昨日(10/1)は「コーヒーの日」なのだそうだ。
なぜコーヒーの日なのかは知らない。
全日本コーヒー協会がボクに相談することもなく(当たり前だ!)勝手に決めたことで、
つむじ曲がりのボクなんかは〝要らぬお節介〟だと思っている。
「コーヒーの日」だろうと何だろうと、コーヒーは毎日飲んでいる。
酒も毎日だが、コーヒーも毎日で、どちらもほとんど中毒気味なのだ。
本日、「ダフニ」の桜井美佐子からコーヒーが2袋送られてきた。
エチオピア・イルガチェフと珍しいコロンビア・モカの2種である。
桜井は今は亡き標交紀(コーヒーの鬼と呼ばれた吉祥寺「もか」店主)の兄弟弟子で、
標の師匠筋に当たる襟立博保の秘書をやっていた。
標がもっとも信頼していた女性で、新しいブレンドを開発すると、
「桜井さんの感想が聞きたい」
と、まっ先に連絡した。桜井には非凡な味覚が備わっているらしい。
その桜井も70の坂を越えたという。
《コーヒーのことはいまだ解っておりませんが、食べ物の「おいしさ」と「うま味」に
関しては、今どきの若者たちより深く理解しているつもりです(笑)》
と、これはまあ、コーヒーに添えられた手紙からの抜粋である。
コーヒーにもホンモノとニセモノがある。
ボクと女房は、40年間、ホンモノかそれに近いコーヒーばかり飲んできた、
と自負しているが、それがホンモノだったかどうかは神のみぞ知るだ。
桜井のコーヒーには、むろん桜井のキャラクターが色濃く投影されている。
が、名人・標交紀のコーヒーを少しばかり彷彿させるところもある。
つまり、飲むほどに陰翳豊かなさざめきが湧出してくるような味で、
そんじょそこらの凡庸なコーヒーでは追いつこうにも追いつけない、
一筋縄ではいかない味なのである。
標の一番弟子は福岡「美美」の森光宗男だが、森光のコーヒーは
標のコーヒーとはまったくの別物である。森光独自のもので、
焙煎も森光しかできないオリジナルなものだ。
山形・鶴岡の「コフィア」が標の味を継承しているじゃないか、というものがあるが、
継いでいるのは標の志であって、コーヒーの味ではない。店主・門脇祐希も
彼ならではのコーヒーワールドをしっかりと形成している。
古稀を迎えた桜井はこう言っている。「ただ今修業中」だと。
まだまだめざす味には届かないというのだ。
この不断の探究心こそ桜井の真骨頂で、
その成果のほどがすべてコーヒーの出来に現れている。
ボクが言うのも何だが、みごとな出来映えである。
いただいたものだから、世辞のひとつも言うべきなのだろうが、
桜井のコーヒーはそんなつまらぬ慮りをはるかに超えたところに屹立している。
焙煎技術世界一になった福岡「豆香洞」のコーヒーも立派なものだが、
桜井のコーヒーはまったく別次元のところで、密やかに、そして力強く息づいている。
師匠の襟立は、
「女にはどうしても越えられぬ壁がある」
と、桜井の〝限界〟を予測したものだが、
その予測はみごとに外れたようだ。
飲んでみて、あまりに味わいが深かったもので、
その感動が薄れぬうちに一文にまとめてみた。
コーヒー物狂いの世界に男も女もない。
(文中敬称略)
←東京・田町にある「ダフニ」の外観。
慶應大学のほど近くにある。
※追記
木村衣有子氏著の『もの食う本』(ちくま文庫)の中で、拙著『コーヒーに憑かれた男たち』
が紹介されている。木村氏は文末にこう書いている。
《『コーヒーに憑かれた男たち』は、コーヒーを男だけのものにしておきたいようだが、
私は『コーヒーに憑かれた』女を探しに出かけてみたい》。
木村さ~ん! ここにあなたのお目当ての女(ひと)がいますよ~。
すぐにお出かけくださいな。
なぜコーヒーの日なのかは知らない。
全日本コーヒー協会がボクに相談することもなく(当たり前だ!)勝手に決めたことで、
つむじ曲がりのボクなんかは〝要らぬお節介〟だと思っている。
「コーヒーの日」だろうと何だろうと、コーヒーは毎日飲んでいる。
酒も毎日だが、コーヒーも毎日で、どちらもほとんど中毒気味なのだ。
本日、「ダフニ」の桜井美佐子からコーヒーが2袋送られてきた。
エチオピア・イルガチェフと珍しいコロンビア・モカの2種である。
桜井は今は亡き標交紀(コーヒーの鬼と呼ばれた吉祥寺「もか」店主)の兄弟弟子で、
標の師匠筋に当たる襟立博保の秘書をやっていた。
標がもっとも信頼していた女性で、新しいブレンドを開発すると、
「桜井さんの感想が聞きたい」
と、まっ先に連絡した。桜井には非凡な味覚が備わっているらしい。
その桜井も70の坂を越えたという。
《コーヒーのことはいまだ解っておりませんが、食べ物の「おいしさ」と「うま味」に
関しては、今どきの若者たちより深く理解しているつもりです(笑)》
と、これはまあ、コーヒーに添えられた手紙からの抜粋である。
コーヒーにもホンモノとニセモノがある。
ボクと女房は、40年間、ホンモノかそれに近いコーヒーばかり飲んできた、
と自負しているが、それがホンモノだったかどうかは神のみぞ知るだ。
桜井のコーヒーには、むろん桜井のキャラクターが色濃く投影されている。
が、名人・標交紀のコーヒーを少しばかり彷彿させるところもある。
つまり、飲むほどに陰翳豊かなさざめきが湧出してくるような味で、
そんじょそこらの凡庸なコーヒーでは追いつこうにも追いつけない、
一筋縄ではいかない味なのである。
標の一番弟子は福岡「美美」の森光宗男だが、森光のコーヒーは
標のコーヒーとはまったくの別物である。森光独自のもので、
焙煎も森光しかできないオリジナルなものだ。
山形・鶴岡の「コフィア」が標の味を継承しているじゃないか、というものがあるが、
継いでいるのは標の志であって、コーヒーの味ではない。店主・門脇祐希も
彼ならではのコーヒーワールドをしっかりと形成している。
古稀を迎えた桜井はこう言っている。「ただ今修業中」だと。
まだまだめざす味には届かないというのだ。
この不断の探究心こそ桜井の真骨頂で、
その成果のほどがすべてコーヒーの出来に現れている。
ボクが言うのも何だが、みごとな出来映えである。
いただいたものだから、世辞のひとつも言うべきなのだろうが、
桜井のコーヒーはそんなつまらぬ慮りをはるかに超えたところに屹立している。
焙煎技術世界一になった福岡「豆香洞」のコーヒーも立派なものだが、
桜井のコーヒーはまったく別次元のところで、密やかに、そして力強く息づいている。
師匠の襟立は、
「女にはどうしても越えられぬ壁がある」
と、桜井の〝限界〟を予測したものだが、
その予測はみごとに外れたようだ。
飲んでみて、あまりに味わいが深かったもので、
その感動が薄れぬうちに一文にまとめてみた。
コーヒー物狂いの世界に男も女もない。
(文中敬称略)
←東京・田町にある「ダフニ」の外観。
慶應大学のほど近くにある。
※追記
木村衣有子氏著の『もの食う本』(ちくま文庫)の中で、拙著『コーヒーに憑かれた男たち』
が紹介されている。木村氏は文末にこう書いている。
《『コーヒーに憑かれた男たち』は、コーヒーを男だけのものにしておきたいようだが、
私は『コーヒーに憑かれた』女を探しに出かけてみたい》。
木村さ~ん! ここにあなたのお目当ての女(ひと)がいますよ~。
すぐにお出かけくださいな。
0 件のコメント:
コメントを投稿