2013年1月13日日曜日

ネクタイが締められない

《国境のトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった……》
川端康成の名品『雪国』の冒頭はこんな書き出しで始まる。
この国境を「こっきょう」と読むか「くにざかい」と読むかで、
いまだに熱い論争が続いていると聞くが、そのことはひとまず措く。

《国境のトンネルを抜けると発狂していた。その顔は紙のように白かった……》
こっちは嶋中労が車で長いトンネルを抜けた時の情景描写である。
群馬から新潟に抜ける関越トンネルはおよそ11キロという長大さで、
以前、このトンネルを走っていた時、ほとんど発狂寸前になったことがある。
抜けた時はかろうじて息をしていた状態で、顔面蒼白、身体は硬直していた。

ここのところ仕事が忙しく、2日間連続して朝の早い取材があった。
朝が早いということは満員電車に乗らなくてはいけないということで、
ボクにとっては長いトンネルを抜ける時のような決死の覚悟が要った。

以前少しふれたことがあるが、ボクは障害者のひとりで、
いわゆるPTSD(心的外傷後ストレス障害)の患者である。
ボクの場合は閉ざされた狭い空間に対して極度の恐怖を感じる病気で、
一般的には〝閉所恐怖症〟と呼ばれている。

一番恐いのは、ギュウギュウ詰めの満員電車の中ほどにいて、
人身事故とか踏切故障があって、駅でないところに緊急停車してしまうこと。
それが10分、20分と続くともういけない。頭の中は真っ白になり、
過呼吸症候群を引き起こし、呼吸困難になって気を失ってしまう。
患者の中にはむりやり人をかき分け、車掌室のドアを叩き、脱出を試みた、
という人もいるようだが、ボクも可能なら窓をたたき割って脱出しようとするかもしれない。

つき合いの長い編集者にはボクの病気のことをそれとなく伝えてあって、
朝晩のラッシュ時と重なる取材等はなるたけ避けるよう配慮してもらっているが、
こればっかりは取材先の都合もあることなので、勝手ばかりは言ってられない。

病気も〝たけなわ〟の頃は、数時間早めに起きて、一駅ごとに降りては呼吸を整え、
「エイヤー!」の気合いで乗り込み、次の駅でまた降りるということを繰り返した。
目的地まではなかなか到着しない。

もちろん薬はある。医者に処方された精神安定剤のようなものを常に何種類か
携帯していて、地下鉄や映画館、長いトンネル、場合によってはエレベーターや
窓のない小部屋などに備えているのだが、たとえ薬を服用していても、満員電車の
緊急停車があった場合は自信が持てない。その状態を想像しただけで呼吸困難に
なってしまうから、ふだんはできるだけ閉所空間のことを考えないようにしている。

でも、ときどきニュースなどで宇宙ステーションに滞在している日本人飛行士のことが
話題になったりする。なぜあんな所に数ヵ月も滞在できるのか。
とてもまともな神経とは思えない。いや、宇宙飛行士にはそもそも神経がないのだろう。
あの映像は非常にひっじょーにヤバイ。

長女の上司に当たるIさん(ボクの本の愛読者でもある)は、正月休みが終わり、
赴任先であるアルゼンチンはブエノスアイレスに戻っていった。彼の地は気温35℃で
夏真っ盛り。機中にいる時間がなんと26時間だったという。パニック障害発症前なら
「ああ、そうですか」と、大して驚きもせず聞けただろうが、今は無限に続く時間のように
感じられる。とてもじゃないが、世界を股にかける商社マンなど到底つとまりそうにない。

なぜこんな話をしたかというと、昨日、取材現場で女性スタイリストがしている結婚指輪
が目に入り、それを凝視してしまったからだ。ボクは指輪をしていない。腕時計もしていない
以前、自分の指輪をじっと見ていたら、突然、病気がフラッシュバックしてきて、
呼吸が困難になってしまったことがある。抜こうとしても抜けない。
焦れば焦るほど指輪はがっちり肉に食い込んでくる。

ボクはほとんど気を失いそうになりながら、デパートの宝飾店に飛び込み、
「スミマセン、急いでこの指輪を切断してください!」
店員もビックリしたようで、あとで聞いたらボクは顔面蒼白、息も絶えだえになって
飛び込んできたという。あの指輪を外した時の安堵感といったらない。
深く息を吸い込み、
(ああ、今回もまた助かった……)
ホッとするあまり、その場に崩れ落ちてしまった。

身体を締めつけるものがPTSDとどう結びつくのかはよく分からないが、
たぶん「締めつけるもの=気道を塞ぐ」というイメージと結びつくのだと思う。
結婚指輪を外しているのはナンパ目当てのチャラ男ばかりではない。
閉所恐怖症の患者もまた仕方なく外しているのである。

また時々ネクタイを結ぶことがある。あらたまった席や慶弔時の席などがそれで、
ボクにとってネクタイ着用は明らかに寿命を縮めるゆるやかな自殺行為なのだが、
薬でなんとかもたせ、その場をつくろっている。

その頑丈そうな肉体だったら、殺されても死なないね――口さがない友人たちは
ボクのことをそんなふうに評するけど、なに、ボクを殺すのなんか簡単だ。
窓のない部屋にものの30分も閉じこめておけば、あっけなく死んでしまうだろう。
ついでにウニやキャビアにカラスミ、それと高級ワインに対する猛烈アレルギー疾患
(アナフィラキシーショックで死に至る)があるから、食い物を一切与えず、
それらを部屋に放り込んでおくだけで即死してしまう。

それって、もしかして〝饅頭こわい〟の変形版? 
お疑いとあらば、ぜひ試してみてください。


6 件のコメント:

Nick さんのコメント...

ROUさん、こんにちは。

初雪ですねぇ。
外に出る気にもなりません。

それこそ、狭い部屋に「ウニやキャビアにカラスミ、それと高級ワインそれらを部屋に放り込んでおくだけで」安楽死できそうです。

あ、ついでにあたしゃ心地よい音楽も・・・

おあとがよろしいようで。

ちゃんちゃん

ROU.SHIMANAKA さんのコメント...

NICK様

絶対安楽死なんかさせてあげない。
音楽もあなたのきらいなド演歌を流してやります。

窓の外は雪。だいぶ積もりそうですな。
いつもは率先して雪かきをするのだけど、
今年は腰の具合も悪いし、
売れっ子作家みたいに缶詰に
されているので、ちょっとムリかも。

NICKさんとも久しく飲んでないね。
もう顔も忘れかけてる。

K子 さんのコメント...

世の中には、クリップ式で首元に止められるネクタイがありますので、必要があってもあまりに息苦しい時は、ご利用下さい。

先日読んだ小説は、元死刑囚の話。元死刑囚は、手錠と絞首のトラウマから、釈放になっても腕時計とネクタイができないんですって。
ふうん、知らないことって、この歳になってもたくさんありますね。


ROU.SHIMANAKA さんのコメント...

K子様

その死刑囚の話、よーくわかります。
閉所恐怖症の患者なら、たぶん全員がわかるでしょう。

クリップ式のネクタイですか。
便利ですね。息苦しくなりそうだったら
利用してみます。

話は変わりますが、
美女を前にすると息苦しくなったりするのですが、こんな時はどうしたらいいんですか?
美女びじょのK子さんなら、よくご存じだろうと思って……。

K子 さんのコメント...

そんな時は、あぁ、いくつになってもこのドキドキワクワク感は楽しいなぁ、と思い込むことです。私で試してみてください。

ROU.SHIMANAKA さんのコメント...

K子様

過去にずいぶん試してみてはいるのですが、
なぜかいっこうに……

人生はひたすら強気に生きること。
それと勝手に思い込むこと――。
K子様からはいつも多くを教えられます。