2014年7月30日水曜日

「心のケア」は聞きあきた

佐世保市の女子高生殺人事件は〝陰惨〟の一語に尽きる。
殺された女子高生の無念は察するに余りあるが、「宝物」だったという娘さんを
突然失ったご両親の悲嘆ぶりを想像すると、言葉がない。

ボクがもしこの親御さんの立場だったらどうなるだろう。
もちろん錯乱状態がしばらくつづくだろうが、落ち着いた後の行動がちょっと怖い。
〝復讐の鬼〟と化して、何かとんでもないことをしでかすのではないか。
日頃、何かにつけ法を守らない支那人をバカにしていながら、自分が進んで
犯罪者の仲間入りをしてしまうのではないか。そんな予感がしてならないのである。

加害者の少女は、母親が昨年秋に他界し、父親が死別後わずか3ヵ月で再婚する
といっためまぐるしい環境の変化に翻弄され、そのためなのか金属バットを振りまわすなど、
家庭内でも問題行動が多かったという。父親は地元の名士で、家庭は裕福。
両親共に教育熱心で、PTAの役員をつとめていたこともあったという。

加害者の少女は、一面では家庭の〝被害者〟だったのかもしれないが、
無惨に殺された少女からすれば、そんなことはどうでもいい。
加害者がどれほど心の傷を負っていようと、関係ないからだ。

若くして母と死別、父親の再婚、不登校……安っぽいドラマの筋書きによくありそうな
話だが、この程度の〝心の傷〟や〝不幸〟なら、それこそ掃いて捨てるほどある。
もっと悲惨な話はいっぱいあるし、現にボクの身の回りにも起きた。またアラブやアフリカ
など戦乱の続く地域では、ほぼ日常的に起こっている。心に傷を負った少年少女が
例外なく犯罪に走る、なんてことはあり得ないし、人間はそれほどヤワじゃない。

猫などの小動物を傷つけたり殺したりする人間は、ついには「人を殺したくなる」
と専門家はいうが、本来、子どもなんていうものは残酷な動物で、ボクだって
子どもの頃は無数の昆虫やカエル、スズメ、ネズミを殺したことがある。
夏休みには「昆虫採集」などという残酷な宿題もあったし、理科の実験では、
カエルの解剖などもした。カエルの解剖に刺激され、猫や犬、
ついには人間を解剖したくなった、なんて話は聞いたことがない。

少年少女による陰惨な事件が起きると、決まって小・中学校の校長がカメラの前に立ち、
命の大切さを教える教育」だとか「生徒たちの心のケア」といったセリフを繰り返す。
どんな教育をしているのか知らないが、こんなもの、いくらやってもムダである。
カウンセラーの数を増やせば、心の傷が治るというものでもない。
ボクも長い間、心療内科に通ったPTSD患者の1人だからよく分かるが、
精神科医のカウンセリングなんてものはクソのつっかい棒にもならない。

なぜかいつもメディアの前には学校関係者が出てきて、
「こうした事件は2度と起こしてはならない」などと、沈痛な顔してコメントするが、
命の大切さを教えたり、人としての道を教えるのは学校ではない。家庭である。
算数や理科、社会、国語といった「教科」を教えるのが学校であって、倫理道徳や
躾は家庭の役割である。家庭教育を棚に上げ、何でもかんでも学校に教えてもらおう
なんて筋違いもいいとこで、欲深すぎるのである。いけ図々しいのである。

子どもの成長にいちばん影響を及ぼすのは家庭環境だ。
仲のいい両親に愛情をたっぷり注ぎ込まれ、きびしく躾けられた子どもたちからは
犯罪者は出ない。子どもの教育は、すなわち親の教育で、出来損ないの親からは
出来損ないの子しか産まれない。

学校の教師に何から何まで期待するのは酷というものだ。
彼らは単なる算数の先生であり、国語の先生というだけで、
トルストイのような「人生の教師」ではない。
専門分野の知識は持つが、それ以外のことにはたいがい無知で、
社会性のない人間も多い。世間的な眼で見れば、
むしろ「非常識」で「未成熟」で「欠陥だらけ」の人間ばかりなのである。

だからといって、学校の教師(大学教授も含む)を軽んじているいるわけではない。
彼らを「専門知識を有する技能士」と見ているだけで、それ以上のことを期待して
いないだけである。昔の教師のほうが人間性が豊かだった、などといわれるが、
ボクにはよく分からない。豊かだった人もいればそうでない人もいる。

子どもをまっとうな人間に育てたかったら、家庭教育をしっかりすることだ。
正邪美醜を身につけさせ、善悪の判断や他人を思いやる心を地道に育む。
そして何より大事なのは、子どもに対して、
「おまえは父さんと母さんの宝物。かけがえのない存在なんだよ」
という思いを絶えず伝えてやればいい。幼き頃にはしっかりやさしく抱いてやる。
そうすれば、親の愛は自然と子に伝わる。

こうした事件が起きると、ゴシップ・ジャーナリズムはむしろ狂喜乱舞し、
加害者・被害者の周辺を、根掘り葉掘り、あることないこと、狂ったように嗅ぎ回る。
有名な教育評論家や精神科医などもテレビに引っ張り出され、
したり顔で説教くさい話を垂れ流す。悲しげな顔を作ってはいるが、
メディアでの露出度が増えるからと、彼らは内心嬉しくてたまらないのだ。

心のケア? ふん、利いたふうなことを抜かすんじゃない。
フロイトとヤスパースのおかげで、人間様は心の奥底まで支配できると
思い上がっている。まったくもって……度し難い生き物だ。

















 

2014年7月29日火曜日

「壁ドン」を夢見るAlexia

仏人留学生のAlexiaが帰国を前にして別れの挨拶に来た。
彼女は18歳の時、高校生留学で日本に初来日、その後、リヨン大学から慶大への
交換留学生として再来日していたが、1年経ったので、来月初旬に帰国する。

セーラームーンなど日本のアニメで育ったAlexiaは、子どもの頃から日本に憬れを持ち、
その逆に「フランスはもうダメ。フランスの男はサイテー」などと、自国のことを悪し様にいう。
《ふらんすへ行きたしと思へどもふらんすはあまりに遠し……》と、いまだにその憧憬の念を
捨てかねている旧世代のボクとしては、彼女の言葉はあまりに哀しく切ない。

Alexiaはおしゃべり好きの女の子だ。高校生の時も、ボクとはいろんな話をした。
およそ半年で日本語の会話をほぼマスター、政治経済から、文学哲学までかなり
突っ込んだ話をした憶えがある。今回の再来日でさらに日本語力はブラッシュアップ、
ヨーロッパの歴史からEUが抱える諸種の問題、人種問題、人権問題、結婚観と、
ワインを飲みながら深夜まで語り合った。

ボクは彼女の問題意識の高さに驚くと共に、日本語の上達の速さにも目を見張る思い
がした。そしてまた一方で、(同年代の日本の女の子にこの種の議論はムリだろうな)と
いう諦めに似た思いも感じていた。大いなる独断と偏見で言わせてもらうと、
わが日本の女の子たちが得意なのは芸能スキャンダルとおしゃれ、ダイエットの話、
グルメの話、旅行談がせいぜいで、政治の話なんかしようものなら「わかんなーい!」の
一言でチョンだ。「集団的自衛権」だとか「特定秘密保護法(スパイ防止法)」なんて話題を
出したら、「この人、危ないおやじかも……」といっぺんに引かれてしまう。

だからといってAlexiaが堅物かというとそうではない。ごくふつう(?)の女の子で、
いつもセーラームーンみたいな怪しげな恰好をし、お色気ムンムンで大道を闊歩している。
「お父さん、〝カベドン〟って知ってる?」
Alexiaがいきなり難問をぶつけてきた。
ひょっとしてドカベンの間違いだろうか? それともカツドン? いや牛丼メニューの新種か?
若者文化、若者言葉にそっぽを向いているおじさんには、何のことやらさっぱり分からない。

聞けば、男が女を口説く時に使う〝胸キュン〟の仕草で、
壁際で女に迫り、その際に壁を手で「ドン!」とついて、女の退路を断ち、
何かグッとくるセリフを吐くシチュエーションなのだという。だから文字どおりの「壁ドン!」。
私も〝壁ドン!〟された~い
Alexiaは少女漫画のヒロインみたいな目をして、そうつぶやくのだ。

(今どきの若い奴はそんなキザなマネをして女を口説いてんのか……)
〝もののふ〟を自任するおじさんは、ある種の腹立たしさと妬ましさを感じながら、
Alexiaの夢見顔にしばし見入っていた。
(ふん、なにが〝壁ドン〟だ! ふざけたマネを……おじさんだってできるんだぞ)
心の中で力んでみたが、なんだかとっても虚しかった。

気分を変えようと、
「子豚ちゃん(彼女の愛称です)、カフェオレでも飲もうか?」
と言ったら、フランス人はカフェオレなんて飲まないよ、とAlexia。
高校生の時に初めて日本に来て、最初のホストファミリーの家で、
「フランス人はコーヒーといえばカフェオレでしょ?」
と聞かれ、面食らったという。

「パリっ子のごく一部は朝に飲むかもしれないけど、ごくふつうのフランス人は
カフェオレなんて飲まないの。日本に来て、カフェオレのこと、初めて知ったよ」
これにはおじさんも驚いてしまった。彼女はロレーヌ地方の出身だが、
飲むのはただのコーヒーだという。

というわけでカフェオレはやめ、明るいうちからビールを飲むことにした。
つまみはプロセスチーズとシソの葉を餃子の皮で巻き、油で揚げたもの。
チーズにうるさいフランス人にこんなつまみが合うかしら、と思ったが、
意外や意外、「これ、おいしいね」とムシャムシャパクパク。
〝子豚ちゃん〟の愛称に違わず、何を出しても「おいしい、おいしい」と
健啖家ぶりを発揮してくれた。

フランスへ帰国したら大学院に進むAlexia。
卒業したら、「就活」のため、また来日する予定だという。
いつか素敵な男性に「壁ドン」されるといいね。



←しかしこれが現実の「壁ドン!」。
女の子の戸惑いの表情が最高!

(カップヌードルのテレビCMより)












 

2014年7月20日日曜日

秋山小兵衛はスーパーヒーロー

国際政治学だの軍事学だの地政学だのと、切った張ったのキナ臭い本ばかり
読んでいると、いつの間にやら心がカサカサになり、人相まで悪くなってくる。
だから、せめて寝る前には脳内に多幸感をもたらしてくれそうな本が読みたくなる。

そんなわけで、ボクは今、池波正太郎の『剣客商売』(新潮文庫・全16巻)を読み返している。
毎年正月になるとこのシリーズを読み返している、と以前書いたことがあるが、
秋山小兵衛・大治郞父子、それに男装の武芸者・佐々木三冬などが活躍するこの
シリーズは、何と言おう、今のボクにとっては、欠くべからざる心の糧になっている。

それにしても還暦を過ぎ、なおも圧倒的な強さを示すこの小兵衛の存在感といったら、
他に比類がない。著者・池波さんの生き写しにちがいないが、ただ剣術に強いだけでなく
処世の達人としても比類がない。40も年下の女房をもらい、時に豊満な胸に顔をうずめて
甘えてみたり、また時に怖い顔で叱り飛ばしたり――泰然自若、そして融通無碍。
練られた人間とはかくあるべき、とリーダーシップの真髄といったものも同時に学ばせて
もらえる。適度にマジメで適度にスケベエ。硬軟自在で、一見すると好々爺の趣だが、
悪と対した時のきらりと光る瞳には、相手を震え上がらせるに十分な凄味がある。

できるものなら、あんなふうに歳を重ねたい――。
秋山小兵衛はボクの中のスーパーヒーローなのである
そしてヒーローを中心に集まった「秋山ファミリー」とでも呼ぶべき個性的な技能集団。
剣の達人でもある岡っ引きの弥七、手裏剣の名人・杉原秀、小兵衛の門人で剣の逸材だが、
病を養っている植村友之助、碁敵の町医者・小川宗哲、そしてなぜかこのシリーズに
かぎっては身辺を飾らず、質実剛健な〝善玉〟として描かれる老中・田沼意次(三冬の父)。

それだけではない。敵役として登場する悪役たちの個性豊かなこと。
百鬼夜行を思わせる異相の「小雨坊」、矮躯でありながら驚異的な跳躍力を見せる
狂気の剣術家・笹目千代太郎などがその代表で、ボクはこの二人との決闘場面は、
何度読んでも興奮してしまう。

師匠の山本夏彦はボクへの手紙の中で、
文はリズムです。あなたの文章にはそのリズムがある》と珍しく褒めてくれた。
池波さんの文章には池波さんのリズムがあり、藤沢(周平)さんの文章には藤沢さんの
リズムがある。ボクは比較的フレーズの短い池波さんのリズムが合うのか、
あの〝絶妙な間〟の取り方やユーモア感覚など、多くを学ばせてもらった。

ボクが『剣客商売』や『鬼平犯科帳』、『仕掛人・藤枝梅安』シリーズを好んで読むのは、
おそらく池波さんの呼吸法がボクの呼吸法とリズムを同じゅうしているからだろう。
そしてそのリズムにわがリズムが重なり、静謐ながらも大きなうねりとなる。
脳の快感物質であるエンドルフィンが放出されるのはそんな時だ。

佐伯泰英の『居眠り磐根 江戸双紙』の最新刊46巻目も、ボクの目の前にある。
が、まだ読んでいない。もったいないから読めないのだ。よくまあ46冊も書いたものだが、
読むのはものの1、2時間もあれば十分足りてしまう。しかし書く方は大変だろう。
佐伯は20日もあれば1冊書ける、と豪語しているようだが、他にも人気シリーズをいくつも
抱えているから、書き分けるのは神業と言っていい。さすがにこのシリーズは長すぎて
ドル箱シリーズだから、著者をなだめすかし版元がムリやり引っぱっているにちがいない)、後半、
冗漫さがやたら目につくが、ここまで来たら、「糟糠の妻は堂より下さず」の心意気で、
いやいやながらも最後までつき合ってやろうと思っている。

いずれにしろ、『剣客商売』のような〝生涯の伴侶〟を得た幸せに感謝しなくては
なるまい。まだお読みになっていない読者諸賢がいたら、だまされたと思って
いっぺん手に取ってみてください。絶対に後悔させません。小説というものをほとんど
読まないわが女房が、このシリーズだけはすんなり完読いたしましたから。

趣味の合わない老夫婦が、わずかに『剣客商売』の縁(えにし)でつながっております。




←ドラマや映画は今ひとつだけど、
原作の小説は最高。読めば人生が
二回りも三回りも豊かになります






※ご報告
あのプチ家出していた金魚たちが突然戻ってきました。
家出はしたものの、世間の荒波に揉まれ、
生きることの厳しさを改めて学んだようです。
心からの詫びを入れたので、また飼うことにしました。
水面をクリックするだけでエサはなんぼでも出ますが、
〝囲い者〟は精神が堕落しますから、
「自分の食い扶持くらい自分で稼げ」と厳しく申しつけてあります。
どうか甘やかさぬように願います。

2014年7月15日火曜日

続・平和主義者が戦争を起こす

集団的自衛権の行使が閣議決定された日(7月1日)の翌日だったか、
わが団地の近くでデモ行進があった。陸上自衛隊の朝霞駐屯地がほんの
目と鼻の先にあるため、反自民の労組や市民団体は、何かというと押しかけてきて、
基地の周辺でシュプレヒコールを繰り広げるのである。

「憲法9条を壊すな~ッ!」
「若者たちを戦場に送るな~ッ!」
団塊の世代の労組や全学連の生き残りだろう、60代のだいぶくたびれたおじさんや
おばさんが、こぶしを振り上げ気勢をあげている。こういう出来の悪い左巻きの連中は
死ぬまで左巻きで、「あなたたちの考え方は、もうとっくの昔に破綻してるんですよ」と、
委曲を尽くして説明してあげても、聞く耳はもたない。若い頃に刷り込まれた思想が
絶対的に正しいと、カルト教団の信者みたいに信じきっているからだ。

こうした出来損ないの左巻きはわが団地内にもウジャウジャいる。
団地の管理組合で知り合ったFさんもその一人で、かつてはバリバリの商社マンだった。
飲み屋で一杯やっている時、たまたま政治の話になり、安保や憲法改正といった
ややこしい話題へと展がっていってしまった。二人ともすでに酩酊状態である。

彼はガチガチの左翼、こっちは左翼から転向した〝ウヨク〟だから、自然と火花が散る。
ボクは酔眼朦朧、相手を睨()めつけながら言ってやった。
いまだに左翼を演()ってるってのはな、要するに勉強してないって証拠なんだよ。
おれを論破しようなんて100年早いね。1万冊の本を読んでから出直してこいッ!」
酔余の勢いでつい高飛車な言い回しになってしまった。セリフの中身がいかにも幼稚で
品がないのが情けない。売り言葉に買い言葉とはいえ、これでは啖呵の切り栄えがしない。

ボクは以前、「平和主義者が戦争を起こす」という短文を書いた。また近くは、
平和を希求する核武装論者」という小文の中で、核の抑止力について論じた。
さらに弱腰の平和主義がいかに危険であるかを「弱腰平和主義の行く末は」の中で
しつこく訴えた。第2次世界大戦はイギリスとフランスの平和主義が起こしたもの、
という論旨だが、学説としてはすでに定着していて、実は第1次世界大戦も
この平和主義が起こしたものだった、という話を少ししてみたい。

当時、イギリスの政権党はディズレーリ率いる自由党だった。
自由党内閣を支える最大のパトロンはクエーカー教徒の財閥だった。
当時のクエーカーは大金持ちが多く、そして非常に政治熱心であった。

クエーカー教徒はいかなる場合でも戦争はしない、またしていないという実績を
誇っていた。クエーカーは絶対平和主義の宗派なのである。これは余談だが、
ハリソン・フォード主演の『刑事ジョン・ブック 目撃者』は同じく絶対平和主義を
掲げるアーミッシュのコロニーが舞台となったが、この17世紀のライフスタイルを
守り通しているアーミッシュは、伝統的に政治に関わることを好まない。
クエーカーとは逆なのだ。そしてもう1つの余談は、5000円札の肖像で知られる
新渡戸稲造が熱心なクエーカー教徒だったということ。また、今上天皇の家庭教師
だったヴァイニング夫人もまたクエーカー教徒であった。

ところで鉄血宰相ビスマルクがドイツを率いていた時代はまだよかった。
しかし愚かなる皇帝ヴィルヘルム2世が政権を握ると、途端に軍拡へ走り出してしまった。

あるイギリスの学者はこう言っている。
《当時のイギリスの国王とドイツの皇帝はいとこだった。両方ともビクトリア女王の
孫です。いとこ同士だったから、まさかイギリスが宣戦布告することはあるまいと、
そう思ってドイツはどんどん軍拡をやったのではないか》

歴史に「if」は禁物だが、ドイツが海軍の軍拡を始めた時点で、
イギリスが「もしそれ以上やったら、武力で押さえつけるぞ!」と一喝していれば、
十分抑え得たかもしれない。しかし当時のイギリス自由党政権はその一言が言えなかった。
自由党の大きな財源がクエーカーからの献金だったからだ。

ディズレーリの前の首相のパーマストン卿は癇癖が強いのか、やけに喧嘩っ早い男で、
イギリスの言うことを聞かない国に対しては、「そんなことすると軍艦を差し向けるぞ!
と恫喝したという。砲艦外交の申し子みたいな男で、傍目には危なっかしく映ろうが、
実は彼が首相や外相をやっていた30年間は、戦争が1度も起こらなかったのである。

「平和」とは「戦争と戦争の間の戦争が起きてない期間」の謂いであって、
「平和」という言葉が便宜的に使われているに過ぎない。人類の長い歴史から見れば、
戦争が常態化しているのが〝ふつう〟で、「平和」はあくまで偶然の産物でしかない。
そんなことはイスラエルとパレスチナの70年におよぶ紛争を見れば容易に解る。
戦争を異常事態とする見方は、平和ボケした日本人の世界に冠たる得意技とはいえ、
あまりに幼稚で、あまりに歴史を知らなすぎる。 


砲艦外交が戦争の勃発を防ぎ、平和至上主義が戦争を招来する――。
これこそ皮肉なパラドックスだが、それが悲しい現実で、われわれが真に学ぶべきは
地に足のつかない「空想的平和主義」などではなく、こうした「歴史的事実」であり、
いっこうに色褪せないパワーポリティクス(武力政治)の非情な現実なのである。
好き嫌いの問題を言っているのではない。それが紛うかたなき現実なのだ。


ボクは安倍内閣を批判するデモ隊のおじさんやおばさんたちに向かってそっと言いたい。
「もうあなたたちはとっくに御用済みなんだから、孫の手でも引いて近所をお散歩しててね」




←威勢のいいおばちゃんたち!
平和を望むのはけっこうだけど、
「平和、平和」とお題目を唱えているだけでは
平和にはならないのよ。
もっと「歴史」を勉強しようね 
 

2014年7月8日火曜日

誇りなき日本人よ、どこへゆく

「紀元節」を「きもと」(←民謡かよ!)と読むバカ者たちに、歴史教育の重要性を説いても、
馬の耳に念仏だろうが、自国の歴史を正しく学ばなければ、生きる上で大切なプライドや
アイデンティティ(自分は何者か、ということ)を涵養(かんよう)することなどできっこない。

歴史教育というと、すぐ古墳時代はどうだとか奈良平安はこうだとか薀蓄を垂れる御仁が
おられるが、そんなものはずっとずっと後回しでいい。大事なのは日本文化の祖型が形作ら
れた室町以降で、とりわけ近現代史はみっちり学ばなければならない。現代から昭和、
大正、明治、江戸時代へと遡り、もし学期末に余った時間が少しでもあれば、
古代、中世の話にちょこっと触れるくらいがちょうどいい。

埴輪がどうだとか縄文式土器がすべった転んだ、などという遠い昔の話をされても
いっこうに関心が向かないが、自分の父や祖父、曾祖父、そのまた高祖父がどんな時代に
生き、どんな青春を送ったのかとなると興味津々、詳しく調べてみたくなる。
だから歴史は、家系を辿るみたいに近現代史から過去に遡って教え学ぶのが一番いい。

歴史は単に過去に起こった事実の羅列などではない。
自分たちの先祖が日本人として何を考え、何をしてきたのか。
そのことに思いを致し、現代に生きる自分たちの考えに重ね合わせることが
なければ、何の意味もない。歴史を学ぶということは、即現代を生きることだからだ。
でなければ「歴史」なんて、それこそ役立たずの〝暗記物〟に堕してしまう。
「歴史」を〝暗記物〟だなんて、つまらないことをいったい誰が言ったんだ?

名著『武士道』には日本人の〝美しい生き方〟が格調高く歌い上げられている。
たとえば日本女性の貞操が危機に瀕した時、どうなったか? 
彼女たちは迷いなく自害したのである。
貞操は武士の婦人の主要な徳であり、生命以上にこれを重んじたのである》。
自害の作法を知らないことは彼女たちの恥辱だった。

日本の歴史を学んでいると、この国の住人が「ただ命長らえるだけが人生の目的ではない
と考えていたことに思い至る。現代では「人の命は地球より重い」などと人命尊重を優先
するが、命より尊いものだってあるはずだ。貞操を守るために従容と自害してしまう凛々しい
日本女性。ボクは「志」や「誇り」こそ命より尊いものと信じている。

ポーランドやフィンランドはロシアやドイツのような強国に絶えず国土を蹂躙され、
支配されてきた。クネクネが治める韓国も長く支那の属国であり続け、輝かしい
歴史など薬にしたくともありはしない。しかし前者のポーランドやフィンランドは、
大国に支配されながらもアイデンティティを失うことはなかった。祖国への誇りが、
心の支えになっているのである。つまり抵抗の歴史がわずかにアイデンティティを支えている。

人間はプライドを失ったら生きてはいけない。だから、支那や韓国は自国の歴史を
改竄(かいざん)してでも、自国民にプライドを植えつけようとしている。
ウソも1000回言えば真(まこと)になる、と信じて……

先の大戦で、ドイツが降伏した後に出た「ニューヨークタイムズ」の紙面にはこうあったという。
《ドイツは非常に優秀な民族だから、ナチスは道を間違ったけれど、
国を立派に再建できるし、われわれも協力の手を差しのべたい》

一方、日本が降伏した時の同紙の論調はどうだったか。
《この醜くて危険な怪物は、倒れはしたがまだ生きている。われわれはアメリカや
世界の安全平和のために、この怪物を徹底して解体しなければならない》

片や〝非常に優秀な民族〟で、こなた〝醜くて危険な怪物〟である。
この扱いの違いはどうだ。そこに一片のレイシズム(人種差別)もなかった、
と断言できるか? (ミュンヘン在住のSさん、このブログ読んでる?)

南海の〝泥(でい)〟のように、この醜い怪物を骨抜きにしてしまおう――。
それが有名な〝War Guilt Imformation Program〟だ。要はマッカーサーが
対日政策として課した「日本弱体化政策」である。朝日新聞以下、左翼系メディアや
日教組(日本教職員組合)は、この政策に骨がらみで染まり、今もなおマッカーサーの
〝従順なる僕(しもべ)〟を自任している。


敗戦によって何が失われてしまったのか――。
ボクは日本人としての「尊厳」と「誇り」が著しく傷つけられ失われた、と思っている。
だから、記者会見場で子どもみたいに〝号泣〟するお粗末な県議が出たり、
満座の中で笑われても平気の平左、土下座だって平気でするような恥知らずな日本人
が現れてくる。世も末である。




←このバカ議員め!
舌噛んで死んでしまえ!

ついでに言うと、
この髪の毛、かつらです

2014年7月5日土曜日

お尻さわったらPK、オッパイさわってもPK

ワールドカップサッカーの準々決勝、「ブラジルーコロンビア戦」を見た。
お目当てはブラジルのネイマール選手とコロンビアのロドリゲス選手だ。
イケメンに超弱いうちのカミさんなんか、
「カッワイーッ! がんばれ、がんばれロドリゲス!」
などと、年甲斐もなく黄色い声を張りあげて応援してる。

後半43分、ネイマールがコロンビアのディフェンダー・スニガ選手と交錯、
顔をゆがめてピッチ上に倒れ込んでしまった。スニガの右膝がネイマールの背中と腰
を直撃したのだ。ネイマールは担架で運ばれ、病院で診断の結果、脊椎骨折とされ、
残り試合の出場は絶望的となった。スニガ選手は「わざとではない」と強弁しているが、
あの膝蹴りはどう見たって〝わざと〟やっている。

その後、日テレのWC速報番組を見ていたら、元サッカー日本代表の城彰二が、
「これがサッカーなんですね…………何が起きるかわからない
(←どんな競技だって一寸先はわからんよ)
などと、さもしたり顔でコメントしていた。

これを聞いたカミさんは激怒。
「何を言ってるのこの人は! まるで反則行為を容認してるような口ぶりじゃないの。
そんな体質だから、西村(雄一)審判のPK判定に批判が集まっちゃうのよ。サッカーは
反則ばっか。フェアプレー精神もスポーツマンシップもハナから地に堕ちてんのよ」

WC初戦の「ブラジルークロアチア戦」。日本の西村審判はブラジル選手を後ろからつかんだ
クロアチア選手にファウルを与え、ブラジルにPKを与えた。試合後、クロアチアの監督は
西村判定を厳しく批判、欧米メディアも「あれはやり過ぎ」と概ね批判的な論調だった。
秋口にクロアチアを旅行する予定のカミさんと長女は気が気ではない。

サッカー解説でお馴染みの明石家さんまも、某ラジオ番組で、
「あれがPKなら、えらいこっちゃ」とか、
あれPKとったら、とんでもなくPKの数が多くなるでェ
などと、例によって歯をむき出し、ツバを飛ばしながら発言、西村審判を批判した。

城といいさんまといい、「これがサッカーなんですぅ」というが、
わが家の意見は正反対だ。あれでPKとったら、むちゃくちゃPKが増えるというが、
「だったら、むっちゃくちゃ増やせばいいんだよ。数分数秒おきにPKをやればいい。
肩持ったらPK、抱きついたらPK、お尻さわったらPK、オッパイさわったらPK、
唇うばったらPKと、PKの大安売りをやればいい……」

数分ごとにPKをやってたら、そのうち観客だって怒り出すだろう。
そうすりゃ、ペナルティエリア内で反則するのはもうやめよう、
という気運だって高まってくる。ボクはサッカーより野球のファンで、
それもMLBの大ファンだが、野球に反則なんてほとんど無い。
サッカー嫌いの人の多くは、あの「反則ばかりのダーティなプレイに嫌気がさす」
というのが殊の外多いのですよ。

FIFAワールドカップ・メキシコ大会で得点王に輝いたゲーリー・リネカー選手
(イングランド代表)は、日本のJリーグでも活躍したけど、プロ在籍中の15年間、
イエローカードとレッドカードを一枚も受けることがなかった。
付いたあだ名が〝ミスター・クリーン〟。

そのリネカー氏が、西村審判の判定に対して自身のtwitterで、
「It's a tight call for Brazil's man of the match between Neymar and the Referee
(開幕戦の〝マン・オブ・ザ・マッチ〟はネイマールと(西村)主審のどっちを選ぶべきか、
それが問題だな)」
と、西村判定を擁護している。

スポーツに反則はつきものだという。が、頭突きを食らわしたり、肘打ちをしたり、
足搦(がら)をかけたり、羽交い締めにしたりでは、いったい何のスポーツを
やってんだ、という話になる。子どもたちだって見てるんだ。
プロレスじゃねえんだぞ、と言いたくなる。

ボクはネイマールに深く同情し、この反則を繰り出した選手にひどくガッカリしている。
命があるうちに、さっさと帰国しないととんでもない目に遭うぞ、とまずは警告しておきたい。
コロンビア人も熱いけど('94年のアメリカW杯でオウンゴールしてしまったコロンビアのエスコバル選手は、
帰国後、同国の熱狂的サポーターに射殺された)、ブラジル人も熱いからね。
頭に血がのぼると何をしでかすかわからない。無事の帰国を祈るばかりである。

ああ、もうネイマールの華麗なプレイが見られないのか。
世界中のサッカーファンはさぞガッカリしていることだろう。
勝ち負けも大事だろうけど、みなスター選手のシュートやドリブルの妙技を見たいのだ。
ロドリゲスやメッシ、ミュラーやネイマールのプレイを1秒でも長く見ていたいのである。

これがサッカーなんですぅ?
豚饅頭みたいにデブってしまった城よ、利いたふうなことを抜かすんじゃないよ!
おれは怒ってんだ。カネ返せ、カネを! (←ネイマールのプレイをもう見られないという
ショックのあまり酒をバカ飲みし、脳と肝臓を害してしまった。その慰謝料です)



←「ミスター・クリーン」と呼ばれた
ゲーリー・リネカー選手。
清廉潔白なところがボクにそっくり

2014年7月3日木曜日

十億の人に十億の母あれど

きょう3日は3年前に死去した母の祥月命日。
極楽の生活ぶりはどんなものか、ご機嫌伺いのために墓参りへ行った。

陰気な菊は母も喜ばないので、赤や黄色の思いっきりゴージャスな花を奮発し、
車に乗り込み、一路川越へ。道々、母とのいろんな思い出が蘇ってきて、
鼻の奥がツーンとしてしまった。歳のせいか、涙もろくていけない。

めざすは川越観音「長徳寺」。平安時代に慈覚大師円仁が開いた寺で、
創建1100年以上の歴史があるという。ボクは無知でバチ当たりの不信心者だから、
そのありがたみがさっぱり分からないが、とりあえず父と母やご先祖さんが眠り、
また親友の安息の地でもあるので、できるかぎりお参りするようにしている。

母の墓前はすでに花でいっぱいだった。
あとで実家の兄に聞いたところ、姉と弟がすでにお参りを済ませたという。
親から見れば不肖の子どもたちだが、命日にはこうやって香華を手向けている。
みな虚勢を張って悪ぶってはいるが、けっこう親思いの真人間なのかもしれない。
まァ、善人の位で言うと、「中の下」ってところかな。

そしていつものように、母の墓の近くに眠る友の墓へも花を供える。
小学校時代からの友人で、昔はもっとも恐れられたガキ大将だった。
国籍は北朝鮮で、兄弟の何人かは「北朝鮮は地上の楽園」の謳い文句
(←朝日新聞と日教組が盛んに宣伝してました)に誘われ、海を越えてしまった。
ところが着いてみたら、楽園どころか地獄そのもので、生きていくのがやっと、
という状況。慢性的な物資不足もあって、ことあるごとに「◎◎を送ってほしい」と、
日本に残った兄弟たちに援助をたのんでくるという。

その友も若くして死んでしまった。自殺という噂が流れたが、
遺族はただ黙して語らないので、真実は闇の中だ。
「承ちゃん、また来たよ。久しく顔見せなくてごめんな……」
彼は乱暴者で、その上底抜けに明るかったが、いつも孤独の影を引きずっていた。
孤独な人間同士はニオイで感応し合うのか、ボクたちはすぐトモダチになった。

彼の父は北朝鮮人で、母が日本人。すぐ上の姉はいつもチマチョゴリを着ていて、
時々、近所の悪ガキにからかわれることがあった。すると弟の彼が飛び出していって、
悪ガキどもをボコボコにする。それがいつも繰り返されるパターンだった。



さて、実家への手土産はいつものように「小野食品」の絶品豆腐だ。
店主はいつも珍妙なコメントを寄せてくれる「なごり雪」さんで、
久しぶりに会ったら100キロ台の体重が90キロ台に突入し、
気のせいか腹の出っ張りがやや小ぶりになっていた。←愛しさのあまりなでなでしてやった

ファットボーイにデブおやじ』でも登場してもらったが、
ボクは友人と川越に行く時は、できるだけ駅前のこの店に案内することにしている。
「あんな滑らかな豆腐、食べたことない」
「あの(濃厚な)豆乳を飲むと、寿命が10年は延びるな」
などと、みな例外なく褒めそやしてくれる。ボクは別にこの店の広告塔ではないけれど、
川越を代表する名物といったら、「亀屋の最中」と「小野食品の仙波豆腐」しかない、
と断言していい。もっぱらスーパーの充填(じゅうてん)豆腐ばかり食べている人は、
死ぬまでに一度は仙波豆腐を食してほしい。値段はスーパーの4~5倍はするが、
これぞホンモノの豆腐だと、心底実感するはずだ。

(去年もたしか、こんなふうだったよな……)
母と友の墓参りをし、豆腐を買って実家へ向かう。
五十路を過ぎると時計の針が速く進むのか、あっという間に1年が経ってしまう。
たぶんこんなふうに、あっという間に人生も終わってしまうのだろう。


今夜は名品〝おぼろ豆腐〟をつまみに、母を偲んで独り酒を飲もう。

   十億の人に十億の母あらむも わが母にまさる母ありなむや (暁烏敏あけがらすはや

かわいそうだから父もついでに思い出してやろう(笑)。
「中の下」だものね、こんなもんでしょ。