2010年10月20日水曜日

羊のような日本人

イギリスの元首相・マーガレット・サッチャーはこう云った。
《私は議論好きだ。論争を愛してさえいる。ただそこに座って、
私に賛同するだけの人間など少しも必要としていない。
彼らの果たすべき役割はそんなことではないはずだ》

憧れの日本へ来て、ちょっぴりガッカリなのは高校の授業が退屈なこと、
と留学生のAlexiaは云う。一方的に先生がしゃべり、生徒は黙ってノートをとる。
あるテーマをめぐって、教師と生徒が丁々発止とわたり合う、
なんて場面はついぞ見られない。いま評判の『ハーバード白熱教室』
のようなエキサイティングな授業風景はのぞむべくもない、というのだ。

Alexiaの嘆きを聞いたときに思ったのは、
(学校の授業というのは、昔も今もちっとも変わってねえな……)
という諦めにも似た思いだった。Alexiaは云う。
「ただ先生の云うことを書き写してるだけでは、自分の考えが育たない」
お説ごもっともであります。そもそも主体的な考えというものは、
言葉にしてしゃべったり書いたりしないことには輪郭が定まらない。

しゃべることよりまず書くこと。漠然と思っている考えも、
書くことによって、くっきりとした像を結び、自分の考えとして定着してくる。

日本人は議論下手とよく云われる。当然だろう。
もともと《和を以て貴しとなす》の精神が、聖徳太子の時代から
連綿と受け継がれてきている。自己を主張するより互いの協調性を
保つことが最も大切であると教えられてきているのだ。
いやむしろ、和を尊ぶDNAが日本人の精神のコアを形成している、
と云ったほうがいいかもしれない。議論下手は日本人の宿痾なのだ。

しかし、この間の日中関係のすったもんだを見ると、
いつまでも《和を以て貴しとなす》と澄ましているわけにもいかなくなる。
謙譲の美徳がいっこうに通じない相手に対しては、
やはりサッチャー流の“I love argument, I love debate.”という
荒っぽい精神が必要に思えるのだ。

日本人が一朝にして議論好きになることはあり得まいが、
一留学生が嘆くような受け身の授業を続けている限り、
悪擦れした中国人やロシア人にはとうてい太刀打ちできないだろう。
ここが思案のしどころか。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

確かに日本人はdebateが駄目、自己主張が下手ですね。”何故?”と考えると、言葉の序列に原因の一つがあるのかなとも思います。最後まで聞かないとYESなのかNOなのか判らずパンチが効きません。外国語は英語しか齧った事がありませんが、最初にYES、NOをはっきり表示してますよね。それにしても、フランスのお嬢さんが指摘しているように学校での授業は一方通行で、もっとdebateの機会・訓練が必要と思われます。嘘かどうかわかりませんが、日本の赤ちゃんが最初に覚える話言葉は”ウマ、ウマ”、
アメリカの赤ちゃんは”Mine(私のものです)”を先ず覚え、直ぐに自己主張を始める由。そんな強かな外国と伍して生きるには相手を言葉でもねじ伏せる力を持たないとね。そこで、外務省の役人を数年間外国に掘り込んで”debate”漬けにして訓練し、自分のcounterpartと親密となって、確り国を代弁してくれると期待したいのですが。。。。

ROU.SHIMANAKA さんのコメント...

匿名様
 コメントありがとう。
日本の赤ちゃんは〝ウマ、ウマ〟で、
アメリカの赤ちゃんは〝Mine〟
をまっ先に憶える、という話は面白いですね。
そういえば、
《役人の子はにぎにぎをよく覚え》
という川柳がありましたね。
要は〝ウマウマ+にぎにぎ派〟対
〝何でも俺のもの派〟との対決ってわけか。
日本人も生きてくのが大変ですね。
僕なんか気が小さくて議論が苦手ですから、
debateなんてとてもとても……。
悲しいかな、興奮すると舌がつっちゃうんです。日本で生きてくしかないですね。