2011年9月20日火曜日

友よ、健やかであれ

「人の話をまったく聞かない人だね」が、女房の亭主評である。
「同じ質問を何度もしないでよ。それはおととい話したでしょ」
そう言われても、記憶にないのだからしかたがない。
話を聞いてない、というより聞いた話をすぐ忘れてしまう。

この10年で健忘症が一気に進行してしまったようだ。
これでもジャーナリストのはしくれだから、同じ質問を
数分後にくり返していると知った時、目の前が少し暗くなった。
「そのことは……たしか先ほどお話ししましたよね」
取材相手の呆れた顔。なんともバツが悪い。

ひとは齢を取ると記憶力が減退するだけでなく、
ますます自分中心になるという。他人の話に興味を示さず、
自分のことばかりしゃべりたがる。

カラオケボックスなどでよく見られる光景と根っこは同じである。
友人たちが歌い終われば盛大な拍手を送りはするが、
あれは儀礼的、もしくは「自分の番の時はヨロシクね」
と保険をかけているようなもので、歌なんてろくすっぽ
聴いちゃァいない。聞くふりをしながら歌詞集をせっせとめくり、
次に歌う唄を必死になって探している。

年寄り同士の会話もそれに似ている。聞いているふりはしているが、
相手の話なんか実はどうでもよくて、片っぽうの話が一段落するや、
「今度は私の番よね」とばかりに勢いこんで話し出す。
話の中身は子や孫の自慢話ばかりである。

Aが孫自慢を始めると、Bも負けじとまくしたてる。
またAがCという友人のことを褒めようものなら、
Bは必ずいやな顔をする。ひとは年齢を閲するにつれて
嫉妬深くなるのか、たとえ他人であっても、自分への称讃
以外はおもしろくないのである。

こんな光景を法事の席などでもたびたび目にしてきた。
結局、人間というのは「自分」がいちばん可愛くて、
「自分」にしか興味がなくて、「自分」のしてきたことを
口にしているかぎり、話題が果てしなく続く、
ということなのだろうか。


18日(日)の午後、中学時代の合同同窓会(3年1~6組)が川越で開かれた。
ボクはつむじ曲がりだから例のごとく欠席したが、
ずいぶん盛会だったようで何よりである。
半世紀ぶりに会う友はどんな顔をしているのだろう。
はたして名前が思い出せるだろうか。

5年後に再会を約して散会になったと聞いている。
会いたい気持ちと、それを否定する気持ちがせめぎ合う。
すでに鬼籍に入ってしまった友もいる。明日はわが身か。
今はせめて「友よ、健やかであれ」と願うばかりだ。

写真は川越第一中学校・第20回(昭和42年卒)合同同窓会・3年2組の面々
/ネット上に開設された写真館より無断拝借。中央3人が我らが恩師で、
左から体育担当の灰野、理科の高橋、英語の大塚の各先生だ。
灰野先生にはよく尻を蹴っ飛ばされたものだが(男子生徒だけです)、
なんかヨボヨボの好々爺になっちゃったみたいで、哀しい。
不肖の一生徒より愛をこめて――先生方、いつまでもお元気で。














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