ボクは生来無趣味な人間で、ゴルフも競馬も麻雀もパチンコもやらない。
散財といったら本代と酒代くらいしかなく、おかげでいつも半酔状態で本を開き、
活字を追っている。読んでる先から忘れてしまうのは、
たぶんマルコメ印の脳味噌までアルコール発酵しているせいだろう。
本は毎日のように買っている。駅前に本屋はあるにはあるが、ほしい本がないので、
たいがいアマゾンに注文してしまう。友人のOは「本は図書館から借りるものさ」
と豪語しているが、せっかちなボクは新刊をすぐに読みたいタチなので、
飲み代を削ってでも本を買ってしまう。
おかげで本は増えるばかり。
ときどき、数百冊単位で捨ててはいるが、とてもじゃないが追っつかない。
先日、ボクの椅子の後ろ側にある書棚の棚が突然ミシミシと音を立てて裂けた。
本の重みに耐えかねて、安価な合板の棚がみごと真っ二つに裂けてしまったのだ。
見れば、どの棚も本の重みでしなっている。裂けるのも時間の問題か。
書棚は部屋ごとに分散させているのだが、そのどれもがすでに満杯状態。
しかたがないので、納戸に押し込み、それらが溶岩のように堆積している。
その重みだけで床が抜けてしまいそうだ。
また毎月連載している雑誌が届けられるだけでなく、別に定期購読の月刊誌もあるので、
それこそ足の踏み場もないくらい本が溜まってしまう。買った本はすべてくまなく読んで
いるわけではない。雑誌などは流し読みだし、単行本だってつまらなければポイで、
本は最後まで読み切るべき、などというつまらない義務感はハナからない。
なぜ本を読むのか。「面白いから」に決まってる。
読書の習慣は小学生の頃からあって、以前も書いたが、小学高学年で、
すでに吉行淳之介の『砂の上の植物群』や『原色の街』などを読んでいた。
どちらもセックスだとか娼婦が出てくるエロっぽい本である。
若い頃は「日に4度のメシを食え!」などといわれる。
3度のコメの飯と〝活字のメシ〟である。
この活字メシを腹いっぱい食った経験のないものは、真の本好きにはなれないという。
ジャンルを決めずに手当たり次第に読むという濫読の時期をもたない人間は、
読書家としての背筋がシャンと伸びず、あっちフラフラ、こっちフラフラ、
まるで「泥(でい)」のような人間になってしまうというのだ。
読書の最大の喜びは、「読書尚友」という言葉があるように、
古今東西の賢人たちと親しく交われることに尽きよう。
本を開けば、居ながらにしてソクラテスやゲーテ、気難し屋のドストエフスキー、
あるいは親鸞や道元、司馬遼太郎や小林秀雄などと心を通じ合えるのだから、
これほど知的興奮を味わえるものはない。スリリングなこと、この上ない。
はなはだ不遜な言い方になるが、彼らの言葉はボクの周辺にうじゃうじゃいる生臭い
インテリたちのそれの数倍、いや数百倍も重みがある。それら先哲の教えを、
ほとんどタダ同然で拝聴できるのだから、こんな悦ばしいことはない。
「この世に読書以上の楽しみがあるのか?」とボクが再三憎まれ口を叩くのはそのためだ。
今はパソコンやタブレット、スマホなどで読む「電子書籍」の時代なのだという。
ずいぶん便利になったものだが、ボクのような〝古代人〟は指にツバをつけ
1枚1枚ページをめくって読むほうが断然サマになっている。
手の届く範囲に本が堆(うずたか)く積まれ、その本にはそれぞれいろんな
書き込みがある。文字どおり本の虫だって棲んでいて、虫干しをすれば
パッとそれらが舞い上がる。なんとも不衛生な環境だが、そんなババっちいところに
ひとり寝転がり、カビ臭い本の匂いを嗅ぐのが無上の喜びなのだからしかたがない。
生身のトモダチはもちろん必要だろう。が、なかにはナイーヴな奴もいるから気をつかう。
へたにホンネをぶつけたりすると深く傷つき、逆に恨まれたりするからだ。
その点、本の中のトモダチは気楽でいい。何を言っても怒らないし、ボクの成長に
合わせて対応を変えてくれる。竜馬の西郷評ではないが、「小さく叩けば小さく響き、
大きく叩けば大きく響く」といった具合だ。
ボクは「読書尚友」を心の砦としている。なぜならボクにもシェルターじみたものが
必要だからだ。見た目はごっついタフガイみたいに見えようが、
実はガラス細工みたいにナイーヴな心の持ち主なのである(←自分で言うな!)。
さて今夜は何を読もう。
目の前には『知の逆転』(NHK出版新書)なんていう本が転がってる。
ずいぶん前に買った本だが、なかなかの難物で、まだ半分も読んでいない。
なんとか食らいついていくことにしよう。
←チョムスキーなど現代の叡智が6人。
難物だが、読みごたえは十分だ。
女性インタビュアーの博識には脱帽だ。
散財といったら本代と酒代くらいしかなく、おかげでいつも半酔状態で本を開き、
活字を追っている。読んでる先から忘れてしまうのは、
たぶんマルコメ印の脳味噌までアルコール発酵しているせいだろう。
本は毎日のように買っている。駅前に本屋はあるにはあるが、ほしい本がないので、
たいがいアマゾンに注文してしまう。友人のOは「本は図書館から借りるものさ」
と豪語しているが、せっかちなボクは新刊をすぐに読みたいタチなので、
飲み代を削ってでも本を買ってしまう。
おかげで本は増えるばかり。
ときどき、数百冊単位で捨ててはいるが、とてもじゃないが追っつかない。
先日、ボクの椅子の後ろ側にある書棚の棚が突然ミシミシと音を立てて裂けた。
本の重みに耐えかねて、安価な合板の棚がみごと真っ二つに裂けてしまったのだ。
見れば、どの棚も本の重みでしなっている。裂けるのも時間の問題か。
書棚は部屋ごとに分散させているのだが、そのどれもがすでに満杯状態。
しかたがないので、納戸に押し込み、それらが溶岩のように堆積している。
その重みだけで床が抜けてしまいそうだ。
また毎月連載している雑誌が届けられるだけでなく、別に定期購読の月刊誌もあるので、
それこそ足の踏み場もないくらい本が溜まってしまう。買った本はすべてくまなく読んで
いるわけではない。雑誌などは流し読みだし、単行本だってつまらなければポイで、
本は最後まで読み切るべき、などというつまらない義務感はハナからない。
なぜ本を読むのか。「面白いから」に決まってる。
読書の習慣は小学生の頃からあって、以前も書いたが、小学高学年で、
すでに吉行淳之介の『砂の上の植物群』や『原色の街』などを読んでいた。
どちらもセックスだとか娼婦が出てくるエロっぽい本である。
若い頃は「日に4度のメシを食え!」などといわれる。
3度のコメの飯と〝活字のメシ〟である。
この活字メシを腹いっぱい食った経験のないものは、真の本好きにはなれないという。
ジャンルを決めずに手当たり次第に読むという濫読の時期をもたない人間は、
読書家としての背筋がシャンと伸びず、あっちフラフラ、こっちフラフラ、
まるで「泥(でい)」のような人間になってしまうというのだ。
読書の最大の喜びは、「読書尚友」という言葉があるように、
古今東西の賢人たちと親しく交われることに尽きよう。
本を開けば、居ながらにしてソクラテスやゲーテ、気難し屋のドストエフスキー、
あるいは親鸞や道元、司馬遼太郎や小林秀雄などと心を通じ合えるのだから、
これほど知的興奮を味わえるものはない。スリリングなこと、この上ない。
はなはだ不遜な言い方になるが、彼らの言葉はボクの周辺にうじゃうじゃいる生臭い
インテリたちのそれの数倍、いや数百倍も重みがある。それら先哲の教えを、
ほとんどタダ同然で拝聴できるのだから、こんな悦ばしいことはない。
「この世に読書以上の楽しみがあるのか?」とボクが再三憎まれ口を叩くのはそのためだ。
今はパソコンやタブレット、スマホなどで読む「電子書籍」の時代なのだという。
ずいぶん便利になったものだが、ボクのような〝古代人〟は指にツバをつけ
1枚1枚ページをめくって読むほうが断然サマになっている。
手の届く範囲に本が堆(うずたか)く積まれ、その本にはそれぞれいろんな
書き込みがある。文字どおり本の虫だって棲んでいて、虫干しをすれば
パッとそれらが舞い上がる。なんとも不衛生な環境だが、そんなババっちいところに
ひとり寝転がり、カビ臭い本の匂いを嗅ぐのが無上の喜びなのだからしかたがない。
生身のトモダチはもちろん必要だろう。が、なかにはナイーヴな奴もいるから気をつかう。
へたにホンネをぶつけたりすると深く傷つき、逆に恨まれたりするからだ。
その点、本の中のトモダチは気楽でいい。何を言っても怒らないし、ボクの成長に
合わせて対応を変えてくれる。竜馬の西郷評ではないが、「小さく叩けば小さく響き、
大きく叩けば大きく響く」といった具合だ。
ボクは「読書尚友」を心の砦としている。なぜならボクにもシェルターじみたものが
必要だからだ。見た目はごっついタフガイみたいに見えようが、
実はガラス細工みたいにナイーヴな心の持ち主なのである(←自分で言うな!)。
さて今夜は何を読もう。
目の前には『知の逆転』(NHK出版新書)なんていう本が転がってる。
ずいぶん前に買った本だが、なかなかの難物で、まだ半分も読んでいない。
なんとか食らいついていくことにしよう。
←チョムスキーなど現代の叡智が6人。
難物だが、読みごたえは十分だ。
女性インタビュアーの博識には脱帽だ。
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