♪ コッ、コッ、コッ、コッ、コケッコー
コッ、コッ、コッ、コッ、コケッコー
わたしはミネソタの卵売り……(暁テル子『ミネソタの卵売り』)
ボクがちょうど生まれた頃、こんな奇妙奇天烈な歌が流行っていた。
《個っ、個っ、個っ、個っ、個けっこう》とばかりに、
アメリカ譲りの「個人主義」をいたずらに賛美し続けた、
と宗教学者の山折哲雄氏が言っている。
しかし「個の自立」などしょせん掛け声倒れで、
とどのつまりは、中身の薄っぺらで空疎な個人が
工業製品のように大量に生み出されただけだった。
日本には古来から、高い文化と道徳観が育っていた。
individualityと云ったって、ヨーロッパ近代が生み出した皮相浅薄な
概念でしかなく、たかだか300年程度の歴史しか持ちあわせていない。
西欧社会にあってはキリスト教の教えが道徳規範の根本だが、
モーセの十戒にしろ山上の垂訓にしろ、大仰に説かれている中身は、
なんともおどろおどろしいものばかりだ。曰く、「汝の父母を敬え」「殺すなかれ」「姦淫するなかれ」
「盗むなかれ」「だますなかれ」etc……。
「殺すな、犯すな、盗むな、だますな……」
言いまわしがあまりに直截すぎて、説かれる側にすれば、
蛮人かケダモノになったような気がしてくる。
この程度のことなら、わざわざもったいぶって教えられなくても、
日本人ならとっくの昔にわきまえている。
どれも人の道として当然のことばかりだからだ。
さて、下に掲げたのは進歩的文化人たちに悪評ふんぷんたる
『教育勅語』の一部だ。能書きはいい。
まずは色メガネをかけずに、朗々と音読してもらいたい。
《父母に孝に兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、
恭儉(きょうけん)己(おの)れを持し、博愛衆に及ぼし、
學を修め業を習い以て智能を啓發(けいはつ)し、
徳器(とっき)を成就し、進で公益を廣(ひろ)め、
世務を開き、常に國憲を重んじ、國法に遵(したが)い、
一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壤無窮(てんじょうむきゅう)
の皇運を扶翼(ふよく)すべし》
モーセの十戒と比べてみてくれ。
ケダモノたちに向かって説かれた訓戒との違いがわかるだろう。
これだけ高次の精神性を備えた道徳律が他にあるだろうか。
なかには「義勇公に奉じ」とか「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」
などという文句がお気に召さない人もあるだろう。いや、
そもそも天皇から下し賜るという意の「勅語」からして気に入らん、
というものもあるかもしれない。
でもボクはそんなもの、たいした瑕瑾(きず)だとは思わない。
左翼進歩主義者たちはいつだって、バカの一つ覚えみたいに
皇国史観や軍国主義と結びつけたがるのだ。
皇国史観や軍国主義と結びつけたがるのだ。
旧弊な教育勅語を復活させろ、とは云わない。
21世紀の日本人にふさわしい新たな『教育勅語』を創れ、
と言いたいのだ。それもできれば高雅な筆致の文語文で。
と言いたいのだ。それもできれば高雅な筆致の文語文で。
そしてその新生・教育勅語を毎朝、子供たちに唱和させるのだ。
そうすれば日本はきっと変わる。
ケダモノにももとるデレッとした若者たちの顔つきが一変し、
背筋もピンと伸びるだろう。
4 件のコメント:
勞さん:
21世紀の日本人にふさわしい新たな”教育勅語”を新生し、毎朝子供達に唱和させるのご意見に大賛成です。
過去に投稿させて貰ったアメリカの”国旗への
忠誠”を思いだしました。今まで数度改訂されているようで現在は:
私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、忠誠を
誓います。
毎朝クラスが始まる前に子供たちに唱和させる
小学校が在ると聞き、羨ましいと思っています。
匿名様
その昔、娘の父母会で、
「子供の前では、父親をこきおろしたり、
教師の悪口は言わないほうがいい」
と発言した。
というのはその日、中学校の廊下で、
若い教師が男子生徒数人にヘッドロック
をかけられ、頭をペンペン叩かれながら、
「おまえも新米だから
苦労が絶えないよな」
と小バカにされていたからだ。
ボクはまさにその恐るべき光景を
目の当たりにしてしまったのである。
で、教師はというと、
口元に卑屈な笑いを浮かべているだけで
抵抗らしきことは何もしない。
ボクは先生生徒もろとも怒鳴りつけて
やろうと思ったほどです。
そのことを父母会で言ったら、
「いじめなどではなく、
一種の愛情表現じゃないですか」
などとノーテンキな発言をする
母親がいた。
で、ボクは冒頭の発言をおこなったわけです。
数日後、
「あのご主人は右翼の人らしいわよ」
という噂が電光のように駆けめぐった。
先生を敬え、と言っただけで
この国では右翼にされてしまいます。
「教育勅語」を復活させろ、などと
言うものなら、言論界からは
確実に抹殺されます。
関係ないけどね、そんなもん。
4年ほど前の参議院選挙中、駅頭で、「平成版教育勅語」という発言をした埼玉県選挙区の候補者は、「民主党」という名のキョーサントーのような候補にそこを突かれまくり、結果惜敗しました。まあ、私と懇意にしているような人物ですから碌な人間で無かったことは否めないでしょうが・・・(嶋中"某"氏もその同類と推察しておりますが・・・)
先日、柔道の昇級審査会の役員として、「礼法」に関して受審者に説明をした後、いきなりPTAと思しきお方に声を掛けられました。「『礼法』なんて必要ないのになんであんなに細かく説明しているんですか?ウチの子供はこの後塾に行かなくちゃいけないんです。時間の無駄ですから『あんなこと』はやめて下さい」だそうで・・・陰険且つ矮小な私は、「お名前は?」と問うて、その受審生を担当する審判員に「この受審生に関し、特に礼法に注意して審査するように」と申し付けましたが、後で担当審判員より「言われなくても『どうしようもない』態度でした。」と報告を受けました。
嗚呼、この国の行く末を憂う・・・
と言いつつ、「平成版教育勅語」(「勅語」と言うとキョーサントー及びそのケツ持ちメディアに潰されるので「教育基本指針」とでも名付けようか・・と検討中ですが)に関しましては、只今、仲間内で素案を製作中。なんとか国会で審議させようと画策中です。
尚、5年前に書いた駄文ですが、http://d.hatena.ne.jp/tonakai7/20060708 をご参照いただければ幸いです。
お茶の胡塞齋様
箸の持ち方なんてどうだっていい。
食べられさえすれば……
戦後、こうした考え方がはびこりました。
「結果オーライ」というもので、
結果さえよければ途中経過など
どうでもよろしい、という
効率至上主義的な考え方です。
こうなると襖の開けたても
足でやる子が出てくるかもしれません。
現に出ています。
両膝をついて、両手で開けるなんて
美しい所作は、遠からず忘れ去られて
しまうでしょう。
「食べる」「開ける」の一点だけを
合目的に追求していったら、「礼」も
へちまもありません。
食べる、開けるという行為にまつわる
すべてがセットになって初めて「文化」
なのです。
悲しい日本人が増えてきましたね。
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