまいと、強いフリをしたり必要以上に背伸びしたりする。
強がっているうちに、(まてよ、俺ってけっこう強いのかも)と自他共に錯覚し、
その錯覚が積み重なっていくうちに、
いつしかほんものの強さに近づいていくことがある。

ボクのことを社交的で、自己主張が強く、物怖じしない積極派人間だと
思っているひとがいる。ほとんど人見知りをせず、誰にでも声をかけるし
(電車内でも母はよく隣のひとに声をかけていた。いまは姉がその遺伝子を
引き継ぎ、あちこちで気味悪がられている)、物言いに遠慮がなく、
ひとたびマイクを握ると離さなかったりするからだろう。
それらはすべて死んだ母のDNAだと思うのだが、
昔のボクを知っている人間は、まったくの別人と思うかもしれない。

小中高校時代のボクは、引っ込み思案の非社交的人間だった。
もちろん友達など皆無で、口数少なく、極端にシャイな性格のためか、
いつもうつむきがちで、対人・赤面恐怖症の典型だった。

いまでもコアの部分では変わっておらず、時々あの頃のボクが
顔を出したりして友人たちを戸惑わせることがあるが、
一種の持病なので、いまは「ありのままでいい」と体裁など繕わず、
為るがままにまかせている。

個性の強い人間はひとから好かれる率が低いと云われる。
なるほどボクには友達は少ないが、最近は「何の不足があろう」
と半分開き直ってもいる。肘をとって共に語り合う友人は
少数のほうがいいのだ。

不羈狷介の性格は時に累(わずらい)をなすだろうが、
それもわが個性なのだと、いまはすっかり折り合いをつけている。

還暦を前にして、前半の〝訥弁時代〟と後半の〝能弁時代〟
との帳尻が合い、ようやく振り出しに戻ったみたいだ。

60年生きてきて体得しえた教訓は、実に凡庸そのもの。
あるがままでいい。
そのまんまがいい。

2011年7月11日月曜日

坊主丸儲け

菩提寺の住職が、やおらこう切り出した。
「お母さんの趣味や性格を教えてもらえますか。
戒名を考えるのは、これでなかなか難しいものでね」
すると長兄は、ムスッとした顔で、
ただのふつうのオンナです」の一言。とりつく島もない。

慌ててボクが「世話好きで、三味や小唄もやる粋なところもありました」
などと取りなし、剣呑な雰囲気を和らげた。姉は隣でヒヤヒヤしていた。

その前に前哨戦としてひと悶着あった。
「戒名料も含め、セットでウン百万円でいかがです?」
というやりとりがあったのだ。(セット料金? 居酒屋かよ、ここは……)
じゃあ、戒名はこっちで考えますからいいです」と、これはボク。
坊さんは呆れ顔で、たちまち険しい顔に。
ボクは姉に太ももを思いきりつねられた。

母の戒名は「永寿慈静大姉」。道号が永寿で法号が慈静、
この法号が本来の戒名で、生前の名前から一字をとって
つける決まりになっている。そして位号は大姉だ。
この月並みな戒名(母よ、許せ)の、いったいどこが難しいのかね。

戒名には院号、殿号、居士、信士、大姉、信女といった〝階級〟
があり、高い位の戒名をつけてもらいたければ、それなりの
謝礼を包まなくてはならない。戒名は謝礼の多寡で決まる。
「いい戒名をいただいてね」と、かつて叔父の葬儀の時に叔母が周囲に自慢していたが、
そんなもん、金さえ積めばいくらでも位階は上がる。

先頃亡くなった評論家の谷沢永一氏は、
殿と院と信士とでは、悟り方の奥行きが違うのであろうか。
その細かな差違を誰にも解るような一覧表にしていただきたい
と皮肉っていた。そう、「信士は5000円ポッキリです。ただし悟りは生半可」
とかね。これじゃまるでキャバクラだ。

さらに続けて、
《戒名は、仏教の本義とはなんの関係もない余計なさかしらである。
戒名は、我が国の坊主が、信徒から金銭を搾りとるために考えだした
世にも狡猾な策謀にすぎないのである》(『冠婚葬祭心得』より)
と、これまたあっさり切り捨てる。

位牌にしたって、そもそも仏教に位牌はない。輪廻転生だから、
位牌として遺すことはない、という理屈なのだ。儒教からきている
という説もあるが、日本古来の習慣からきたものという説もある。
古来日本には〝依り代(よりしろ)〟という神様が降臨するための
印があった。それが仏教と結びついて位牌となったのか、それとも
儒教と結びついたのか、甚だハッキリしないのである。

もっとも、49日の法要はインドの「バラモン教」から、100日忌、1周忌、3回忌は
中国の「儒教」から、7回忌、13回忌……以下33回忌までは日本の「神道」から
きている、ということは分かっている。法要といっても仏教とは関係のない宗教や
習俗がいろいろブレンドされているのだ。そしてそれぞれがしっかりと金儲け主義と
結びついている。

ああ、母よ、俗界はかくもややこしく醜いのです。
あの世だって、たぶんややこしいでしょうが、
どうか迷わず成仏してください。
南無阿弥陀仏。

2011年7月6日水曜日

石に蒲団を着せてやりたい

7月3日、母の長寿も米寿をもって打ち止めとなった。
明日の七夕で満89歳の誕生日を迎えるはずだったのに、
あと一歩が届かなかった。しかし文句なしの大往生だろう。

だから、決して涙を見せまい、
取り乱すまい、明るく見送ってやろうと、
心に期して葬儀に臨んだが、
しょっぱなからコケてしまった。

男は生涯に2度だけ泣くことを許されるのだという。
オギャーと生まれたときと親が死んだときがそれで、この親というのは、
たいがい母親のことで、父親なんてものはどうでもいいらしい。
この伝でいくと、泣き虫のボクなんかとっくに男を廃業していなくてはならない。

わが兄弟は一見こわもてだが、実は泣き虫ばかりで、
鬼のように思われている長男が施主挨拶の場でまず大泣きこいてしまった。
会葬者たちの間ではこの愁嘆場が世にも珍しき椿事に映ったらしく、
「へーえ、◎◇ちゃんも泣くことがあるんだァ……」
などと、やけに不思議がられていたそうな。
どうやら人間ではないと思われていたらしい。

鬼の目にも涙となれば、次男坊としては大手をふるって泣けるわけで、
こっちも負けないくらい泣いてやった。にぎやかな葬式である。

親孝行したいときには親はなし、
石に蒲団は着せられぬ、と昔のひとはいいことを言った。
しかしこの教訓を実践するものはまれで、
多くの子供たち、それも出来損ないの子供たちは
親を前に憎まれ口ばかりたたいている。

母はこの出来損ないの子供たちをよく束ねてきたと思う。
そのことだけでも勲章もので、やはり母は偉大だったと
今さらながらに思うのである。

しばらくの間(2~3年)は、メソメソしたウツ状態が続くと思う。
そんな意気地なしのボクを哀れと思し召さば、
功徳だと思って酒を飲ませてやってください。
酒こそが憂いを払う玉箒なのです。

母よ、重ね重ねの不幸をゆるし給え。
不肖の息子たちをゆるし給え。
そして安らかに眠り給え。
合掌。