2010年4月4日日曜日

『冬の蝿』から「五月蠅」に

  ♪花は散りても 春また咲くが 人に来世はあるものか 
   ハテ、ゆめのゆめの夢の世を うつつ顔して何しようぞ
   一期は……一期はゆめ、よ    チトン、チトシャン……

これは〝えんぴつ無頼〟を自称した竹中労が、少年の頃
「アラカンの他に神はなし」と憧れた嵐寛寿郎へ捧げたオマージュである。
   
   色は匂えど 散りぬるを 吾が世たれぞ 常ならむ

わが家のバルコニー越しに小学校の校庭の桜が見える。
テレビでは千鳥ヶ淵の桜が満開になったと報じていた。
この季節、わが家は市内の樹林公園へ毎年花見に行く。
弁当とワインを1本ぶらさげ、枝振りのいい桜の樹を見つけたら、
ゴザを敷きのべ、しばし花見酒を楽しむ。

しかし今年は、ハテ、どうしよう。
脚をケガしていて、とても公園までは歩けない。
車椅子で観桜と洒落てもいいけれど、気分はすでに萎えている。
もともと花より団子のクチで、ほんとうは桜などどうでもいいのだが、
われら日本人が「桜、サクラ」と大騒ぎする気持ちはわからないでもない。

桜の樹の下には屍体が埋まっている! これは信じていいことなんだよ。
何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか》

これはご存知梶井基次郎の『桜の樹の下には』の冒頭の一節だ。
青春期に、この作品を読んで病的な主人公(作者でもある)の資質に
同類に似たニオイを嗅ぎとり、深くのめり込んだことがある。

あの頃は、とにかく精神が不安定だった。
劣等感のかたまりがそのまま着物を引っ被っているようなもので、
この世の中を渡っていく自信がまるでなかった。
現実に押しつぶされそうな自分を必死に支えていた。

どうやって生きていったらいいのか、
自分の精神が憩える場所はあるのか、不安で一杯だった。
手探りで生きている時、ふと手にしたのが梶井のこの小品で、
『檸檬』『冬の蠅』などという一連の作品を夢中になって読んだ憶えがある。

僕は死んだように生きている「冬の蠅」そのものだった。
そしてあれから幾星霜。腺病質の少年は、ごっついおじさんに変身した。
桜の樹の下には屍体が埋まっている、とするイメージに共感した
柔らかな感性をもった青年は、もうどこにもいない。
そこに憮然とした顔で突っ立っているのは、
もののあはれを感じとるセンサーが著しく鈍磨した、
ただの説教臭いおやじだけである。

生きていくことがあれほど困難に思えたのに、
四十路を越えた頃になると、図々しくも
(あの頃の悩みって、いったい何だったの?)
と過去を悠然と、また他人事のようにふり返っている。
心は軽くなったけど、これって進歩なの? それとも退歩? 
まさに、ゆめのゆめの夢の世……。
うつつ顔して、サテ、何して生きていこう。

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