父は鼻からも口からも、体中に管を巻きつけられ、半分拘束されたような恰好で死にました。
母も同様に、点滴と酸素吸入をほどこされ、顔や手足がむくんだまま死にました。
2人とも病院のベッドの上で死にました。
看護師の仲間内では「自宅で亡くなられたご遺体はきれい」と言われているそうです。
一方、病院では最後の最後まで点滴が続けられます。体がもう水分や栄養剤を
受けつけないのに、それでも注入され続けます。おかげで手足は水ぶくれで、
撫でさすってもそのむくみは容易にとれません。
人間は本来、口から食べたものによってエネルギーを得て生きています。
しかし、だんだん歳をとって身体が衰弱してくると、ついには食べることができなくなります。
昔はそうして自然に、古木が朽ち果てるように静かに息を引き取ったのです。
ところが今は違います。口から食べられなくても生きていく方法があるのです。
高カロリー輸液といって、高濃度のブドウ糖液や栄養剤を、太い静脈に
点滴するという方法です。これだけで数年は生きられるといいます。
口から食べられなくなったら、人間、もう先は長くないというシグナルなのに、
日本の病院は点滴や経管栄養、酸素吸入でむりやり「がんばれ、がんばれ!」
と叱咤激励し、生きのびさせます。医療技術を過信し、自然の摂理に逆らって、
静かに看取るという本来あるべき姿をすっかり忘れているのです。
伊豆七島の三宅島には今でも、
「最後は水だけ与える。そうすれば精神が落ち着き自然に戻っていく」
という言い伝えがあるそうです。これこそが自然死です。
本人も静かに人生の幕引きができるし、周囲も穏やかな終焉を見守ることができます。
しかし現代医療は、楽に逝ける人をむりやり病院に引っ張り込み、
体中に管を巻きつけて延命させようとします。なかには胃瘻(いろう)までつけて
生きのびさせようとするところもあります。終末期を迎えた人間にむりやり胃瘻を
つけることに、いったいどんな意味があるのでしょう。
過剰な栄養は肺炎を引き起こす危険性だってあるのです。
なぜこんなバカげたことがおこなわれているのか。医者や病院の側にも理屈があります。
「何も手をほどこさずに患者さんが死んだ場合、今の日本の刑法では
保護責任者遺棄致死罪(刑法219条)に当たる恐れがあるからです」
日本の刑法は終末期医療の実態に即していない、とこう言うのです。
現に、末期患者の人工呼吸器を外した医師が「治療の差し控え」があったとして
起訴される、という事件も起きています。法律が未整備なため、
ゆき過ぎた延命至上主義がはびこり、高齢者医療に暗い影を落としているのです。
物の本によると、わが国では年間110万人が最期を迎えているといいます。
驚いたことに、その8割の90万人近い人が病院で亡くなっているのです。
特養老人ホームで入所者の具合が悪くなり、医師が回復の見込みなしと診断した
場合でも、施設内で看取ることはほとんどなく、すみやかに病院に移されます。
ボクの母もすぐさま病院に搬送され、全身を管だらけにされてしまいました。
自然死を迎えているものに、病院での治療はほんとうに必要なのでしょうか。
ちなみに、わが国では年間30兆円を超える医療費が使われているといいいます。
いくら医療費削減を叫んでも、こうした現状が改善されないかぎり医療費はふくらみ
続け、私たちの尊厳ある死は無惨にも置いてきぼりを喰らってしまいます。
静かな最期を迎えようとしているのに、むりやり揺り起こし、むりやり食べさせる。
これは「病気」などではありません。「寿命」なのです。静かに眠らせてやるべきなのです。
「延命処置はもういい、静かに死なせてほしい……」
口のきけなくなった父と母は、両の目で必死に訴えているように思えました。
しかしボクたちはなす術もなく、医者の言うがままにただ見守るばかりだったのです。
今でもこのことが心残りで、思い出すたびに悔悟の念でいっぱいになります。
申しわけない気持ちで、胸が痛くなります。
日本の終末期医療の現場には、何か大事なものが忘れられています。
母も同様に、点滴と酸素吸入をほどこされ、顔や手足がむくんだまま死にました。
2人とも病院のベッドの上で死にました。
看護師の仲間内では「自宅で亡くなられたご遺体はきれい」と言われているそうです。
一方、病院では最後の最後まで点滴が続けられます。体がもう水分や栄養剤を
受けつけないのに、それでも注入され続けます。おかげで手足は水ぶくれで、
撫でさすってもそのむくみは容易にとれません。
人間は本来、口から食べたものによってエネルギーを得て生きています。
しかし、だんだん歳をとって身体が衰弱してくると、ついには食べることができなくなります。
昔はそうして自然に、古木が朽ち果てるように静かに息を引き取ったのです。
ところが今は違います。口から食べられなくても生きていく方法があるのです。
高カロリー輸液といって、高濃度のブドウ糖液や栄養剤を、太い静脈に
点滴するという方法です。これだけで数年は生きられるといいます。
口から食べられなくなったら、人間、もう先は長くないというシグナルなのに、
日本の病院は点滴や経管栄養、酸素吸入でむりやり「がんばれ、がんばれ!」
と叱咤激励し、生きのびさせます。医療技術を過信し、自然の摂理に逆らって、
静かに看取るという本来あるべき姿をすっかり忘れているのです。
伊豆七島の三宅島には今でも、
「最後は水だけ与える。そうすれば精神が落ち着き自然に戻っていく」
という言い伝えがあるそうです。これこそが自然死です。
本人も静かに人生の幕引きができるし、周囲も穏やかな終焉を見守ることができます。
しかし現代医療は、楽に逝ける人をむりやり病院に引っ張り込み、
体中に管を巻きつけて延命させようとします。なかには胃瘻(いろう)までつけて
生きのびさせようとするところもあります。終末期を迎えた人間にむりやり胃瘻を
つけることに、いったいどんな意味があるのでしょう。
過剰な栄養は肺炎を引き起こす危険性だってあるのです。
なぜこんなバカげたことがおこなわれているのか。医者や病院の側にも理屈があります。
「何も手をほどこさずに患者さんが死んだ場合、今の日本の刑法では
保護責任者遺棄致死罪(刑法219条)に当たる恐れがあるからです」
日本の刑法は終末期医療の実態に即していない、とこう言うのです。
現に、末期患者の人工呼吸器を外した医師が「治療の差し控え」があったとして
起訴される、という事件も起きています。法律が未整備なため、
ゆき過ぎた延命至上主義がはびこり、高齢者医療に暗い影を落としているのです。
物の本によると、わが国では年間110万人が最期を迎えているといいます。
驚いたことに、その8割の90万人近い人が病院で亡くなっているのです。
特養老人ホームで入所者の具合が悪くなり、医師が回復の見込みなしと診断した
場合でも、施設内で看取ることはほとんどなく、すみやかに病院に移されます。
ボクの母もすぐさま病院に搬送され、全身を管だらけにされてしまいました。
自然死を迎えているものに、病院での治療はほんとうに必要なのでしょうか。
ちなみに、わが国では年間30兆円を超える医療費が使われているといいいます。
いくら医療費削減を叫んでも、こうした現状が改善されないかぎり医療費はふくらみ
続け、私たちの尊厳ある死は無惨にも置いてきぼりを喰らってしまいます。
静かな最期を迎えようとしているのに、むりやり揺り起こし、むりやり食べさせる。
これは「病気」などではありません。「寿命」なのです。静かに眠らせてやるべきなのです。
「延命処置はもういい、静かに死なせてほしい……」
口のきけなくなった父と母は、両の目で必死に訴えているように思えました。
しかしボクたちはなす術もなく、医者の言うがままにただ見守るばかりだったのです。
今でもこのことが心残りで、思い出すたびに悔悟の念でいっぱいになります。
申しわけない気持ちで、胸が痛くなります。
日本の終末期医療の現場には、何か大事なものが忘れられています。
2 件のコメント:
数日前、母が入院いたしました。病室はベッドが3台あり、母はその真ん中。奥側のベッドには脇腹から管を通されベッドサイドにハンドバッグのような液体入れがつき、口からも何やら通され、常にヒューヒューと呼吸をしている意識の無い爺さん。手前側のベッドには点滴と鼻から管を通されてよほど苦しいのか言葉にならない言葉を常に発している婆さん・・・我が母は現時点では点滴をされているだけで意識もしっかりしており、見舞いに行くたびに「両隣の人達を見ているとむしろ病気が悪化するような気がする・・・」と愚痴を言っております。
そして・・・「あんなになるまで生かしておくような拷問はしないでくれ」と申しております。
父は脳梗塞で倒れ、ほぼ意識の無い中自力呼吸ができなくなった際、愚生が医師に呼吸器を乗せることを頼んだため、それから4日間、常に口に掃除機のパイプを突っ込まれたような状態で過ごし逝きました。ほかの親不孝を多々してきたとはいえ、愚生が彼の人生最後にやってしまった最大の親不孝であったと、6年以上経過した今でも悔やんでおります。
迂塞齋様
ボクの母も同じようなことを言ってました。
「同室の人たちを見てると頭が変になる」と。
なかにはベッドの端に手足を縛られてる患者
さんもいましたね。人間の尊厳もへったくれもありません。
カッコよく死ぬにはどうしたらいいか。
そろそろ考えておいたほうがいい歳に
なりましたね。
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