午前中、団地内の集会棟で葬式があった。
同じ棟に住む知り合いで、もと市会議員だったSさんの葬儀である。
つい先日まで元気に言葉を交わし合っていたのに、
きょうは棺の中で口を真一文字に結んでかしこまっている。
まさに《朝(あした)には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり》というわけだ。
人間の命なんてものは、いかにも儚い。
Sさんは昭和11年生まれ。市会議員をする前は映画監督をやっていた。
映画仲間だからだろう、別の棟に住むMさんも告別式に参列していた。
以前にも書いたことがあるが、Mさんは『男はつらいよ』シリーズの6作目まで
脚本を書いていた人である。
出棺の際に、亡くなったSさんの実弟が親族を代表して挨拶をした。
「兄は負けず嫌いな性格で、曲がったことが大きらい。自分を含めて
みんなが兄を誇りに思い、人生の目標にしてきた」などと語っていた。
心情のこもった、とてもよいスピーチだった。
ご令弟はSさんが日活の映画監督をやっていたことにもふれた。
だが、その代表作を石原裕次郎主演の『ある兵士の賭け』だと言った。
故人には大変申し訳ないが、あの作品は駄作である。
浅丘ルリ子や三船敏郎、フランク・シナトラ・Jrと顔ぶれだけは豪華だが、
興行的にはまったくダメな作品だった。
参列者たちの多くは知っていた。Sさんは日活ロマンポルノの監督だったことを。
『団地妻 不倫の果て』『団地妻 肉体地獄』『不倫の罠 貫通(←姦通ではない)』
『秘色 リース妻』などなど、それこそ立派な作品がいっぱいある。
日活ロマンポルノは『団地妻 昼下がりの情事』('71)が大ヒットしてからドル箱映画
となったもので、'71~'88の17年間の間に1100本も作られたという。なかでも
『団地妻シリーズ』が稼ぎ頭で、前述のヒット作『昼下がり……』には大好きな白川和子
(←ムスコがほんとにお世話になりました)も特別出演を果たしている。
ボクなんか白川和子と青春を共に生きた、という感じが今でもしている。
生前、Sさんは映画の話をあまりしたがらなかった。
(どんな映画を撮ってたんだろう?)
今はネットの時代である。その経歴を知りたければ、ちょいとググるだけですぐ分かる。
「ポルノ映画を撮ってました」とは正直、言いにくかったのかもしれない。
が、ボクなんかの世代は、まさにその日活ロマンポルノで育てられた世代なので、
何はばかることなく自慢してくれればよかったのに、と今さらながらに思う。
葬儀の場で、「実は故人はポルノ映画を専門に撮っておりまして……」
とは弟さんも言いにくかろう。また遺族の肩身も狭くなる。そんな慮りがあって、
「代表作は石原裕次郎主演の……」と無難な線にしたのだろう。
が、ボクとしてはちょっと寂しい気がしている。
ボクもフリーライターになりたての頃は、エッチな文章をいっぱい書いていた。
食わんがためである。ホテルの一室に裸のモデルといっしょに缶詰にされ、
「女の秘所――どこをさわれば感じるか」なんておバカな記事を
もっともらしく仕立てあげたこともある。
「シマナカさん、あんたの原稿は堅すぎて〝チ◎ポ〟が立たないんだよ」
などと月刊雑誌の編集長から叱られたこともある。どうやったらムスコたちを
猛り狂わせ、いかせるか――そこに操觚者(そうこしゃ)としての技術のすべてがあった。
あのポルノまがいの記事を書いていた一時期は、
果たしてボクの人生の〝汚点〟だろうか。そんなこと、考えたこともない。
筆一本で男も女もいかせてしまう――物書きにとって、
これこそが究極の芸というものだろう。汚点どころか勲章に決まってる。
ボクがカラスと壮絶な戦いを繰り広げていた時、Sさんはパチンコを撃つボクの姿を
見て、『カラスを撃つ男』という小品を作った、と言っていた。
その〝幻の作品〟がS家のどこかに眠っている。
心からの合掌。
←エロでもグロでも、頼まれれば何でも
書く、ダボハゼのようなゴーストライター
の汚ったない書斎(ごくごく一部です)がこれ。
先日、本の重みで書棚が裂けて砕けた。
← 北側のバルコニーから見える風景。
上部には2面あるテニスコートも。
夏には中央の〝せせらぎの道〟に
清流が流され、若い「団地妻」や子どもたち
の水遊び場に
同じ棟に住む知り合いで、もと市会議員だったSさんの葬儀である。
つい先日まで元気に言葉を交わし合っていたのに、
きょうは棺の中で口を真一文字に結んでかしこまっている。
まさに《朝(あした)には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり》というわけだ。
人間の命なんてものは、いかにも儚い。
Sさんは昭和11年生まれ。市会議員をする前は映画監督をやっていた。
映画仲間だからだろう、別の棟に住むMさんも告別式に参列していた。
以前にも書いたことがあるが、Mさんは『男はつらいよ』シリーズの6作目まで
脚本を書いていた人である。
出棺の際に、亡くなったSさんの実弟が親族を代表して挨拶をした。
「兄は負けず嫌いな性格で、曲がったことが大きらい。自分を含めて
みんなが兄を誇りに思い、人生の目標にしてきた」などと語っていた。
心情のこもった、とてもよいスピーチだった。
ご令弟はSさんが日活の映画監督をやっていたことにもふれた。
だが、その代表作を石原裕次郎主演の『ある兵士の賭け』だと言った。
故人には大変申し訳ないが、あの作品は駄作である。
浅丘ルリ子や三船敏郎、フランク・シナトラ・Jrと顔ぶれだけは豪華だが、
興行的にはまったくダメな作品だった。
参列者たちの多くは知っていた。Sさんは日活ロマンポルノの監督だったことを。
『団地妻 不倫の果て』『団地妻 肉体地獄』『不倫の罠 貫通(←姦通ではない)』
『秘色 リース妻』などなど、それこそ立派な作品がいっぱいある。
日活ロマンポルノは『団地妻 昼下がりの情事』('71)が大ヒットしてからドル箱映画
となったもので、'71~'88の17年間の間に1100本も作られたという。なかでも
『団地妻シリーズ』が稼ぎ頭で、前述のヒット作『昼下がり……』には大好きな白川和子
(←ムスコがほんとにお世話になりました)も特別出演を果たしている。
ボクなんか白川和子と青春を共に生きた、という感じが今でもしている。
生前、Sさんは映画の話をあまりしたがらなかった。
(どんな映画を撮ってたんだろう?)
今はネットの時代である。その経歴を知りたければ、ちょいとググるだけですぐ分かる。
「ポルノ映画を撮ってました」とは正直、言いにくかったのかもしれない。
が、ボクなんかの世代は、まさにその日活ロマンポルノで育てられた世代なので、
何はばかることなく自慢してくれればよかったのに、と今さらながらに思う。
葬儀の場で、「実は故人はポルノ映画を専門に撮っておりまして……」
とは弟さんも言いにくかろう。また遺族の肩身も狭くなる。そんな慮りがあって、
「代表作は石原裕次郎主演の……」と無難な線にしたのだろう。
が、ボクとしてはちょっと寂しい気がしている。
ボクもフリーライターになりたての頃は、エッチな文章をいっぱい書いていた。
食わんがためである。ホテルの一室に裸のモデルといっしょに缶詰にされ、
「女の秘所――どこをさわれば感じるか」なんておバカな記事を
もっともらしく仕立てあげたこともある。
「シマナカさん、あんたの原稿は堅すぎて〝チ◎ポ〟が立たないんだよ」
などと月刊雑誌の編集長から叱られたこともある。どうやったらムスコたちを
猛り狂わせ、いかせるか――そこに操觚者(そうこしゃ)としての技術のすべてがあった。
あのポルノまがいの記事を書いていた一時期は、
果たしてボクの人生の〝汚点〟だろうか。そんなこと、考えたこともない。
筆一本で男も女もいかせてしまう――物書きにとって、
これこそが究極の芸というものだろう。汚点どころか勲章に決まってる。
ボクがカラスと壮絶な戦いを繰り広げていた時、Sさんはパチンコを撃つボクの姿を
見て、『カラスを撃つ男』という小品を作った、と言っていた。
その〝幻の作品〟がS家のどこかに眠っている。
心からの合掌。
←エロでもグロでも、頼まれれば何でも
書く、ダボハゼのようなゴーストライター
の汚ったない書斎(ごくごく一部です)がこれ。
先日、本の重みで書棚が裂けて砕けた。
← 北側のバルコニーから見える風景。
上部には2面あるテニスコートも。
夏には中央の〝せせらぎの道〟に
清流が流され、若い「団地妻」や子どもたち
の水遊び場に
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