僕は若者嫌いを公言し、自著の中にもそのことを再三書いてきた。
理由のひとつは、彼らが恐ろしく無知だと云うことだ。
彼らは信じがたいくらいものを知らない。なぜって? 本を読まないからだ。
人類がこれまで育み培ってきた知恵を、受け継ぐ気などさらさらないらしいのである。
それでいて一流大学で学んでいる、というのだから笑わせる。
「おたくのお子さんは、どちらの学校へ?」
まず、この種の問いかけを禁句にすべきだろう。
どこの学校で学んだかは問題じゃない。何を学んだかが問題なのだ。
俗に「自由放任は野蛮人をつくる」という。
ケータイがほしいと言えばすぐ買い与え、
わが子がスカートの裾をたくし上げたり、腰パンをはいても見て見ぬふりだ。
結果、姿勢正しくすがすがしい青年の姿を見ることまれになってしまった。
また一方では、兵庫・宝塚で、日頃のしつけが厳しいと、
中3少女が友人と謀り、自宅に放火して母親を殺してしまった。
殺した理由は、ただ「うざいから……」
語彙が貧しければ、精神世界は当然のごとく貧寒で、深くものを考えられない。
考えるという行為には言葉がつきもので、言葉が貧しければ考える中身も
貧しくならざるを得ない。語彙が豊富なら精神世界は豊かで、もちろん
他人への思いやりといったものも、その世界を彩ってくれる。
中3少女にとっては「うざいor not」がすべてで、わずか数百語程度の語彙力で
この世界を推し測っている。『論考』のウィトゲンシュタインも言っている。
The limits of my language means the limits of my world.
(言語の限界は世界の限界を意味する)と。
語彙の貧しさは視野狭窄のエゴイストをつくってしまうのだ。
自分を圧迫するものはすべて「うざったいもの」に分類され、
それらはある日突然、予告なしに消去される。親兄弟も例外ではない。
最近の若者たちに特徴的なのは、まず挨拶ができない。
人づきあいの上での常識が著しく欠けている。
何人かに立ち混じれば、自ずから働くべき心くばりというものが一切ない。
KY(空気が読めない)なんて幼児性丸出しの言葉が流行っているが、
彼らのKY度は想像をはるかに超えている。おまけに、
矜恃、プライド、まるでなし。要は生き方がマジメじゃないのだ。
6月22日付のブログ『哀しきフランス人』の中で、
「フランス人さえいなければ、フランスという国は最高なのに」
などと、悪口を書いてしまった。因果はめぐる小車か、来月、フランスの高校生を
預かるハメになりそうだ。読書とマンガを描くのが趣味という静かな女の子だという。
であるなら、少なくとも「うざい」などという下品な言葉で
世界をひと括りにするような野蛮人ではないはずだ。
人生で一番大事なものは何だろう。
いのち長らえること? それとも金儲け?
僕は美しく生きることだと思っている。
「マジですか?」
「……ウーン」
2 件のコメント:
「良し悪し」に軸足を置く人が絶滅危惧種になりつつあるのは、恐ろしいことです。「快・不快」が自己表現の基準になると、「お互い様」という見返りを意識すらしない心根は、これまた絶滅してしまう危険性をはらみます。昔、ルースベネディクトが日本人の精神的な支柱は「恥も文化」と言ったと思いますが、他者としての自分に対し「おいおい、そんなことして恥かしくないのかい?」と問えるのが、美しい生き方ではないでしょうか?
NICK様
コメントありがとう。たしかに僕たちは絶滅種なんでしょうね。それも危惧されず、滅びにまかされるという、いてもいなくてもどっちでもいいendangered speciesだ。
僕たちの周りにはいろんな道徳的禁止令が布かれていて、あれをしてはいけない、これをしてはいけない、などと言っています。何を基準にそんなことを言うのかというと慣習的な常識が基準になっている。つまり過去の経験から帰納された判断力こそがその拠り所なわけです。しかし、なぜ人を殺してはいけないのか、姦通してはいけないのか、論証してみろといわれたら、みな答えに窮してしまう。
そこで裁判という場で正邪善悪が決せられるのですが、そこではすべて多数決で決められる。ただしその判決が善であり悪であるという論理的根拠はどこにもないのです。美しい生き方もあやしくなってきました。
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