2010年11月30日火曜日

人生は短い

僕はどっちかというと好悪のはげしい人間で、
たとえば「ノムさん」などと呼ばれている野村克也がきらいである。
陰気で、ひがみっぽくて、ひねくれている。
あの薄笑いをうかべ、ぶつぶつとボヤいている姿を見ると、
ゲジゲジをさわった時みたいに肌が粟立ってくる。

王・長島ほどには日が当たらず、地味な苦労人を
売り物にしてきた男だが、ひがみ根性が人品を卑しくしている
ところがきらいなのだ。それにあの鈍牛のような物腰。
小江戸っ子の僕(川越生まれなんです)の目には、
なんとも田舎くさい男に映るのである。

ドラゴンズ監督の落合博満も同類だろうか。
しんねりむっつりしていて、何を考えているのかわからず、
うすっ気味がわるい。

ならば陽気がいいかというと、そういうわけではない。
唾を飛ばしながらぺらぺらとヨタ話をたれ流す、
紳助やさんまのような軽薄才子を見ると、あの細っ首を絞めてやりたくなる。

作家にも好ききらいがある。
たとえば名文家といわれる幸田文はどうも苦手で、
塩野七生や森茉莉、須賀敦子なども肌が合わない。
須賀などは透明感のある流麗な文章で、まるで印象派の絵を
眺めているような風情を感じさせるのだが、
どういうわけかしっくり馴染めないのである。

塩野の『ローマ人の物語』などは傑作の誉れが高く、
歴史好きの僕としてはなんとしてでも読み通したいのだが、
いつも中途で挫折する。文体が合わないのだ。

たまたま女流作家ばかりになってしまったが、
佐藤愛子や田辺聖子、斎藤美奈子といった面々は
大のお気に入りで、アイコ先生の威勢のいい啖呵や
お聖さんの歯切れのいい大阪弁には、
毎度のことながら感服する。

要は男っぽい女流が好きで、女っぽい男流が苦手なのか?
物事に対する好悪というものは、どうも理屈ではなさそうで、
肌合いといった微妙な感覚の世界なのかもしれない。

人間関係も同じで、「どうもあの人は苦手で……」というのは、
たいがい理屈を超えたフィーリングの世界で、
こっちが苦手意識をもっていると、まちがいなく相手も
苦手に思っている。

「敬遠」は『論語』から出たコトバで、
苦手な相手は敬して遠ざけろ、の意だ。
僕だってもう若くはない。カウントダウンが始まっているのに、
イヤな相手とつき合っているヒマなどない。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

私も野克也・落合博満も好きになれません。
スポーツ選手の爽快さに欠けている事、人をフンと見下すような態度が嫌です。最近亡くなられた大沢親分に”喝”と叱って欲しかった。

女流作家に馴染みが有りませんので好きも・嫌いも無いのですが、数年前に外務省を退官した友人に塩野七生の”海の都の物語、ヴェネツィア共和国の1千年”を読めと勧められ即購入したのですが積読している始末。小国が外交術を駆使して生き延びて来た事が良くわかるとの事。私が読むより菅首相に読んで貰った方が良さそうだとうそぶいています。

カウント・ダウンをもそっと英語風に言うとMy life is numberedと言う事ですが、正に嫌いな物・者を無理に好きにならなくても良いはずで”敬遠”が一番の処世術かも!

でも若者には言っているのですよ。”鏡に
写っている自分を鏡の外の自分にお辞儀させるにはどうしたら良いか?鏡の外のお前が
最初にお辞儀すれば、鏡の中のお前もお辞儀し返す”と。嫌いな人がいたら、自分から近ずけと言う事で、田舎の中学生の時に東京の
偉い先生が話してくれた言葉です。その通りで生きて来た積りですが、もう”敬遠”が
良いな.....

ROU.SHIMANAKA さんのコメント...

匿名様
おっしゃるとおり、きらいな人でも
こちらから近づけば、意外や
別の面を発見できる、ということは
ありますね。

そういう試みは、すでにお腹が
一杯になるくらいやってきました。

で、その結果があの結論なんです。
ピーマンがきらいな子に
むりやり食べさせる意味があるのか。
他の野菜が腐るほどあるのに……。

僕は水平的なrelationshipより
垂直的それを求めているんだと思います。