2010年1月27日水曜日

死にたての魚

僕が私淑していたコラムニストの山本夏彦は
稀代のニヒリストだった。山本の好きだった斎藤緑雨
もニヒルのかたまりみたいな男だった。

  腰のぬけたるを泰然といはば、腹のすきたるを毅然といふべし。

  それがどうした――唯この一句に、大方の議論は果てぬべきものなり。
  政治といはず文学といはず。

ニヒリストは概ね相対主義者でもある。
絶対的な存在とみなされているものを鼻でせせら笑い、
権威主義を蹴っ飛ばす。早い話、エッラそうにしてるものがきらいなのだ。

世間を相対化し、笑い飛ばすにはどうしたらいいのか。
いきなり話が飛躍するかもしれないが、「死」を絶えず意識することだろう。
人間はいつか必ず死ぬ。金持ちにも貧乏人にも「死」は平等に訪れる。
この「死」をきちんと意識することによって、
ものごとを相対化する眼が養われる。
「死」を意識しないニヒリズムなど存在しない。

「おいおい、食事時にオナラをするんじゃないよ!」
「何を言うか! ひとのオナラ時に食事をするほうがわるい!」

こっちの言い分があれば、あっちの言い分もある。
世の中はすべて相対的なものだ。

   天が下に新しきものなし 

ソロモン王の言葉だが、これもまた相対主義の元祖みたいな言葉で、
少なくとも人文科学の世界では、この言葉だけですべて用が足りる。

ついでにもうひとつ。
「活きのいい魚」というのは実は「死にたての魚」でもある。
だが、魚屋のおっちゃんは、
「さあ、獲れたて、死にたての魚だよ。安いよ、安いよぉー!」
とは決して言わない。客も気味悪がって買わない。

「大将! このシマアジ、ぷりぷりしてて活きがいいね」
「ええ、死にたてですから」
「…………」

お後がよろしいようで。

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