能や狂言といったものは動きが単純でリズムもゆるやかだ。
若い人の目には、テンポが遅すぎて退屈に映るにちがいない。
ところがテレビ番組の中で、能役者が静かに舞台に立っているときの脈拍数を
測ったところ、なんと最高250を超えていたという。静かな表現の裏に、
凝縮されたエネルギーが秘められていたのである。
「人は見かけによらぬもの」などという。外国にも似たような諺がいっぱいあって、
たとえば、Appearances are deceptive.直訳すると「外見は人をだます」というのがあるし、
The handsomest flower is not the sweetest.「もっとも美しい花がもっとも香りがよいとは
かぎらない」などというのもある。
「君には軟弱に見えるかもしれないけど、ほんとうの自分はそうじゃない。
君が見てるのはボクの中のほんの一部さ」
などと力んでみせる人がいる。真の自分は見えないところに隠れている、
と言いたいわけだ。ほんとうだろうか?
士大夫三日書を読まざれば、理義胸中にまじわらず、面貌憎むべく、
言葉に味がない、などといわれる。支那の某君子は酒席の作法をたてて、
面つきの悪いやつ、言葉づかいのいけぞんざいなやつは寄せつけなかったという。
福田恆存はこんなふうに言っている。
《個人の魅力について多くのひとが誤解しやすい点は、人間の外形と内面とは別物だ
と考えたがることです。外形と内面、いいかえれば肉体と精神、あるいは人相と人柄、
この二つのものは別物であるどころか、じつは心にくいほど一致しております。人相を
見れば、その人柄は大体わかります。そういうものなのです》(『私の幸福論』)
福田はつづけて、
《私たちは他人と接触するばあい、なによりも自分の美意識と感覚とを頼りに
しなければならぬし、同時に、自分というものが、他人の眼に、その外形を
通じてしか受け入れられぬということも覚悟していなければなりません。私自身、
ひとにたいする好悪を決めるのに、いままでつねに人相に頼ってまいりました。
それでまちがったことは一度もありません》(同上)
白洲正子の師匠筋に当たる装幀家の青山二郎も、
《人間でも、陶器でも、たしかに魂は見えないところにかくれているが、
もしほんとうに存在するものならば、それは外側の形の上に現れずにはおかない》
(白洲正子著『いまなぜ青山二郎なのか』)と、「内面=外面」と説いている。
小林秀雄の盟友だった青山二郎は真正のリアリストだった。
書画骨董の目利きでもあった青山にはメタフィジカルな想念など皆無だった。
見たもの、さわったものだけを信ずるリアリストの眼がなければ、
およそ目利きなどつとまるわけがない。
ここに一個の茶碗がある。茶碗は外形と内面とが緊密に一致している。
そこには形だけしかない。形はいいが内容がつまらぬとか、形はまずいが
内容がいいとか、そういうバカなことはあり得ない。形がすべてだからだ。
人間も同じで、心貧しければ外形も貧しい。見かけがすべてなのである。
テレビのCMなどにはアンチエイジングの化粧品やサプリメントのコマーシャルが
目白押しだ。いくら高級化粧品を塗りたくっても、いくらシワ伸ばしに精を出しても、
画面に映る〝美魔女〟たちの外形から垣間見える心の風景は空虚そのものだ。
まるで寒風吹きすさぶ荒野を見ているかのようである。
韓国人じゃあるまいし、「外華内貧」の押し売りは御免蒙りたい。
化粧の濃さと知性は反比例するというが、
ほんとうに美しくなりたかったら、まずは内面を磨くことだろう。
内面の美しさは必ずや外形(外面)に照り返す。
どうやって?
書を読み、ひたすら詩酒徴逐(ししゅちょうちく)の日々を送ることだ。
これこそが唯一絶対の美容術の秘薬なのである
(←ぐうたらな酒飲みの自己弁護に聞こえるんだけど……プップッ)。
←青山二郎(右)と小林秀雄。
骨董店「壺中居」にて(昭和25年)
若い人の目には、テンポが遅すぎて退屈に映るにちがいない。
ところがテレビ番組の中で、能役者が静かに舞台に立っているときの脈拍数を
測ったところ、なんと最高250を超えていたという。静かな表現の裏に、
凝縮されたエネルギーが秘められていたのである。
「人は見かけによらぬもの」などという。外国にも似たような諺がいっぱいあって、
たとえば、Appearances are deceptive.直訳すると「外見は人をだます」というのがあるし、
The handsomest flower is not the sweetest.「もっとも美しい花がもっとも香りがよいとは
かぎらない」などというのもある。
「君には軟弱に見えるかもしれないけど、ほんとうの自分はそうじゃない。
君が見てるのはボクの中のほんの一部さ」
などと力んでみせる人がいる。真の自分は見えないところに隠れている、
と言いたいわけだ。ほんとうだろうか?
士大夫三日書を読まざれば、理義胸中にまじわらず、面貌憎むべく、
言葉に味がない、などといわれる。支那の某君子は酒席の作法をたてて、
面つきの悪いやつ、言葉づかいのいけぞんざいなやつは寄せつけなかったという。
福田恆存はこんなふうに言っている。
《個人の魅力について多くのひとが誤解しやすい点は、人間の外形と内面とは別物だ
と考えたがることです。外形と内面、いいかえれば肉体と精神、あるいは人相と人柄、
この二つのものは別物であるどころか、じつは心にくいほど一致しております。人相を
見れば、その人柄は大体わかります。そういうものなのです》(『私の幸福論』)
福田はつづけて、
《私たちは他人と接触するばあい、なによりも自分の美意識と感覚とを頼りに
しなければならぬし、同時に、自分というものが、他人の眼に、その外形を
通じてしか受け入れられぬということも覚悟していなければなりません。私自身、
ひとにたいする好悪を決めるのに、いままでつねに人相に頼ってまいりました。
それでまちがったことは一度もありません》(同上)
白洲正子の師匠筋に当たる装幀家の青山二郎も、
《人間でも、陶器でも、たしかに魂は見えないところにかくれているが、
もしほんとうに存在するものならば、それは外側の形の上に現れずにはおかない》
(白洲正子著『いまなぜ青山二郎なのか』)と、「内面=外面」と説いている。
小林秀雄の盟友だった青山二郎は真正のリアリストだった。
書画骨董の目利きでもあった青山にはメタフィジカルな想念など皆無だった。
見たもの、さわったものだけを信ずるリアリストの眼がなければ、
およそ目利きなどつとまるわけがない。
ここに一個の茶碗がある。茶碗は外形と内面とが緊密に一致している。
そこには形だけしかない。形はいいが内容がつまらぬとか、形はまずいが
内容がいいとか、そういうバカなことはあり得ない。形がすべてだからだ。
人間も同じで、心貧しければ外形も貧しい。見かけがすべてなのである。
テレビのCMなどにはアンチエイジングの化粧品やサプリメントのコマーシャルが
目白押しだ。いくら高級化粧品を塗りたくっても、いくらシワ伸ばしに精を出しても、
画面に映る〝美魔女〟たちの外形から垣間見える心の風景は空虚そのものだ。
まるで寒風吹きすさぶ荒野を見ているかのようである。
韓国人じゃあるまいし、「外華内貧」の押し売りは御免蒙りたい。
化粧の濃さと知性は反比例するというが、
ほんとうに美しくなりたかったら、まずは内面を磨くことだろう。
内面の美しさは必ずや外形(外面)に照り返す。
どうやって?
書を読み、ひたすら詩酒徴逐(ししゅちょうちく)の日々を送ることだ。
これこそが唯一絶対の美容術の秘薬なのである
(←ぐうたらな酒飲みの自己弁護に聞こえるんだけど……プップッ)。
←青山二郎(右)と小林秀雄。
骨董店「壺中居」にて(昭和25年)
2 件のコメント:
嶋中 労さま
不細工でもセクシーな男女はいますよね。
先入観かもしれませんが、
美魔女は痛さを伴ってしまうのが辛いです。
ある意味滑稽、、、、、だよね。(プププ)
晩年の青山二郎さまも、
地方の骨董屋などで買った陶器をガスレンジで焼いて古色(化粧した)を出したとか。
ルックスは大事だよん。
先日空港で見たコリアンエアのアテンダント連の美しいコトよ。
まぁ噂通りの空飛ぶキーセンだわ。
でも世間で言われる通り皆おんなじ顔だよ。
(不味かったら消してネ)
労さんのルックスは中年(熟年)男子の理想だよね。
匿名様
こんにちは。
いまキャッチボールをやって帰ってきた
ところ。
膝痛で悩んでいたけど、筋トレのおかげで、
だいぶ太ももに筋肉がついてきた。
膝関節症に効く運動療法は大腿四頭筋に
お肉をつけることなんです。
速球も戻りつつあります。
スポーツって最高!
さて、匿名さんもご存知の青山二郎は
完全無欠なものを排斥しました。
わざわざ金箔で描いた陶器の金を剥がしたりして、その剥げっぷりを自慢してみせました。
日本人の美意識って面白いよね。
匿名さんのルックスもなかなかのものだよ。
お腹のルックスも立派だけど……プッ。
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