2011年6月20日月曜日

花に嵐のたとえあり

五木寛之は「人は大河の一滴」と規定した。
人間は小さな一滴の水滴にすぎないが、
それが大きな水の流れを形づくる。

そして私たちは、それぞれの一生という水滴の旅を終え、
海に還る。母なる海に抱かれながら、
やがて生命の源である太陽に熱せられて天に昇り、
そしていつの日か、再び地上へ降りそそぐ。

君に勧む 金屈巵(きんくつし)
満酌 辞するを須(もち)いず
花発(ひら)いて風雨多し
人生 別離足る


上記の詩は晩唐の詩人・于武陵の『勧酒』の結句である。
これを井伏鱒二が訳すとこうなる。

この盃を受けてくれ
どうぞなみなみつがしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ

会者定離、愛別離苦……。
人はただ一人の例外もなく「生老病死」
の苦悩から逃れることはできない。

凡夫匹夫にとってはそのことがつらく堪えられず、
つい酒瓶に手がのびてしまう。
親鸞曰く「酒はこれ忘憂の名あり」と。

来る7月7日の七夕に、めでたや卒寿を迎えるはずの母が
いま、無機的な病院の一室で生死の境をさまよっている。
呼びかけても応えず、病室では子や孫らが
最後の別れを惜しむべく、じっと見守っている。

酸素マスクをつけ、瞼を閉じた、
気息奄々の母を見るのは悲しい。
だれもが必ず通る道、と知りつつも、
いざとなると現実をなかなか受け入れられない。


この数日、酒ばかり飲んでいる。
安酒のためか忘憂効果絶えてなし。


0 件のコメント: