ひとの性格は変わるものだ。
というより変えようと努力すれば、
努力したぶんだけ変わっていく。
ひとは弱さを見せまいと、強いフリをしたり必要以上に背伸びしたりする。
強がっているうちに、(まてよ、俺ってけっこう強いのかも)と自他共に錯覚し、
その錯覚が積み重なっていくうちに、
いつしかほんものの強さに近づいていくことがある。
ボクのことを社交的で、自己主張が強く、物怖じしない積極派人間だと
思っているひとがいる。ほとんど人見知りをせず、誰にでも声をかけるし
(電車内でも母はよく隣のひとに声をかけていた。いまは姉がその遺伝子を
引き継ぎ、あちこちで気味悪がられている)、物言いに遠慮がなく、
ひとたびマイクを握ると離さなかったりするからだろう。
それらはすべて死んだ母のDNAだと思うのだが、
昔のボクを知っている人間は、まったくの別人と思うかもしれない。
小中高校時代のボクは、引っ込み思案の非社交的人間だった。
もちろん友達など皆無で、口数少なく、極端にシャイな性格のためか、
いつもうつむきがちで、対人・赤面恐怖症の典型だった。
いまでもコアの部分では変わっておらず、時々あの頃のボクが
顔を出したりして友人たちを戸惑わせることがあるが、
一種の持病なので、いまは「ありのままでいい」と体裁など繕わず、
為るがままにまかせている。
個性の強い人間はひとから好かれる率が低いと云われる。
なるほどボクには友達は少ないが、最近は「何の不足があろう」
と半分開き直ってもいる。肘をとって共に語り合う友人は
少数のほうがいいのだ。
不羈狷介の性格は時に累(わずらい)をなすだろうが、
それもわが個性なのだと、いまはすっかり折り合いをつけている。
還暦を前にして、前半の〝訥弁時代〟と後半の〝能弁時代〟
との帳尻が合い、ようやく振り出しに戻ったみたいだ。
60年生きてきて体得しえた教訓は、実に凡庸そのもの。
あるがままでいい。
そのまんまがいい。
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