佐世保市の女子高生殺人事件は〝陰惨〟の一語に尽きる。
殺された女子高生の無念は察するに余りあるが、「宝物」だったという娘さんを
突然失ったご両親の悲嘆ぶりを想像すると、言葉がない。
ボクがもしこの親御さんの立場だったらどうなるだろう。
もちろん錯乱状態がしばらくつづくだろうが、落ち着いた後の行動がちょっと怖い。
〝復讐の鬼〟と化して、何かとんでもないことをしでかすのではないか。
日頃、何かにつけ法を守らない支那人をバカにしていながら、自分が進んで
犯罪者の仲間入りをしてしまうのではないか。そんな予感がしてならないのである。
加害者の少女は、母親が昨年秋に他界し、父親が死別後わずか3ヵ月で再婚する
といっためまぐるしい環境の変化に翻弄され、そのためなのか金属バットを振りまわすなど、
家庭内でも問題行動が多かったという。父親は地元の名士で、家庭は裕福。
両親共に教育熱心で、PTAの役員をつとめていたこともあったという。
加害者の少女は、一面では家庭の〝被害者〟だったのかもしれないが、
無惨に殺された少女からすれば、そんなことはどうでもいい。
加害者がどれほど心の傷を負っていようと、関係ないからだ。
若くして母と死別、父親の再婚、不登校……安っぽいドラマの筋書きによくありそうな
話だが、この程度の〝心の傷〟や〝不幸〟なら、それこそ掃いて捨てるほどある。
もっと悲惨な話はいっぱいあるし、現にボクの身の回りにも起きた。またアラブやアフリカ
など戦乱の続く地域では、ほぼ日常的に起こっている。心に傷を負った少年少女が
例外なく犯罪に走る、なんてことはあり得ないし、人間はそれほどヤワじゃない。
猫などの小動物を傷つけたり殺したりする人間は、ついには「人を殺したくなる」
と専門家はいうが、本来、子どもなんていうものは残酷な動物で、ボクだって
子どもの頃は無数の昆虫やカエル、スズメ、ネズミを殺したことがある。
夏休みには「昆虫採集」などという残酷な宿題もあったし、理科の実験では、
カエルの解剖などもした。カエルの解剖に刺激され、猫や犬、
ついには人間を解剖したくなった、なんて話は聞いたことがない。
少年少女による陰惨な事件が起きると、決まって小・中学校の校長がカメラの前に立ち、
「命の大切さを教える教育」だとか「生徒たちの心のケア」といったセリフを繰り返す。
どんな教育をしているのか知らないが、こんなもの、いくらやってもムダである。
カウンセラーの数を増やせば、心の傷が治るというものでもない。
ボクも長い間、心療内科に通ったPTSD患者の1人だからよく分かるが、
精神科医のカウンセリングなんてものはクソのつっかい棒にもならない。
なぜかいつもメディアの前には学校関係者が出てきて、
「こうした事件は2度と起こしてはならない」などと、沈痛な顔してコメントするが、
命の大切さを教えたり、人としての道を教えるのは学校ではない。家庭である。
算数や理科、社会、国語といった「教科」を教えるのが学校であって、倫理道徳や
躾は家庭の役割である。家庭教育を棚に上げ、何でもかんでも学校に教えてもらおう
なんて筋違いもいいとこで、欲深すぎるのである。いけ図々しいのである。
子どもの成長にいちばん影響を及ぼすのは家庭環境だ。
仲のいい両親に愛情をたっぷり注ぎ込まれ、きびしく躾けられた子どもたちからは
犯罪者は出ない。子どもの教育は、すなわち親の教育で、出来損ないの親からは
出来損ないの子しか産まれない。
学校の教師に何から何まで期待するのは酷というものだ。
彼らは単なる算数の先生であり、国語の先生というだけで、
トルストイのような「人生の教師」ではない。
専門分野の知識は持つが、それ以外のことにはたいがい無知で、
社会性のない人間も多い。世間的な眼で見れば、
むしろ「非常識」で「未成熟」で「欠陥だらけ」の人間ばかりなのである。
だからといって、学校の教師(大学教授も含む)を軽んじているいるわけではない。
彼らを「専門知識を有する技能士」と見ているだけで、それ以上のことを期待して
いないだけである。昔の教師のほうが人間性が豊かだった、などといわれるが、
ボクにはよく分からない。豊かだった人もいればそうでない人もいる。
子どもをまっとうな人間に育てたかったら、家庭教育をしっかりすることだ。
正邪美醜を身につけさせ、善悪の判断や他人を思いやる心を地道に育む。
そして何より大事なのは、子どもに対して、
「おまえは父さんと母さんの宝物。かけがえのない存在なんだよ」
という思いを絶えず伝えてやればいい。幼き頃にはしっかりやさしく抱いてやる。
そうすれば、親の愛は自然と子に伝わる。
こうした事件が起きると、ゴシップ・ジャーナリズムはむしろ狂喜乱舞し、
加害者・被害者の周辺を、根掘り葉掘り、あることないこと、狂ったように嗅ぎ回る。
有名な教育評論家や精神科医などもテレビに引っ張り出され、
したり顔で説教くさい話を垂れ流す。悲しげな顔を作ってはいるが、
メディアでの露出度が増えるからと、彼らは内心嬉しくてたまらないのだ。
心のケア? ふん、利いたふうなことを抜かすんじゃない。
フロイトとヤスパースのおかげで、人間様は心の奥底まで支配できると
思い上がっている。まったくもって……度し難い生き物だ。
殺された女子高生の無念は察するに余りあるが、「宝物」だったという娘さんを
突然失ったご両親の悲嘆ぶりを想像すると、言葉がない。
ボクがもしこの親御さんの立場だったらどうなるだろう。
もちろん錯乱状態がしばらくつづくだろうが、落ち着いた後の行動がちょっと怖い。
〝復讐の鬼〟と化して、何かとんでもないことをしでかすのではないか。
日頃、何かにつけ法を守らない支那人をバカにしていながら、自分が進んで
犯罪者の仲間入りをしてしまうのではないか。そんな予感がしてならないのである。
加害者の少女は、母親が昨年秋に他界し、父親が死別後わずか3ヵ月で再婚する
といっためまぐるしい環境の変化に翻弄され、そのためなのか金属バットを振りまわすなど、
家庭内でも問題行動が多かったという。父親は地元の名士で、家庭は裕福。
両親共に教育熱心で、PTAの役員をつとめていたこともあったという。
加害者の少女は、一面では家庭の〝被害者〟だったのかもしれないが、
無惨に殺された少女からすれば、そんなことはどうでもいい。
加害者がどれほど心の傷を負っていようと、関係ないからだ。
若くして母と死別、父親の再婚、不登校……安っぽいドラマの筋書きによくありそうな
話だが、この程度の〝心の傷〟や〝不幸〟なら、それこそ掃いて捨てるほどある。
もっと悲惨な話はいっぱいあるし、現にボクの身の回りにも起きた。またアラブやアフリカ
など戦乱の続く地域では、ほぼ日常的に起こっている。心に傷を負った少年少女が
例外なく犯罪に走る、なんてことはあり得ないし、人間はそれほどヤワじゃない。
猫などの小動物を傷つけたり殺したりする人間は、ついには「人を殺したくなる」
と専門家はいうが、本来、子どもなんていうものは残酷な動物で、ボクだって
子どもの頃は無数の昆虫やカエル、スズメ、ネズミを殺したことがある。
夏休みには「昆虫採集」などという残酷な宿題もあったし、理科の実験では、
カエルの解剖などもした。カエルの解剖に刺激され、猫や犬、
ついには人間を解剖したくなった、なんて話は聞いたことがない。
少年少女による陰惨な事件が起きると、決まって小・中学校の校長がカメラの前に立ち、
「命の大切さを教える教育」だとか「生徒たちの心のケア」といったセリフを繰り返す。
どんな教育をしているのか知らないが、こんなもの、いくらやってもムダである。
カウンセラーの数を増やせば、心の傷が治るというものでもない。
ボクも長い間、心療内科に通ったPTSD患者の1人だからよく分かるが、
精神科医のカウンセリングなんてものはクソのつっかい棒にもならない。
なぜかいつもメディアの前には学校関係者が出てきて、
「こうした事件は2度と起こしてはならない」などと、沈痛な顔してコメントするが、
命の大切さを教えたり、人としての道を教えるのは学校ではない。家庭である。
算数や理科、社会、国語といった「教科」を教えるのが学校であって、倫理道徳や
躾は家庭の役割である。家庭教育を棚に上げ、何でもかんでも学校に教えてもらおう
なんて筋違いもいいとこで、欲深すぎるのである。いけ図々しいのである。
子どもの成長にいちばん影響を及ぼすのは家庭環境だ。
仲のいい両親に愛情をたっぷり注ぎ込まれ、きびしく躾けられた子どもたちからは
犯罪者は出ない。子どもの教育は、すなわち親の教育で、出来損ないの親からは
出来損ないの子しか産まれない。
学校の教師に何から何まで期待するのは酷というものだ。
彼らは単なる算数の先生であり、国語の先生というだけで、
トルストイのような「人生の教師」ではない。
専門分野の知識は持つが、それ以外のことにはたいがい無知で、
社会性のない人間も多い。世間的な眼で見れば、
むしろ「非常識」で「未成熟」で「欠陥だらけ」の人間ばかりなのである。
だからといって、学校の教師(大学教授も含む)を軽んじているいるわけではない。
彼らを「専門知識を有する技能士」と見ているだけで、それ以上のことを期待して
いないだけである。昔の教師のほうが人間性が豊かだった、などといわれるが、
ボクにはよく分からない。豊かだった人もいればそうでない人もいる。
子どもをまっとうな人間に育てたかったら、家庭教育をしっかりすることだ。
正邪美醜を身につけさせ、善悪の判断や他人を思いやる心を地道に育む。
そして何より大事なのは、子どもに対して、
「おまえは父さんと母さんの宝物。かけがえのない存在なんだよ」
という思いを絶えず伝えてやればいい。幼き頃にはしっかりやさしく抱いてやる。
そうすれば、親の愛は自然と子に伝わる。
こうした事件が起きると、ゴシップ・ジャーナリズムはむしろ狂喜乱舞し、
加害者・被害者の周辺を、根掘り葉掘り、あることないこと、狂ったように嗅ぎ回る。
有名な教育評論家や精神科医などもテレビに引っ張り出され、
したり顔で説教くさい話を垂れ流す。悲しげな顔を作ってはいるが、
メディアでの露出度が増えるからと、彼らは内心嬉しくてたまらないのだ。
心のケア? ふん、利いたふうなことを抜かすんじゃない。
フロイトとヤスパースのおかげで、人間様は心の奥底まで支配できると
思い上がっている。まったくもって……度し難い生き物だ。
4 件のコメント:
しまふくろうさま、こんばんは。(*^^*)
先日、今度は転がしてあった薪(大きな梁を切ったもの)にけつまずいて右足の弁慶の泣き所に切り傷と青あざを作ってしまった木蘭でございます。
正座が辛いです~(T_T)(笑)
今回の事件は、まことに信じがたいものでした。
15.6歳の女の子がまさか・・・
誰しもそう思ったことでしょう。
この子ばかりではなく、
世の中には同じように「精神を病んだ」人間が多いように思います。
「人を殺してみたかった」
「誰でもよかった」
事件を起こさずとも、そんなふうに思っている人が。
そういう人間は、
毎日のように闘いで人が亡くなっているような紛争の絶えない国に行って頂きましょう。
誰でもいいから人を殺してみたいという心など、
地雷を踏んだように粉々になるのではないでしょうか。
死と隣り合わせの毎日。
一日生き延びる事だけを考える毎日。
そんな生活がその人たちには必要なのかもしれません。
日本には、
平和すぎるが故に起こる事件が多すぎるような気が致します。
木蘭様
おはようございます。
またまた〝自傷行為〟ですか?
困ったな。ほんとうにおっちょこちょいですね。やっぱ、ボクが近くで眼を光らしていないとだめなんですね(笑)。
さて、「人を殺してみたかった症候群」の
人たちですが、木蘭さんが言うように、戦後
70年の〝平和ボケ〟が生んだ精神病の一種ですね。
パレスチナのガザ地区では、
明日をも知れぬ命のやりとりが、ほぼ日常的に繰り返されています。そんな血なまぐさい戦場に、平和ボケのガキどもを集めて、
いっせいに送り込んでやればいいのです。
命というものがいかに大切で尊いものか、
ものの数秒で分かるでしょう。
彼らに決定的に欠けているのは想像力です。
想像力が欠けているから、相手の痛みが
分からない。
ネット上には加害者の少女の写真から、名前、豪壮な実家の写真など、すべてが流れ出ています。未成年だからと、顔や名前を伏せても、ネット社会では隠し切れないのです。
こんなのは氷山の一角。
「人を殺してみたい症候群」の病人たちが、
きょうも街を徘徊して獲物を狙っています。
先日わが家へ来たフランスの女の子は、
自国ではいつも強力な防犯スプレーを携帯
している、と言ってました。
日本人も〝安全神話〟にどっぷり浸かっていると、いつかしっぺ返しを受けるような気がします。
ボクがなぜ日頃から身体を鍛えているのか。
いざとなった時に「闘う」ためです。
家族を守り、自分を守る。
闘えなくなった時が、たぶん男を廃業する時でしょう。
ボクにはまだケモノくさい蛮性というものがわずかに残っています。それが時々顔を出しますが、若い頃のような殴り合いのケンカは、この十数年していません。
でも男が闘う動物であることには変わりがありません。平和ボケで退化しつつありますが、きっとどこかに蛮性が眠っているはずです。
平和が長すぎて悪いことはありませんが、
いつも心の中に、
「戦争が常態で、戦争と戦争の間にある
わずかな休息時間が仮に〝平和〟と呼ばれているに過ぎないんだ」
というクールな意識を持ち続けることが
大切なのだと思います。
木蘭さんも、薪にけつまずいて青アザなど
つくりませぬよう、もっと危機意識をもってくださいませ(笑)。
嶋中労さま
おはようございます!
パソコンのハードディスクが壊れスマホからのコメントをしています。ブログのコメントの返信も出来ず申し訳ありません。
ここからが本題になります。確かに平和な社会は素晴らしいと思いますが永く続くとそれを壊そうとする者
が必ず表れてくるように感じられます。
士農工商・・・はある意味秩序を維持するための立派な制度だったのかもしれません。
また一つ人生の宿題が出来ました。
本当の平等とは?
暑いが嬉しい夏、お身体をお大事になさってください。
田舎者様
お暑うございます。
平和な社会が長く続くことは喜ばしいことで
すが、それは僥倖と呼ぶべきもので、決して
あたりまえのものではありません。
その平和は「平和憲法」があるおかげ、
「九条」があるおかげ、と考えている人も
多いようですが、それは違います。
戦後70年、曲がりなりにも平和でいられたのは、自衛隊があり、日米軍事同盟があるおかげなのです。〝朝日新聞大好き人間たち〟は
それが分からない。
哲学者の田中美知太郎はそのことを皮肉って
こう言いました。
《憲法に日本は平和を守ると書いて謳えば平和が達成され得るなら、
毎年大きな被害をもたらす台風は日本に来てはならぬと憲法に宣言すれば、
台風は来なくなるのか》
ボクは護憲派の人たちを〝念力主義者〟と
呼んでいます。平和、平和とお題目を唱えていれば、支那もロシアも北朝鮮も手を出せない。かれらは日本古来からある〝言霊信仰〟の信奉者であり、同時に被害者なのかもしれません。
暑っ苦しいので、ヤボな話はもうやめます。
畑仕事で熱中症にならぬよう、気をつけてくださいね。
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