先日わが家に泊まった〝山寺の和尚さん〟は、食事の前後に合掌していた。
TVドラマの食事風景で、テーブルを囲んだ者たちがよく「いっただきま~す」
と揃って合掌するシーンがあるが、合掌をしないわが家では、こうした光景に
いつもある種の違和というか、しっくりしないものを感じていた。
ところが新潟から上京した友人の住職A(浄土真宗)が合掌すると、
サマになるというか(当たり前か)、実にしっくりきたのである。
僕は生まれて初めて、(合掌というのもいいもんだな)と思った。
しかし、食事の前後に合掌するかしないかは習慣の問題で、
僕も女房も生まれてこの方、ずっと「非合掌派」なもので、
いきなり掌を合わせろと云われても、そう簡単にできるものではない。
わが家の流儀は「いただきます」「ごちそうさま」と唱和しながら
軽く頭を下げるというもの。この先も、たぶん「非合掌派」のままでいくだろうが、
「合掌派」への違和感といったものはだいぶ薄らいだ。
仏教学者の山折哲雄は、
《人間の食事というのは、自動車にガソリンを入れるのとは訳が違う。
自分を生かすためにほかの生き物を殺して食うという、何ともしがたい
「原罪」を背負った行為だ》と前置きし、だからこそ食われる命に対して、
「いただきます」「ごちそうさま」といわなければ何となく気持ちが落ち着かない。
《ならば、そこでしっかり合掌して感謝の気持ちをあらわしたほうが、
心が落ち着くというものではないか》と言っている。
たしかに僕もそう思う。でもわが家は合掌ではなく「おじぎ」。
「原罪」というほどのものは、正直、少しも感じていないが、
食卓に供されたすべての命に対しては、素直に感謝したいと思っている。
で、殺生をできるだけ避けようと、道を歩く際には、アリなどを踏まないように
細心の注意を払って歩いているのだが(芥川の『蜘蛛の糸』が頭にある)、
たびたび足がこんがらかってよろけてしまうのは、齢のせいだろうか。
もちろんこんなものは安物の偽善で、神様仏様に対するせこい点数稼ぎに
過ぎないが、それでも殺生は最小限にとどめたいと思っている。
これからは「ぎゃー、ゴ、ゴキが出たぁ!」と台所で女房が金切り声を上げても、
「ゴキとて家に帰れば妻や子もあろう。すべての生き物を慈しむべきです」
などとお釈迦様みたいに静かに合掌していよう。←ウソ、すぐぶっ叩く。
南無阿弥陀仏。
2 件のコメント:
労さん:一度出張の際に取引先の社長宅に
泊めさせて貰ったことがあります。 夕食の
時に家族全員がテーブルの下で手を繋ぎ合って家長の社長が"gracer"というお祈りを
唱えました。カソリックなのかプロテスタントなのか覚えていませんが”糧”を与えて呉れた神様にお礼を述べていたのだと思います。中々良いなと思いました。うちの田舎ではお百姓さんに感謝の意を表し合掌していました。”一粒たりとも食べ残すな”と言う
事なんでしょうね。
匿名様
そう、こどもの頃、よく母から「お百姓さんが丹精込めて作ったんだから、ごはん粒は一粒たりとも残すんじゃないよ」なんて言われましたね。わが家じゃ、今でも女房に言われてます。僕が「ごちそうさまでした」というと、女房は僕の飯茶碗をジロ~リ。ごはん粒が残っていたりすると、娘たちがいる前で、説教を始めます。「お父さんはいつもこうなんだから、ホントにもう……」。
神様でもお百姓様でも、何事かに感謝してその日の糧をいただくのはいいことですね。
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