帰宅するなり娘は「ジャンボ!」と日焼けした顔をほころばせた。
かっとび娘の長女がようやくアフリカ旅行から帰ってきた。
「マサイ族の戦士と一緒に槍を持ってピョンピョン跳ねてきた」
ではあまりに月並みすぎるが、娘は小学校や孤児院を訪ねたり、
牛糞をこねた壁土を塗って家造りに協力したりと、
現地の人たちと積極的に交流を深めてきたらしい。
「牛70頭で、この男と結婚してくれないか?」
マサイの長老が若い戦士を紹介してくれたという。
「娘婿は実はマサイの勇士なんです」と自慢するのも悪くはないが、
牛70頭ではねェ……。一生ステーキを食べ続けるには
せめて300頭はもらわないと……。
自宅を中心に半径500メートル以内を行動範囲と決めているボクからすると、
小田実ばりに『何でも見てやろう』と世界を歩きまわる娘の気が知れない。
古人は「戸を出ずして天下を知り、窓をうかがわずして天道を見る」と言った。
師匠の山本夏彦翁が好んで用いた俚諺だが、
ボクもしばしば口にしては相手を煙に巻いている。
箱根の山を越えたことがない、とうそぶく夏彦翁も実は弱年の頃、パリで2年半を過ごしている。
それどころかあの世も旅してみたいと、自殺を2度試み失敗している。
後年、翁は「ロバは旅をしても馬になって帰ってくるわけではない」という西諺を好んで用いた。
何の学問も知識もないものが、海外に遊んでも何ら得るところはない、という意味だが、
ロバとは何を隠そう夏彦翁自身の自嘲した姿だった。
旅をするのはきらいではない。若い頃、ユースホステルの会員だったボクは好んで一人旅をした。
当時、ホステラー(ユースホステルの会員)の数は60万人以上いて、世界一だったこともある。
それが今は5万人ほどに減少、若者のホステリング離れが急速に進んでいる。
ユースホステルには「ミーティング」というものがあった。宿泊者がホールに集まり
場合によっては歌をうたったり踊ったりするのだが、ふつうは円陣を組んだ座談が主流で、
自己紹介に始まり、ホステラー同士の旅の情報交換などがおこなわれた。
これはもう時効だから言ってしまうが、一人旅の女性複数に愛を告白されたこともある。
しかし一方で、このミーティングを煩わしいと感じる人たちもいた。
おそらくホステリング衰退の一因の一つが、この〝他者との交流を好まない人たち〟
の増加にあるだろう。また就寝時間が決まっているといった規則ずくめも敬遠される
理由になっている。ユースホステルの設立主旨の一つは「交流の宿」というもの。
交流嫌いが増えてはそもそも運営が成り立たない。衰退は必然か。
その旅好きが、いつのまにか出不精になり、ついには生活圏を「半径500メートル以内」
に限るようになってしまった。不遜にも(どこへ行っても何を見てもみな同じ)という諦観
というか見極めみたいなものが先立って、ついつい腰が重くなってしまったのである。
旧約聖書の伝道の書にもあるではないか。《天が下に新しきものなし》と。
そんなおやじの生悟りを尻目に、娘2人はヒマさえあれば国内外へ飛び立ち、
女房も近くイタリア詣でを敢行しようとしている。
女たちの開けっぴろげでノーテンキな行動力は、げにすさまじい。
ただし支那と韓国だけは別。あんな無礼千万の国へは当分行くつもりはないという。
恩怨ともに忘れる、というのは日本人の長所でもあり短所だが、千年前の怨みを忘れない、
というのもよいことではない。ソ連のスターリンは第二次大戦末期にいきなり参戦し、
「これでようやく日露戦争の怨みをはらした」と言ったそうだ。支那人も韓国人も
思いは同じだろう。この怨み、晴らさでおかりょうか……ってか?
忘れっぽい人たちと、執念深い人たちの呉越同舟。
極東アジアの雲行きはいよいよキナ臭くなってきた。
←「重いよォ~」と言いながらも笑顔。
あとで首が回らなくなったとこぼした。
ボクなんかいつだって回らない(意味ちがうだろ!)
かっとび娘の長女がようやくアフリカ旅行から帰ってきた。
「マサイ族の戦士と一緒に槍を持ってピョンピョン跳ねてきた」
ではあまりに月並みすぎるが、娘は小学校や孤児院を訪ねたり、
牛糞をこねた壁土を塗って家造りに協力したりと、
現地の人たちと積極的に交流を深めてきたらしい。
「牛70頭で、この男と結婚してくれないか?」
マサイの長老が若い戦士を紹介してくれたという。
「娘婿は実はマサイの勇士なんです」と自慢するのも悪くはないが、
牛70頭ではねェ……。一生ステーキを食べ続けるには
せめて300頭はもらわないと……。
自宅を中心に半径500メートル以内を行動範囲と決めているボクからすると、
小田実ばりに『何でも見てやろう』と世界を歩きまわる娘の気が知れない。
古人は「戸を出ずして天下を知り、窓をうかがわずして天道を見る」と言った。
師匠の山本夏彦翁が好んで用いた俚諺だが、
ボクもしばしば口にしては相手を煙に巻いている。
箱根の山を越えたことがない、とうそぶく夏彦翁も実は弱年の頃、パリで2年半を過ごしている。
それどころかあの世も旅してみたいと、自殺を2度試み失敗している。
後年、翁は「ロバは旅をしても馬になって帰ってくるわけではない」という西諺を好んで用いた。
何の学問も知識もないものが、海外に遊んでも何ら得るところはない、という意味だが、
ロバとは何を隠そう夏彦翁自身の自嘲した姿だった。
旅をするのはきらいではない。若い頃、ユースホステルの会員だったボクは好んで一人旅をした。
当時、ホステラー(ユースホステルの会員)の数は60万人以上いて、世界一だったこともある。
それが今は5万人ほどに減少、若者のホステリング離れが急速に進んでいる。
ユースホステルには「ミーティング」というものがあった。宿泊者がホールに集まり
場合によっては歌をうたったり踊ったりするのだが、ふつうは円陣を組んだ座談が主流で、
自己紹介に始まり、ホステラー同士の旅の情報交換などがおこなわれた。
これはもう時効だから言ってしまうが、一人旅の女性複数に愛を告白されたこともある。
しかし一方で、このミーティングを煩わしいと感じる人たちもいた。
おそらくホステリング衰退の一因の一つが、この〝他者との交流を好まない人たち〟
の増加にあるだろう。また就寝時間が決まっているといった規則ずくめも敬遠される
理由になっている。ユースホステルの設立主旨の一つは「交流の宿」というもの。
交流嫌いが増えてはそもそも運営が成り立たない。衰退は必然か。
その旅好きが、いつのまにか出不精になり、ついには生活圏を「半径500メートル以内」
に限るようになってしまった。不遜にも(どこへ行っても何を見てもみな同じ)という諦観
というか見極めみたいなものが先立って、ついつい腰が重くなってしまったのである。
旧約聖書の伝道の書にもあるではないか。《天が下に新しきものなし》と。
そんなおやじの生悟りを尻目に、娘2人はヒマさえあれば国内外へ飛び立ち、
女房も近くイタリア詣でを敢行しようとしている。
女たちの開けっぴろげでノーテンキな行動力は、げにすさまじい。
ただし支那と韓国だけは別。あんな無礼千万の国へは当分行くつもりはないという。
恩怨ともに忘れる、というのは日本人の長所でもあり短所だが、千年前の怨みを忘れない、
というのもよいことではない。ソ連のスターリンは第二次大戦末期にいきなり参戦し、
「これでようやく日露戦争の怨みをはらした」と言ったそうだ。支那人も韓国人も
思いは同じだろう。この怨み、晴らさでおかりょうか……ってか?
忘れっぽい人たちと、執念深い人たちの呉越同舟。
極東アジアの雲行きはいよいよキナ臭くなってきた。
←「重いよォ~」と言いながらも笑顔。
あとで首が回らなくなったとこぼした。
ボクなんかいつだって回らない(意味ちがうだろ!)
4 件のコメント:
ROUさん、こんにちは。
ちょっと、真面目に質問です。
かの国は宗教的にはイスラム?なわけないですよね?
土着信仰なんでしょうか?
ちょっと気になったので。
亜◎ちゃんにお時間のあるときにでも聞いといてくださいな。
NICK様
娘に訊くよりパソコンに訊くほうが早いよ。
ウィキペディアによるとクリスチャンが
およそ70%だな。イスラムは6%、土着宗教が
20%くらいだって。
そういえばNICKさんは日本古来の
土着宗教の信者だよね。ボクもどっちかというと土着派だな。
ROUさん、こんにちは。
いや、確かに二次情報としてWikiに価値があるのはわからんではないですが、70%がクリスチャンっていったってはてさてどんなもんなのか、身に感じて来た方の思うところはどんなもんかなぁと。
行ったことないんで、アフリカ大陸には。
あと、南米も。
わたしゃ生粋の土着派でござい。
NICK様
実は帰国早々、ボクはNICKさんと同じ
質問をしてみたんだ。何でも知りたがり屋
だからね。
で、その時言ってたのがキリスト教という返事だった。たまたま行った部落の連中がクリスチャンだったというだけの話だろうけど、
それ以上は聞かなかった。
言語はスワヒリ語が主だったようだけど、
オトナもコドモも英語を解す、とも言ってた。
以上です。
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