以前、近所の焼き肉レストランでこんな光景を目にした。
親子4人連れの家族が食事をしているのだが、
食事中、一切会話がないのである。
禅堂みたいに食事中の会話を禁止しているわけではなかろう。
この一家には、そもそも「会話」というものが存在しないのだ。
見ると、父親は酒を飲みながら肉をせっせと焼いている。
そのかたわらでは、2人の男の子がゲームボーイに熱中し、
母親は母親で、ケータイのメール打ちに興じている。
肉が焼けると箸をつけるのだが、ゲーム機やケータイの
画面に顔を向けたままで、相変わらず会話はなし。
この不作法を父親は叱ろうともしないから、おそらく
この一家の食事風景は、いつもこんな具合なのだろう。
西諺に曰く、
Spare the rod and spoil the child.(ムチを惜しむと子供をダメにする)
また旧約の箴言集26章にも、
《馬のためにはムチあり、ロバのためにはくつわあり、
愚かなる者の背のために杖あり》とある。
洗濯機の中にわが子を入れて回してしまうような体罰を
〝愛のムチ〟とはいわないが、悪さをした子供の頬を、
思いあまって叩いてしまった経験は僕にもある。
どんな状況下であっても暴力はいけない、
と人権派は言う。が、必ずしも僕はそう思わない。
もし僕が冒頭の焼き肉だんまり一家の長であるなら、肉を食わせる前に、
愚かなる息子たちへまず平手打ちを数発食らわせてやるだろう。
イギリスのパブリックスクールでは悪さをした子供への体罰として
籐のムチで尻を叩くという躾が、1986年、ようやく法律で禁止されたという。
日本では60年以上も前に教育現場での体罰が禁止(1947年、学校教育法第11条)
されているのに、イギリスではごく最近まで法律で認められていたのである。
もっとも、僕は高校時代も生意気だからとセン公によく殴られていた。あの時、体罰が
法律違反だってことを知ってたら、「先生、殴ったりしたら、手が後ろに回りますぜ」
と凄んでやったのに……ああ、返すがえすも残念至極。僕らの時代は、
先生が生徒を殴るのは当たり前で、今とは正反対だった。←どっちも恐いヨ
動物学者のコンラッド・ローレンツも言っている。
《子供の時にガマンを含め、肉体的な苦痛を味わった
ことのない子供は、長じて不幸な人間になる》と。
ところで、体罰を禁止したイギリスの学校の後日譚だが、
ムチ打ちをなくしたら途端に学校が荒れ出して、
体罰復活を望む声が澎湃と湧き起こったという。
子供なんてものは人間になる前の動物で、まだ修行の身なのだから、
ストイックな生活を強いられムチで叩かれるのは当然ではないか。
「躾」という字は武家礼式の用語として生まれた国字
(峠や凪などと同じく日本発祥の漢字のこと)のひとつで、
「身のこなしを美しく」の意だ。美しくなりたかったら、
せいぜいムチで叩かれることだ。←アミタイツにハイヒールのムチも可
5 件のコメント:
「躾」いい字ですね。
「お米」と同じように大事なものですから
「躾」にも「お」をつけましょう。
どういう形であれ、親離れ・子離れするまでは、それでいいと思うのですが。
NICK様
「お米」や「お△☆こ」と同じで大事なものなんだから「躾」にも「お」をつけ「おしつけ」にしてくれ、ですか。たしかに、躾は理屈ではなく無条件の強制ですからね。しつけは押しつけなり、とはよく言ったものです。
NICK様
あのォ……「お△☆こ」は「お新香」のことですからね。誤解のないようにおねがいします。それと「おしつけ」ですが、力をたのんで無理押し、ごり押しするのはいかがかと。これも程度の問題でしょうね。
そうですねぇ、ごり押しといってしまうと否定的な意味合いが強くなってしまいますが、元来、親というものは不条理なものであるということを学んで、それに比べれば社会とはもう常識がある程度は通じる、少しまともだと学べばいいんじゃないでしょうかね?
親からの身体的な暴力は、法律により規制され罰せられているとは思いますが、「お躾」を人権擁護派が大好きな「セクハラ・パワハラ・アカハラ」と同様に法規制することは、未来永劫、無理じゃないかと思います。
NICK様
親というものは不条理なもので、煮ても焼いても食えん、と子どもに絶望的な諦念を起こさせるというのは、たしかに大事ですね。その不条理に逆らうことによって自我が形成されていく。
ところが近頃は、変に物わかりのいい親が多くて、抵抗のし甲斐がない。進んで子のほうにすり寄っていくというのだから、なんとも気味の悪い親たちだ。子どもの自我形成に一定の役割を果たさないのだから、親としては失格ですね。
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