テレビを観るとタレント(悪い洒落だと思うのですが才能の意です)と称する娘っこが
何かを見るたびに「すごーい、すごーい!」を連発しています。
かと思うと「やべぇ、これマジ、やべぇ」などと、ラーメンをすすりながら叫んでいるバカタレ
(おバカなタレントのことです)もいます。どうやら「やべぇ」は「おいしい」と同義らしいのです。
先日、ボクが愛のムチでぶっ叩いてやったアンちゃんも、
「なんだよ、てめえ、うっせぇんだよ!」
「なんか文句あんのかよ、この糞ジジイ!」
とひどく貧しい日本語を叫んでおりました。
警察官がいうには大学生ということらしいのですが、
あの貧寒な語彙から想像すると、教養程度は3歳以下かと思われます。
さてボクはスマホもガラケーも持ちません。
超のつく機械オンチなので、あのように複雑怪奇な機械は操れないのです。
電車に乗ると、老若男女を問わず、みな揃ってスマホとにらめっこをしております。
うちの女房などは分からないことがあるとすかさずスマホを取り出し、
ピコピコピコとやって、「へーえ、そういうことなのか」などとひとり合点しています。
辞書代わりなんですね、スマホが。今のスマホは相当進化していますから、
機能はパソコン並み。みんな携帯用のパソコンを持って歩いているんです。
ボクは車内の少数派になりましたが、二宮金次郎みたいに本を広げます。
スマホは情報を入手するには便利ですが、情報は単なる情報でしかありません。
ボクは情報にはいささか食傷気味で、ありとあらゆる情報ですでに頭の中は
パンパンに膨らんでいます。情報はほんのちょっとだけでいいのです。
職掌柄、ボクは辞書をたくさん持っています。
諸橋轍次の大漢和辞典も全巻揃えています。
むかしは諸橋の漢和辞典を持ってるよ、といえば、みな畏れ入ったものですが、
今の若い人たちは、「モロハシテツジ? 知らな~い。だれ、そのおじさん?」
と、ありがたみがまるで伝わりません。おじさんの心はひどく傷つきます。
習い性になっているのか、辞書はよく引きます。
原稿を書いていていちばん重宝するのは類語辞典です。
同じ言葉を何度も使うのは物書きとして恥ずかしいことなので、
適切な類語をそこに充てはめます。こうして語彙力が自然と身についていきました。
正しい日本語力をつけるには本を読むしかありません。
それにはいい文学作品を読むことです。
ボクは〝青白き文学青年〟のはしくれでしたから、人並み以上には本を読んでいます。
好きな作品があると、その作家の全集を買い込み、数年かけて読破します。
そんなことを小中学校から続けていますので、家じゅう本だらけで、
本棚に入りきらないものは納戸に押し込んであります。底が抜けそうです。
日本のヤングママたちは、「英語、英語」と騒ぎすぎです。
小学校からの英語教育は、それはそれでけっこうだとは思うのですが、
肝心の日本語がおろそかにされたら元も子もありません。
ボクの経験からいうと、日本語力のない人は英語も巧くなりません。
映画字幕翻訳者として知られる戸田奈津子さんも言ってます。
戸田さんは「英語がお上手なんですね」と褒められると、こう切り返すそうです。
《この仕事は英語力より日本語力なんです。4分の3は日本語力だと思います》
本を読むには忍耐力が要ります。何百、何千という本を読むには
とほうもない忍耐力が必要です。あとは馴れでしょうか。馴れればスイスイ読めます。
しかし何といっても重要なのは、読書が他の何にもまして面白いということです。
ボクは本の中毒ですから、身近に本がないと中毒症状が起きます。
本はそれほどに面白く、読むことが快感になります。
永井荷風、小林秀雄、石川淳といった名文家の作品を読むと、
心が洗われるような思いがします。
小林秀雄などは、もういくたび読み返したか分かりませんが、
読むたびに新たな発見があり、深く考えさせられます。
また石川淳の融通無碍、活殺自在な文章にふれると、日本語の持つ力強さ、
優雅さ、品格、すべてが感じとれます。日本語は美しい、とつくづく思います。
戸田奈津子さんはこうも言ってます。
《情報は教養ではない。人間の価値を決めるのは教養です。
自分で本を読み、考えなければ、教養は身につきません》と。
まったくそのとおりだと思います。
「すげぇ」とか「やべぇ」とか聞くもおぞましい言葉を吐く〝無脳〟な連中に
用はありません。ボクはこの手の人間には近づかないし、またつとめて
近づけないようにしております。教養の深浅は10分も話せば判ります。
ボクは取材相手に、
「シマナカさんと話してると、30分で丸裸にされちゃいますね。
すべてが見透かされているようで、正直、恐いです」
と言われたことがあります。お世辞半分としても、
この言葉は今でもボクの勲章になっております。
ところで例の事件の顛末ですが、検察庁から何の知らせもありません。
「不起訴処分の時は、何も知らせません。期限は11月いっぱいです」
担当の検察官はこう言っておりました。
つまりボクは不起訴処分になったようなのです。
あの「うっせぇんだよ! この糞ジジイ!」と叫んでいた無教養なアンちゃんは、
さぞ悔しがっていることでしょう。正義は勝つのだよ、この愚か者めが!
まだまだ世の中は捨てたもんじゃありません。
みなさん、本を読んで、美しい日本語を身につけましょう。
本が苦手の人は、代わりにボクのブログを読むことです。
美しい日本語はもちろんのこと、世の中の正邪美醜、、
またどうやったら女の子にもてるようになるのか、
熟読玩味すればそんなノウハウまで自然と身についていきます。
もっとも〝女の子〟には〝元〟という言葉が冠せられますがね……
←完成までに30年を要したという
諸橋轍次の大漢和辞典
何かを見るたびに「すごーい、すごーい!」を連発しています。
かと思うと「やべぇ、これマジ、やべぇ」などと、ラーメンをすすりながら叫んでいるバカタレ
(おバカなタレントのことです)もいます。どうやら「やべぇ」は「おいしい」と同義らしいのです。
先日、ボクが愛のムチでぶっ叩いてやったアンちゃんも、
「なんだよ、てめえ、うっせぇんだよ!」
「なんか文句あんのかよ、この糞ジジイ!」
とひどく貧しい日本語を叫んでおりました。
警察官がいうには大学生ということらしいのですが、
あの貧寒な語彙から想像すると、教養程度は3歳以下かと思われます。
さてボクはスマホもガラケーも持ちません。
超のつく機械オンチなので、あのように複雑怪奇な機械は操れないのです。
電車に乗ると、老若男女を問わず、みな揃ってスマホとにらめっこをしております。
うちの女房などは分からないことがあるとすかさずスマホを取り出し、
ピコピコピコとやって、「へーえ、そういうことなのか」などとひとり合点しています。
辞書代わりなんですね、スマホが。今のスマホは相当進化していますから、
機能はパソコン並み。みんな携帯用のパソコンを持って歩いているんです。
ボクは車内の少数派になりましたが、二宮金次郎みたいに本を広げます。
スマホは情報を入手するには便利ですが、情報は単なる情報でしかありません。
ボクは情報にはいささか食傷気味で、ありとあらゆる情報ですでに頭の中は
パンパンに膨らんでいます。情報はほんのちょっとだけでいいのです。
職掌柄、ボクは辞書をたくさん持っています。
諸橋轍次の大漢和辞典も全巻揃えています。
むかしは諸橋の漢和辞典を持ってるよ、といえば、みな畏れ入ったものですが、
今の若い人たちは、「モロハシテツジ? 知らな~い。だれ、そのおじさん?」
と、ありがたみがまるで伝わりません。おじさんの心はひどく傷つきます。
習い性になっているのか、辞書はよく引きます。
原稿を書いていていちばん重宝するのは類語辞典です。
同じ言葉を何度も使うのは物書きとして恥ずかしいことなので、
適切な類語をそこに充てはめます。こうして語彙力が自然と身についていきました。
正しい日本語力をつけるには本を読むしかありません。
それにはいい文学作品を読むことです。
ボクは〝青白き文学青年〟のはしくれでしたから、人並み以上には本を読んでいます。
好きな作品があると、その作家の全集を買い込み、数年かけて読破します。
そんなことを小中学校から続けていますので、家じゅう本だらけで、
本棚に入りきらないものは納戸に押し込んであります。底が抜けそうです。
日本のヤングママたちは、「英語、英語」と騒ぎすぎです。
小学校からの英語教育は、それはそれでけっこうだとは思うのですが、
肝心の日本語がおろそかにされたら元も子もありません。
ボクの経験からいうと、日本語力のない人は英語も巧くなりません。
映画字幕翻訳者として知られる戸田奈津子さんも言ってます。
戸田さんは「英語がお上手なんですね」と褒められると、こう切り返すそうです。
《この仕事は英語力より日本語力なんです。4分の3は日本語力だと思います》
本を読むには忍耐力が要ります。何百、何千という本を読むには
とほうもない忍耐力が必要です。あとは馴れでしょうか。馴れればスイスイ読めます。
しかし何といっても重要なのは、読書が他の何にもまして面白いということです。
ボクは本の中毒ですから、身近に本がないと中毒症状が起きます。
本はそれほどに面白く、読むことが快感になります。
永井荷風、小林秀雄、石川淳といった名文家の作品を読むと、
心が洗われるような思いがします。
小林秀雄などは、もういくたび読み返したか分かりませんが、
読むたびに新たな発見があり、深く考えさせられます。
また石川淳の融通無碍、活殺自在な文章にふれると、日本語の持つ力強さ、
優雅さ、品格、すべてが感じとれます。日本語は美しい、とつくづく思います。
戸田奈津子さんはこうも言ってます。
《情報は教養ではない。人間の価値を決めるのは教養です。
自分で本を読み、考えなければ、教養は身につきません》と。
まったくそのとおりだと思います。
「すげぇ」とか「やべぇ」とか聞くもおぞましい言葉を吐く〝無脳〟な連中に
用はありません。ボクはこの手の人間には近づかないし、またつとめて
近づけないようにしております。教養の深浅は10分も話せば判ります。
ボクは取材相手に、
「シマナカさんと話してると、30分で丸裸にされちゃいますね。
すべてが見透かされているようで、正直、恐いです」
と言われたことがあります。お世辞半分としても、
この言葉は今でもボクの勲章になっております。
ところで例の事件の顛末ですが、検察庁から何の知らせもありません。
「不起訴処分の時は、何も知らせません。期限は11月いっぱいです」
担当の検察官はこう言っておりました。
つまりボクは不起訴処分になったようなのです。
あの「うっせぇんだよ! この糞ジジイ!」と叫んでいた無教養なアンちゃんは、
さぞ悔しがっていることでしょう。正義は勝つのだよ、この愚か者めが!
まだまだ世の中は捨てたもんじゃありません。
みなさん、本を読んで、美しい日本語を身につけましょう。
本が苦手の人は、代わりにボクのブログを読むことです。
美しい日本語はもちろんのこと、世の中の正邪美醜、、
またどうやったら女の子にもてるようになるのか、
熟読玩味すればそんなノウハウまで自然と身についていきます。
もっとも〝女の子〟には〝元〟という言葉が冠せられますがね……
←完成までに30年を要したという
諸橋轍次の大漢和辞典
4 件のコメント:
嶋中労さま
おはようございます。
本を読まずに50歳まで生きてきた教養の無い田舎者です。
今回の日誌を読み返しているうちに、紀野一義先生の本か
講話テープの中の一つを思い出しました。
『明治生まれの以前の人が真の日本人である。』
(正確ではありませんが。)
その例として修証義を書いた大内 青巒居士の話がありました。
正法眼蔵を数回にわたり読み暗記をし修証義にまとめ上げた
ということでした。今の人には出来ないであろうととも言って
いました。(昭和生まれの人には)
そうだとすると、今後20年で真の日本人がいなくなります。
なので自然と正しい日本語力を持っている人もいなくなるはずです。
美しい日本語の労さまのブログ、楽しく読ませていただいています。
ありがとうございました。
田舎者様
おはようございます。
誤解のないように願いますが、
「教育」と「教養」はちがいます。
教育がなくても教養のある人はいっぱいいます。逆に高い教育がありながら、貧しい教養の持ち主もいます。
教養とは生きる上での深い知恵のこと。
いわゆる〝人間通〟と呼ばれる人たちが
真の教養人といえるかもしれません。
本を読むことがなぜ楽しいかというと、
古今東西の賢人たちの知恵をそっくり学べるからです。人の一生の中で、師と仰ぎたくなるような立派な人格に出会う機会はそうそうありません。
ボクにも生身の師はいませんし、
いるのはくたびれた酔っぱらいばかりです。しかし本の中には、ゲーテもいれば
ソクラテスもいる。「読書尚友」を通して、彼ら賢哲と親しく言葉を交わせるのです。こんな悦ばしいことはありません。
紀野一義さんもその賢哲の一人。
ボクも紀野さんからは多くを学ばせてもらいました。
美しい日本語というのは難しいですね。
選挙演説などを聴いていると、
「皆さまにお訴えさせていただきたい、と考える次第であります」などと、わけのわからん日本語をあやつる政治屋どもの何と
多いことか。
それに比べ、田舎ものさんの俳句には
何と言おう、哀愁があります。野壺のような香りがあります。あれは深い教養の為せる業だと思われます。がんばってください。
嶋中労さま
暫く仕事に忙殺されており、貴ブログを訪問することも叶いませんでした。
戸田奈津子さんを引き合いにされておられましたが、いやあ全く同感です。
小生は仕事で、簡単な英文の通信をする必要がある時が有り、日本語(母国語)は英語以上に大事だなあと、日々痛感しております。
小生の職場での口癖は、「母国語の語彙以上に、外国語の語彙に堪能な人間などいない。」です。
小生が英語に真剣に取り組んだのは、二十歳をとうに過ぎてからでした。その時に小生に英語の手解きをして頂いた先生に、英語を理解したかったら英英辞書を使えと薦められたのですが、覚える効率を優先するために英和辞書の使用に重きを置いてしまいました。
齢五十を過ぎ、それが間違っていた勉強方法で、急がば回れが正しかったと悔やむ日々です。最近は意味の理解があやふやな単語を英英辞書で引くと、しばらく辞書の例文やそのページの違う単語などを読み入ってしまいます。
そして英和辞典の日本語の意味が、誤訳とは言わないが、その意味に多くの補足をしないと真の意味にはならないと気ずかされて、益々憂鬱な気分に堕ち込みます。
また趣味で原書(翻訳されていない書物)を、自分なりに訳そうとしているのですが、己の日本語の語彙の無さに、ほとほと自己嫌悪に陥ります。
小生の持っている日本語辞書といえば、三十年前に購入した広辞苑のみ。
自分の人生の持ち時間が少なくなった現在、まさに日暮れて道遠し、There is not a royal road to study.を実感する毎日で御座います。
サム様
こんにちは。
おっしゃるとおり、語彙力というのは大事
ですね。語彙が400語しかない人間は400語
の精神世界に甘んじるしかありません。
それが数千数万になれば、物事を深く考えることができ、精神世界も豊かになります。哲学書に泥のように晦渋な言葉が多いのは、複雑な心の世界を表現するにはどうしても難解な言葉を使わざるを得ないからです。
ボクは読書週間などに新聞が実施するアンケート調査で、月に本を一冊も読まない人がいることに驚かされます。
本を読まないと語彙が貧しくなり、当然ながらその精神世界も貧しいものとなります。自己チューの人間が増え、他人のことを思いやれない人が増えているのは、読書
する人が減っているためかもしれません。
原書を訳す、というのはすばらしいですね。ボクもやってみようかしら。
訳してみたい本はすでにあります。
何度も読み返していて、ボクの大好きな
本のひとつです。
すでにカウントダウンが始まっている身
ですから、そろそろ始めましょうかね。
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