先日、ラジオに出演した。といっても団地内の小さなラジオ局で、
自治会・放送委員のTさんから、
「嶋中さんは団地の中にも友だちがいっぱいいらっしゃる。会社をリタイアしたおじさん
たちに向けて、友だちの作り方の極意みたいなものをご披露いただけませんか?」
と依頼されたもので、快くOKした。
Tさんはだいぶ買いかぶっているが、ボクは格別友だちが多いわけではない。
ただし知り合いはいっぱいいる。friend(友だち)とacquaintance(知り合い)は
違うのである。
ボクの友だちは飲んべえばかりで、人はいいが、ほとんどみなロクデナシ野郎
といっていい(←おまえが一番だろ!)。知り合いはオバサンかオバアサンが多く、
オジサンとオジイサンは意識的に避けている。特に会社をリタイアしたばかりの彼らは、
気むずかしい人が多く、話すのがめんどうだから、こっちからはできるだけ近づかない
ようにしているのだ。
司馬遼太郎のエッセイ『風塵抄2』の中に「窓を閉めた顔」という小文がある。
司馬は言う。中国人の顔はリラックスしていて、どなたもご自由にお入りください、
というように「顔の窓」が開いているが、日本人はそうじゃない。いつだって窓や
シャッターが閉められていて、概ね気むずかしそうな仏頂面をしている、と……。
ボクはまずこの話を引用し、団地内のオジサンやオジイサンも同じように「顔の窓」
を閉め切っている、というような話から切り出した。それでは友だちも知り合いも
できませんよと。
ボクは長らく〝主夫〟を兼業しているので、ダイコンやネギをぶら下げたまま、
よく知り合いのオバサンたちと立ち話をする。最初はぎこちなかったが、30年も
やっているとすっかり板につき、今やすっかりオバサンになっている。
ボクはラジオで、
「オジサンはすべからくオバサン化すべし」
と訴えた。ボクの細胞はたぶん80%くらいはオバサン化していて、
そのうち完全に性転換できそうなあんばいなのだが、友だち作りの要諦は、
まさにこの「オバサン化」なのである。
〝社畜〟として長く会社に飼い慣らされてしまうと、定年となってリタイアしても、
自分の住む町の地域社会になかなか溶け込めない。同僚以外とは話したことが
ないから、隣家の奥さんともまともに口がきけない人が多いのだ。つまりは社会性
がまるでない。つぶしがきかないから、ただ仏頂面をするしかない。リタイア後の
オジサンは実に扱いにくいのである。
原因はいろいろあるが、学歴だの履歴だのといった輝かしい過去の栄光が
ジャマしている場合が多い。どこそこの大学を出ただとか、一流企業の部長職に
あっただとか、そんな経歴は裸一貫になってしまったオジサンには何の関係もない。
むしろそれが足枷となって、フランクな人間関係を築けない。
かつては部下を数十人抱え、億単位の商談をまとめたこともあるだろう。
社の内外で〝切れ者〟と噂されたこともあったかもしれない。
でもね、隠居生活の中で、そのことがいったい何の役に立つっていうの?
ボクは彼らのことを「むかし偉かったオジサン」と半ばからかい気味に
呼んでいるのだけれど、そういう誇り高きオジサンたちがやたらと多いのである。
特にこの団地内には佃煮にしたいくらいウジャウジャいて、正直、ウンザリする。
その点、オバサンたちはいい。話の中身はほとんどたわいのないものばかりで、
人生の指針になるような話は皆無ではあるけれど、オジサンみたいに変に偉ぶったり、
卑屈になったりしないところがいい。子供自慢や孫自慢だって最初は鼻についたが、
最近はふつうに聞けるようになった。いよいよ100%オバサンになる日も近いな、
と予感させる今日この頃なのである。
団地総会などでは六法全書を片手に熱弁をふるうオジサンもいたりして、
つい涙を誘われてしまうのだが、あのような場で一席ぶって、存在を知らしめることが
自己実現の道だとたぶん勘違いしているのだろう。
(あんたは、むかしは偉かったのかもしれないけど、リタイアした今となりゃ、
誰も畏れ入ったりはしませんよ。だいいち、俺たちはあんたの家来じゃないもの)
ボクは心の中でそう叫んでいるのだけれど、オジサンは我関せずといった風で、
人の迷惑も顧みず、滔々と長広舌をふるっている。
何度でも言おう。みんなに愛されたかったら、輝かしい学歴も履歴もすべて捨て、
裸一貫のキャラクターだけで勝負することだ。まちがっても「□△☆商事・元営業本部長」
などというマヌケな名刺は出さないこと。〝元〟という一字に万感の思いをこめている
つもりだろうが、笑われるのがオチだから、やめたほうがいい。
オジサンはすべからく〝オバサン化〟すべし。
幸せになる道はそれしかない。プッ……
←わが団地には気むずかしい
オジサンたちがいっぱいいる。
彼らは奥方からも神からも
見はなされている。
ああ、かわいそうなオジサンたち……
自治会・放送委員のTさんから、
「嶋中さんは団地の中にも友だちがいっぱいいらっしゃる。会社をリタイアしたおじさん
たちに向けて、友だちの作り方の極意みたいなものをご披露いただけませんか?」
と依頼されたもので、快くOKした。
Tさんはだいぶ買いかぶっているが、ボクは格別友だちが多いわけではない。
ただし知り合いはいっぱいいる。friend(友だち)とacquaintance(知り合い)は
違うのである。
ボクの友だちは飲んべえばかりで、人はいいが、ほとんどみなロクデナシ野郎
といっていい(←おまえが一番だろ!)。知り合いはオバサンかオバアサンが多く、
オジサンとオジイサンは意識的に避けている。特に会社をリタイアしたばかりの彼らは、
気むずかしい人が多く、話すのがめんどうだから、こっちからはできるだけ近づかない
ようにしているのだ。
司馬遼太郎のエッセイ『風塵抄2』の中に「窓を閉めた顔」という小文がある。
司馬は言う。中国人の顔はリラックスしていて、どなたもご自由にお入りください、
というように「顔の窓」が開いているが、日本人はそうじゃない。いつだって窓や
シャッターが閉められていて、概ね気むずかしそうな仏頂面をしている、と……。
ボクはまずこの話を引用し、団地内のオジサンやオジイサンも同じように「顔の窓」
を閉め切っている、というような話から切り出した。それでは友だちも知り合いも
できませんよと。
ボクは長らく〝主夫〟を兼業しているので、ダイコンやネギをぶら下げたまま、
よく知り合いのオバサンたちと立ち話をする。最初はぎこちなかったが、30年も
やっているとすっかり板につき、今やすっかりオバサンになっている。
ボクはラジオで、
「オジサンはすべからくオバサン化すべし」
と訴えた。ボクの細胞はたぶん80%くらいはオバサン化していて、
そのうち完全に性転換できそうなあんばいなのだが、友だち作りの要諦は、
まさにこの「オバサン化」なのである。
〝社畜〟として長く会社に飼い慣らされてしまうと、定年となってリタイアしても、
自分の住む町の地域社会になかなか溶け込めない。同僚以外とは話したことが
ないから、隣家の奥さんともまともに口がきけない人が多いのだ。つまりは社会性
がまるでない。つぶしがきかないから、ただ仏頂面をするしかない。リタイア後の
オジサンは実に扱いにくいのである。
原因はいろいろあるが、学歴だの履歴だのといった輝かしい過去の栄光が
ジャマしている場合が多い。どこそこの大学を出ただとか、一流企業の部長職に
あっただとか、そんな経歴は裸一貫になってしまったオジサンには何の関係もない。
むしろそれが足枷となって、フランクな人間関係を築けない。
かつては部下を数十人抱え、億単位の商談をまとめたこともあるだろう。
社の内外で〝切れ者〟と噂されたこともあったかもしれない。
でもね、隠居生活の中で、そのことがいったい何の役に立つっていうの?
ボクは彼らのことを「むかし偉かったオジサン」と半ばからかい気味に
呼んでいるのだけれど、そういう誇り高きオジサンたちがやたらと多いのである。
特にこの団地内には佃煮にしたいくらいウジャウジャいて、正直、ウンザリする。
その点、オバサンたちはいい。話の中身はほとんどたわいのないものばかりで、
人生の指針になるような話は皆無ではあるけれど、オジサンみたいに変に偉ぶったり、
卑屈になったりしないところがいい。子供自慢や孫自慢だって最初は鼻についたが、
最近はふつうに聞けるようになった。いよいよ100%オバサンになる日も近いな、
と予感させる今日この頃なのである。
団地総会などでは六法全書を片手に熱弁をふるうオジサンもいたりして、
つい涙を誘われてしまうのだが、あのような場で一席ぶって、存在を知らしめることが
自己実現の道だとたぶん勘違いしているのだろう。
(あんたは、むかしは偉かったのかもしれないけど、リタイアした今となりゃ、
誰も畏れ入ったりはしませんよ。だいいち、俺たちはあんたの家来じゃないもの)
ボクは心の中でそう叫んでいるのだけれど、オジサンは我関せずといった風で、
人の迷惑も顧みず、滔々と長広舌をふるっている。
何度でも言おう。みんなに愛されたかったら、輝かしい学歴も履歴もすべて捨て、
裸一貫のキャラクターだけで勝負することだ。まちがっても「□△☆商事・元営業本部長」
などというマヌケな名刺は出さないこと。〝元〟という一字に万感の思いをこめている
つもりだろうが、笑われるのがオチだから、やめたほうがいい。
オジサンはすべからく〝オバサン化〟すべし。
幸せになる道はそれしかない。プッ……
←わが団地には気むずかしい
オジサンたちがいっぱいいる。
彼らは奥方からも神からも
見はなされている。
ああ、かわいそうなオジサンたち……
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