2012年1月5日木曜日

神様と共に食ふ

欧米人は一般に餅が苦手と聞くが、人によりけりだろう。
晦日にわが家に来た「伊3人+英1人」の混成部隊は、
複雑な顔をしながらも「オイシイ」「オイシイ」と言いながら食べていた。
(こわもての主に気を遣っていたのかも)


きりたんぽ鍋といっても、わが家のそれはかなり変則的なもので、
自家製きりたんぽ以外に餅や、たまに韓国餅のトックを入れたりする。
今回は山形・鶴岡の友人からもらった丸餅を使った。

みんなで鍋をつつくというのは「共飲共食」の思想で、神道の大きな
バックボーンになっている考え方だ。そこには「神人共食」、
つまり神様と共に食事をするというニュアンスも込められている。

両端の細くなった利休箸は、人間が片方の端を使い、もう片方を神様が使う。
だから、鍋料理をみんなで食べている時に、
自分の箸をひっくり返して鍋をつつく行為は、本来やってはいけないことなのである。

「そのほうが衛生的だし、上品そうに思えるから」と、ついそんなふうに考えがちだが、
一方の端は神様用なのだから、むしろ礼を失した行為ということになる。

さて正月というとおせち料理にどうしても注目が集まりがちだが、
主役はあくまで雑煮である。雑煮は神人共食の象徴的な食べ物で、
雑煮を食べれば疫神を追い払い、開運がめぐってくる。
だから雑煮を食べる時には必ず利休箸を使う。

おせち料理は「常日頃、台所仕事に明け暮れている女衆をせめて
正月三が日だけでも休ませてあげたい」――そんな思いやりの心から
生まれた、と思い込んでいる人が多いが、大いなる勘違いだ。

大切な年神様をお迎えするための雑煮を煮る「火」であれば、
できるだけ穢したくない。雑煮以外の通常の煮炊きに神聖な火を使いたくない――。
そんな思いから煮炊きの要らない重詰めのおせち料理が生まれた。
正月というのは「火」と「水」のまつりごとなのだ。

今年も新しい一年が始まった。
どうせろくでもない生き方しかできまいが、
年頭に当たっての思い、というより生涯にわたっての思いを
芭蕉の一句に託してみた。

    やがて死ぬけしきは見えず蟬の声

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