わが家ではカミさんの言葉が絶対で、娘2人も〝カミの声〟として素直に聞き入れる。
「なに、その行儀のわるい食べ方は。米粒がいっぱい残ってるでしょ」
カミさんの叱声が飛ぶと、娘たち(とボク)は慌てて茶碗の米粒を箸でつまむ。
わが家には「米粒を一粒でも残すと目がつぶれる」という古い教えがいまだに生きている。
食前食後の「いただきます」「ごちそうさまでした」は英語などの外国語に翻訳しにくい、
とよくいわれるが、日本のアニメに英語の字幕がつく場合は、「いただきます」は
Thank youとかI'm eatingなどと訳されるという。
『吾輩は猫である』が『I Am a Cat』と訳されるのと同じようなもので、なんだかピンと来ない。
外国でのホームステイ経験のある娘たちに聞いても、食事のたびに祈りを捧げている家は
まれで、一般的には無言で食べ始め、食べ終わっても無言だという。
モンスターペアレントが新聞紙上をにぎわしていた頃、こんな〝事件〟があった。
「給食時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費は
ちゃんと払ってるんだから……」
そう学校に申し入れた母親がいたというのである。
この母親は「いただきます」という感謝の言葉が「学校」に向けたものだと思い込んでいる。
もちろんそれは間違いで、「いただきます」は「あなたの命をいただきます」の意だ。
人は生きるために動植物の殺生を余儀なくされる。われわれを生かすために死んでいって
くれた動植物に対して感謝の気持ちを表す言葉がこの「いただきます」で、キリスト教徒が
神に食事を感謝するのとは性質が異なっている。
米粒は一粒たりとも残さず食べろ、という古来からの教えは、もちろん生産してくれた
農家への感謝の気持ちもあるが、神聖なお米は神からの賜り物、とする古神道的な
価値観が大きい。「給食費を払ってるんだから」とする若い母親の出現は、現代日本人が、
食物に対する感謝の念をいかに失いかけているか、の証左ともいえる。
現在、「いただきます」「ごちそうさまでした」は手を合わせて唱えるだけの簡単なもの
でしかないが、昔(といってもずっとずっと昔だが)はちがった。物の本によれば、
本来は一拝一拍手の後に和歌を詠み、続けて「いただきます」もしくは
「ごちそうさまでした」と唱えるのが作法だったという。まさに風流そのものだが、
なかなかメシにありつけないとなると、せっかちなわが家の家風には馴染みそうにない。
ちなみに食前の和歌は、
たなつもの百(もも)の木草(きぐさ)も天照す日の大神のめぐみえてこそ
食後の和歌は、
朝よひに物くふごとに豊受(とようけ)の神のめぐみを思へ世の人
風雅の道を愛する皆さま、またご用とお急ぎでない方々は、
食前食後にぜひとも和歌を詠んでいただきたい。
たとえ目刺しと香の物だけの簡素な食事であっても、
きっと雅趣に富んだ正餐のように思えるでしょう。
「なに、その行儀のわるい食べ方は。米粒がいっぱい残ってるでしょ」
カミさんの叱声が飛ぶと、娘たち(とボク)は慌てて茶碗の米粒を箸でつまむ。
わが家には「米粒を一粒でも残すと目がつぶれる」という古い教えがいまだに生きている。
食前食後の「いただきます」「ごちそうさまでした」は英語などの外国語に翻訳しにくい、
とよくいわれるが、日本のアニメに英語の字幕がつく場合は、「いただきます」は
Thank youとかI'm eatingなどと訳されるという。
『吾輩は猫である』が『I Am a Cat』と訳されるのと同じようなもので、なんだかピンと来ない。
外国でのホームステイ経験のある娘たちに聞いても、食事のたびに祈りを捧げている家は
まれで、一般的には無言で食べ始め、食べ終わっても無言だという。
モンスターペアレントが新聞紙上をにぎわしていた頃、こんな〝事件〟があった。
「給食時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費は
ちゃんと払ってるんだから……」
そう学校に申し入れた母親がいたというのである。
この母親は「いただきます」という感謝の言葉が「学校」に向けたものだと思い込んでいる。
もちろんそれは間違いで、「いただきます」は「あなたの命をいただきます」の意だ。
人は生きるために動植物の殺生を余儀なくされる。われわれを生かすために死んでいって
くれた動植物に対して感謝の気持ちを表す言葉がこの「いただきます」で、キリスト教徒が
神に食事を感謝するのとは性質が異なっている。
米粒は一粒たりとも残さず食べろ、という古来からの教えは、もちろん生産してくれた
農家への感謝の気持ちもあるが、神聖なお米は神からの賜り物、とする古神道的な
価値観が大きい。「給食費を払ってるんだから」とする若い母親の出現は、現代日本人が、
食物に対する感謝の念をいかに失いかけているか、の証左ともいえる。
現在、「いただきます」「ごちそうさまでした」は手を合わせて唱えるだけの簡単なもの
でしかないが、昔(といってもずっとずっと昔だが)はちがった。物の本によれば、
本来は一拝一拍手の後に和歌を詠み、続けて「いただきます」もしくは
「ごちそうさまでした」と唱えるのが作法だったという。まさに風流そのものだが、
なかなかメシにありつけないとなると、せっかちなわが家の家風には馴染みそうにない。
ちなみに食前の和歌は、
たなつもの百(もも)の木草(きぐさ)も天照す日の大神のめぐみえてこそ
食後の和歌は、
朝よひに物くふごとに豊受(とようけ)の神のめぐみを思へ世の人
風雅の道を愛する皆さま、またご用とお急ぎでない方々は、
食前食後にぜひとも和歌を詠んでいただきたい。
たとえ目刺しと香の物だけの簡素な食事であっても、
きっと雅趣に富んだ正餐のように思えるでしょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿