2012年7月2日月曜日

もしもし邱さんQさんよ

   

照明を低く落とした大フロア。そこに参集した黒服の群れ。
案内状には「平服にてお越しください」とあったのに、これである。
ジャケットこそ羽織ったが、下はジーパンという出で立ちで
のこのこ出かけてしまったおのれの抜け作ぶりが恥ずかしい。
あの広い会場で、自分だけが完全に浮いていた。
平服といわれたら平服にしてちょうだいよ、まったくもォ……
日本人は、どこまで堅っ苦しいのか。



正面の祭壇には清澄で高々とした精神を感じさせる「一生書生」の4文字が、
参列者の心に涼やかな活を入れるかのように映し出されていた。
会場には『昴』の曲が静かに流れている。邱さんのお気に入りらしい。

皇居前にある「パレスホテル東京」。
本日は去る5月16日、88歳で死去した邱永漢(きゅう・えいかん)氏の「お別れの会」が
2階「葵の間」にて厳かに執り行われた。僭越ながらわたくしめも追悼の列の端に加わり、
一輪の白菊を霊前に供えてきた。

邱永漢氏は直木賞作家で経済評論家。いや、そんな肩書きだけではとても間に合わない。
実業家であり、株投資家であり、起業家であり、経営コンサルタントであり、
稀代の食通であり、かつては台湾独立運動に尽くした志士でもあった。
著作は450冊を超え、「お金儲けの神様」などと呼ばれた。

司会進行役は元TBSアナウンサー生島ヒロシ氏がつとめ、
邱さんと親交の厚かったユニクロ社長の柳井正氏が弔辞を読んだ。
失礼ながら弔辞は凡庸だったが、短く切り上げてくれたことが救いだった。
高齢者が多く、みな立ちっぱなしだったので、長広舌は迷惑なのだ。

さてボクの周囲を見回せば政財界のお偉い人ばかり。ボクの隣には
政治評論家の岡崎久彦氏がいた。新幹線に間に合わないので中座する、
などと独り言のようにブツブツ言ってたと思ったら、いつの間にか消えていた。
ああ、それにしても堅っ苦しい。早く退散するに如くはないと、心の中で
「邱さん、お世話になりました」と呼びかけ、小宴もそこそこに、
すたこらさっさと脱け出してきた。

450冊も本を書いたというだけで、寡作のボクなんか卒倒しそうになるが、
わずかに読んだ本の中では『食は広州に在り』が一番好きだ。
まず文章が洒落ている。邱さん一流の毒気とユーモアに満ち、
何より根底に書巻をひそめた格調高い文章がいい。
邱永漢は金儲けの達人である前に達意の文章家なのである。

《私がいわゆる食通でないことは私がいわゆる進歩的文化人でないのと同じくらい
確実なことである。私の舌は相当の鈍物で、珈琲と紅茶の区別くらいはつくが、
特級酒と一級酒を識別するだけの能力がない》(『食は広州に在り』)

コーヒーと紅茶をわずかに見分けられるという邱さんが、ある日、ボクに電話で、
「至急事務所までご足労ねがいたい」と言ってきた。13億という巨大なマーケットを
にらみ、中国雲南省でコーヒーを栽培したいから、ちょいとお知恵を拝借したい、
とこう言うのである。

そんなことがご縁で、邱さんのブログ『もしもしQさんQさんよ』に連載コラムの
ページをいただき、邱さんの誕生会などにも招待された。
邱さんのいいところは、「一生書生」という座右の銘にあるように、
ボクみたいな若輩者に対しても決して奢り高ぶらず、対等に遇してくれるところだ。
その謙虚な姿勢が邱永漢事務所の隅々まで浸透しているから、
秘書や社員一人一人と接しても、実に気持ちがいいのである。

「嶋中さん、他人(ひと)の女房と自分の文章はよく見えるもんですよ。ハハハ……」
たぐい稀なるユーモアとひねりの利いた毒舌。それが聞けなくなるのはひどく淋しい。

叔母の七十七日忌が終わったら、今度は母の一周忌、そして邱さんのお別れの会……。
ここのところ〝彼(ひ)岸の人たち〟との心の交流が続いている。
(し)岸の人たちとのつき合いは何かと七面倒くさいが、あっちの人たちは
余計なことをつべこべ言わず(当たり前だ)、あっさりしているからまことに気楽でいい。

邱さんのことだ、彼岸に行っても天人天女の綺麗どころに囲まれ、
「ねえ、邱先生ったらァ……」などと甘えられ、思いっきりヤニ下がっていることだろう。
そして極楽でも儲けのネタを探しているに決まってる。転んでもタダでは起きないのだ。
心よりの合掌。




←邱さんの類い稀なるブラックなユーモアが懐かしい。
その後、邱さんの遺灰は東京湾に散骨された。
生前から邱さんが望んでいたことだという。
黙祷……


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