朝青龍がついに引退した。
どうしようもないやんちゃ坊主で、品格などかけらもなかったが、
一種独特の愛嬌と華のある力士だった。これが相撲でなく、
他の格闘技の世界だったら、引退に追い込まれることもなかったのに、
とちょっぴり残念な気もしている。
相撲取りは英語ではsumo wrestlerと表記される。
ただのレスラーであれば、勝った時にガッツポーズをしたり、
大阪北新地のホステスを酔って裸にひん剥いたりしても、
ほんのご愛敬で済むかもしれないが、横綱となるとそうはいかない。
なぜなら相撲は格闘技である前に伝統ある神事であるからだ。
土俵入りの際に柏手を打ったり、横綱がしめ縄を巻いたりするのは、
相撲が神道の影響を受けた神事であることを示している。
神前にて、筋骨隆々たる壮丁がその力を奉納し、
神々への感謝と敬意を表す。そして子孫繁栄や五穀豊穣を願う。
そのため、礼儀作法がことさら重んじられ、横綱には品格が求められる。
敗者に対して惻隠の情を欠いたガッツポーズをするなどとんでもない、
という話になる。
さて、柔道も国際化してJUDOとなった。
が、北京オリンピックでは日本の男子柔道は惨敗してしまった。
優勝候補だった100キロ級鈴木桂治などは、うかつにもタックル技の
もろ手刈りを食らい、1回戦で敗退した。
一方、一本勝ちではなく勝ちにこだわるJUDOで100キロ超級を制した
石井慧は、「ジュードーはルールのある喧嘩。芸術性が大事なら、
(フィギュアスケートみたいに?)採点競技にすればいいんだ」
と冷めた感想をポツリ。さっさと格闘家へ転向してしまった。
JUDOは別名「ジャケット・レスリング」と呼ばれる純粋スポーツ。
しかしSUMOは日本固有の民族格闘技であり、神事だ。
つまりスポーツであってスポーツでない。ここのところが、
チンギス・ハーンの国から来た純朴な若者には、
なかなか理解しがたいものがあったのだろう。
昔の横綱は、トッタリとかケタグリなどという技は使わなかった。
あんなもの三下奴の使う下品な技だ、という認識があった。
横綱にふさわしい技は四つに組んでの寄り切り。
朝青龍がよく繰り出した腕力頼みの投げ技などは、
昔なら横綱らしからぬ技、とあっさり切り捨てられていただろう。
この国では、柔道にも相撲にも美意識が求められる。
勝つことよりも、むしろそっちのほうが優先されたりする。
だから、あくまで一本勝ちにこだわりたい、とする柔道家には
世間の共感と尊敬が集まる。
そうはいっても、この崇高美にこだわる感性は、
日本人特有のもので、外国人にはわかりにくい世界だ。
そう考えると、朝青龍が感じていた居心地の悪さに、
少しばかり同情したくなる。
29歳での現役引退(←ああ、うらやましい)。
モンゴルでは腕っこきのビジネスマンで、
資産家でもあるという。
現代の日本人には圧倒的に欠けている剽悍な野性味と面魂。
よろずスマートで、いつもオドオドしている鳩山のお坊ちゃまに、
このモンゴル人のへそのゴマでも煎じて飲ませたい、
と痛切に思う。
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