2012年7月1日日曜日

異端と正統

昨日は母の一周忌の法要があった。
母が死んでもう1年。無常迅速というが、あっという間の1年だった。

暑い中、親戚のものたちが大勢参列してくれた。まことにありがたい。
いまや親の代がほとんど鬼籍に入ってしまったので、
法事の席はボクたち50~60代が中心だ。
思えば従兄弟たちと顔を合わせるのは慶事と仏事しかない。
そして互いに思うのだ。(年をとったなァ……)と。
同時に、(みんな年相応のいい顔になってきたなァ)とも思う。

当節は何かというとアンチエイジング流行りだが、
若ければいい、というものではない。人生の荒波を乗り越えてきた顔は、
それなりに美しいのだ。従兄弟たちの〝変わり果てた〟顔を見るたびに、
子供の頃のかわいい顔と二重写しになり、(ずいぶん老けちまったな)と
憐れみの情すら覚えるが、頬ずりをしてやりたくなるほど愛おしく
思えることもある。

     今では女房子供持ち
     思えば遠く来たもんだ
     此の先まだまだ何時までか
     生きてゆくのであろうけど
                        中原中也『在りし日の歌』より

ついでながら、海援隊の武田鉄矢が作詞したという『思えば遠くへ来たもんだ』は
この詩をパクったものといわれている。

それはともかく、これまでいろいろな葬儀に参列し、いろんな宗派宗旨にふれてきた。
神道があれば臨済宗、曹洞宗、浄土宗に浄土真宗、そして
〝南無妙法蓮華経〟を延々と唱題する創価学会の葬儀もあった。

うちの菩提寺は天台宗だ。天台宗は最澄を開祖とする宗派で、正式名は
「天台法華宗」。幾千あるお経の中で、一番価値の高いのは「法華経(正式名は
妙法蓮華経)」とした。だから日蓮宗とは同じ法華経を信ずるもの同士なのだが、
なぜか仲がわるいという。

妙法蓮華経というのは妙(たえ)なる法を説いた蓮華のようなすばらしいお経、
という意味で、その妙法蓮華経を大いに広めれば、万民が幸せになるというのが
日蓮の考え方だ。で、うちわ太鼓をドンドコと叩きながら〝南無妙法蓮華経〟を唱題する。
「南無」はI believeの意で、「帰依しま~す」という呼びかけだ。

日蓮は他宗派を異端とし、それを認めないという厳しい態度を貫いた。
法華経が唯一正しくて、他の宗派はみな間違っていると説いたのである。
日本には珍しく戦闘的な宗派といえるかもしれない。
しかし、いくら戦闘的といってもイスラムのシーア派対スンニ派のように、
血で血を洗うような激しさはない(かつてはあった)。

キリスト教には「異端は異教の罪よりも重い」という言葉がある。
異教というのはたとえばキリスト教に対する仏教やヒンドゥー教など、
まったく別の宗教のこと。それらよりむしろ「異端」、つまり同じ宗教でありながら
解釈を変えたもののほうが罪が重い、というのである。シリアの内戦に見られる
「体制派=アラウィ派(シーア派の一派)」と「反体制派=スンニ派」の対立が
まさにそれだろう。

イスラム教は異教に対しては比較的寛容といわれている。が、異端には厳しい。
なぜなら異端は神に対する冒涜だからだ。

南無妙法蓮華経を延々と唱題する宗派にも、正直閉口するが、
だからといってこの宗派を信ずる従兄弟と絶縁しようとは思わない。
ましてや彼らを根絶やしにしてやろうなどとは金輪際思わない。
そしてまた、わが天台宗が唯一無二の正統性を有しているとも思わない。
そもそも天台宗の何たるかを知らない。

遠いアラブの国々の争いを見ていると、日本に生まれたことの
幸せをしみじみ思う。



秩父のT夫ちゃんとM代さん。
昨日は遠くからアリガトね。
どうだった川越の〝粗餐〟の味は? 秩父の粗餐のほうがおいしい?
「秩父流」のほうに正統性がありそう? それとも川越流?
あ~あ、やっぱり平和なニッポンに生まれてよかった。








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