1995年8月15日、戦後50周年の記念式典に際して、
耄碌(もうろく)じいさんが残した「村山談話」では〝侵略〟という文言が使われている。
が、1941年12月8日の天皇陛下による「開戦の詔勅」にはこうあった。
《米英両国は、帝国の平和的通商にあらゆる妨害を加え、
ついに経済断交をあえてし、帝国の生存に重大な脅威を加う…(中略)
帝国の存立、まさに危殆(きたい)に瀕(ひん)せり……帝国は今や、自存自衛のため
蹶然(けつぜん)起(た)って、いっさいの障碍を破砕(はさい)するの外なきなり》
つまり、当時の国家意志はあくまで〝自存自衛〟であった。
開戦に先立ってアメリカでは「排日移民法」が可決。日本人移民がシャットアウトされた。
これに倣ってオーストラリアも白豪主義の立場から同調。カナダとニュージーランドも
日本人移民を拒否した。当時の日本は人口過剰で、しかもこの上なく貧乏だった。
白人諸国への移民の道が閉ざされることで、満州がいよいよ日本の生命線となった。
そしてダメを押すかのように、アメリカは仏印、中国大陸からの全面撤退と
日独伊三国同盟の破棄を求める「ハル・ノート」を突きつけてくる。
日本は絶体絶命のピンチに立たされた。「座して死を待つよりは戦って死ぬべし」
といった気運が生まれたのも当然のことだろう。東京裁判(実体は裁判という名の狂言だった)
でただ1人日本の無罪を主張した(フランス代表のベルナール判事も、実は日本の無罪を一貫して
主張していた、ということを最近知りました)インドのラダ・ビノード・パール判事は、
《「ハル・ノート」のようなものを突きつけられたら、
モナコやルクセンブルクのような小国でも、
矛(ほこ)をとってアメリカに立ち向かうだろう》
と述べたことはあまりにも有名だ。
パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)では、「侵略は悪」とされている。
しかしその「侵略」の定義は、「当事国の自国裁量権に任せる」とあり、
自衛の戦争はその限りではない、としてある。つまり、戦争にはその当事国同士に
それぞれの言い分があって、侵略戦争と言えば侵略戦争だし、自衛戦争と言えば
自衛戦争になってしまう。したがってイラクに攻め入ったアメリカは、自分たちの戦争を
「侵略戦争」と認めていないし、朝鮮戦争の口火を切った北朝鮮も「侵略戦争」とは
一言もいってない。
♪ああ、それなのに、それなのに……1993年、時の細川護熙首相は
《日本は侵略戦争をした》などと愚かな発言をしてしまうのである。
1951年5月3日、アメリカ上院軍事外交合同委員会において、
連合国軍最高司令官のマッカーサー将軍は、
ピッケンルーパー上院議員の質問に答えてこう言っている。
《日本には、蚕を除いては国産の資源はほとんど何もありません。
彼らには綿がなく、羊毛がなく、石油製品がなく、スズがなく、ゴムがなく、
その他にも多くの資源が欠乏しています。それらすべてのものは、
アジア海域に存在していたのです……》
《……これらの供給が断たれた場合には、日本では1000万人から1200万人の
失業者が生まれるという恐怖感がありました。したがって、彼らが戦争を始めた
目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです》
太字のところの原文は以下のとおり。
《Their purpose , therefore , in going to war
was largely dictated by security.》
朝鮮戦争(1950・6~)で指揮を執ったマッカーサーは、北朝鮮や中国と戦う中で、
日本という国が置かれた地政学的な困難さについて理解を深めたといわれている。
結果、大東亜戦争は《日本の自存自衛のための戦争だった》と明確に認めたのである。
私はこの「マッカーサー証言」を全国津々浦々の小中学校、高校等で教えるべき
だと思っている。日本は今もなお「侵略国家」の汚名を着せられ、巨額の賠償金を
むしり取られた。あの戦争が侵略戦争でなければ、支払う必要のない金であった。
「勝てば官軍」というが、いかな敗戦国民でも明らかに間違った
歴史認識を植えつけられるいわれはない。少なくとも自分たちだけは、
やむにやまれず蟷螂の斧を怒らし欧米列強の横暴に立ち向かったのだ、
という誇りと気概を保持していたい。
戦後70周年に当たって、支那や韓国は執拗に〝歴史戦争〟を仕掛けてくるだろう。
俗に「ウソも100回言えば真実になる」といわれている。支那人や朝鮮人が得意の
嘘八百である。そのウソを断固はね返し、歴史戦争に勝ち抜かなくてはならない。
非業の死を遂げた英霊たちのためにも、日本国の名誉を断固守らなくてはならない。
それが先人たちのおかげで平和を享受している我われの、せめてもの務めであろう。
がんばれニッポン!
←誰が呼んだか〝愛しのマック〟ことダグラス・マッカーサー将軍
耄碌(もうろく)じいさんが残した「村山談話」では〝侵略〟という文言が使われている。
が、1941年12月8日の天皇陛下による「開戦の詔勅」にはこうあった。
《米英両国は、帝国の平和的通商にあらゆる妨害を加え、
ついに経済断交をあえてし、帝国の生存に重大な脅威を加う…(中略)
帝国の存立、まさに危殆(きたい)に瀕(ひん)せり……帝国は今や、自存自衛のため
蹶然(けつぜん)起(た)って、いっさいの障碍を破砕(はさい)するの外なきなり》
つまり、当時の国家意志はあくまで〝自存自衛〟であった。
開戦に先立ってアメリカでは「排日移民法」が可決。日本人移民がシャットアウトされた。
これに倣ってオーストラリアも白豪主義の立場から同調。カナダとニュージーランドも
日本人移民を拒否した。当時の日本は人口過剰で、しかもこの上なく貧乏だった。
白人諸国への移民の道が閉ざされることで、満州がいよいよ日本の生命線となった。
そしてダメを押すかのように、アメリカは仏印、中国大陸からの全面撤退と
日独伊三国同盟の破棄を求める「ハル・ノート」を突きつけてくる。
日本は絶体絶命のピンチに立たされた。「座して死を待つよりは戦って死ぬべし」
といった気運が生まれたのも当然のことだろう。東京裁判(実体は裁判という名の狂言だった)
でただ1人日本の無罪を主張した(フランス代表のベルナール判事も、実は日本の無罪を一貫して
主張していた、ということを最近知りました)インドのラダ・ビノード・パール判事は、
《「ハル・ノート」のようなものを突きつけられたら、
モナコやルクセンブルクのような小国でも、
矛(ほこ)をとってアメリカに立ち向かうだろう》
と述べたことはあまりにも有名だ。
パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)では、「侵略は悪」とされている。
しかしその「侵略」の定義は、「当事国の自国裁量権に任せる」とあり、
自衛の戦争はその限りではない、としてある。つまり、戦争にはその当事国同士に
それぞれの言い分があって、侵略戦争と言えば侵略戦争だし、自衛戦争と言えば
自衛戦争になってしまう。したがってイラクに攻め入ったアメリカは、自分たちの戦争を
「侵略戦争」と認めていないし、朝鮮戦争の口火を切った北朝鮮も「侵略戦争」とは
一言もいってない。
♪ああ、それなのに、それなのに……1993年、時の細川護熙首相は
《日本は侵略戦争をした》などと愚かな発言をしてしまうのである。
1951年5月3日、アメリカ上院軍事外交合同委員会において、
連合国軍最高司令官のマッカーサー将軍は、
ピッケンルーパー上院議員の質問に答えてこう言っている。
《日本には、蚕を除いては国産の資源はほとんど何もありません。
彼らには綿がなく、羊毛がなく、石油製品がなく、スズがなく、ゴムがなく、
その他にも多くの資源が欠乏しています。それらすべてのものは、
アジア海域に存在していたのです……》
《……これらの供給が断たれた場合には、日本では1000万人から1200万人の
失業者が生まれるという恐怖感がありました。したがって、彼らが戦争を始めた
目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです》
太字のところの原文は以下のとおり。
《Their purpose , therefore , in going to war
was largely dictated by security.》
朝鮮戦争(1950・6~)で指揮を執ったマッカーサーは、北朝鮮や中国と戦う中で、
日本という国が置かれた地政学的な困難さについて理解を深めたといわれている。
結果、大東亜戦争は《日本の自存自衛のための戦争だった》と明確に認めたのである。
私はこの「マッカーサー証言」を全国津々浦々の小中学校、高校等で教えるべき
だと思っている。日本は今もなお「侵略国家」の汚名を着せられ、巨額の賠償金を
むしり取られた。あの戦争が侵略戦争でなければ、支払う必要のない金であった。
「勝てば官軍」というが、いかな敗戦国民でも明らかに間違った
歴史認識を植えつけられるいわれはない。少なくとも自分たちだけは、
やむにやまれず蟷螂の斧を怒らし欧米列強の横暴に立ち向かったのだ、
という誇りと気概を保持していたい。
戦後70周年に当たって、支那や韓国は執拗に〝歴史戦争〟を仕掛けてくるだろう。
俗に「ウソも100回言えば真実になる」といわれている。支那人や朝鮮人が得意の
嘘八百である。そのウソを断固はね返し、歴史戦争に勝ち抜かなくてはならない。
非業の死を遂げた英霊たちのためにも、日本国の名誉を断固守らなくてはならない。
それが先人たちのおかげで平和を享受している我われの、せめてもの務めであろう。
がんばれニッポン!
←誰が呼んだか〝愛しのマック〟ことダグラス・マッカーサー将軍
2 件のコメント:
嶋中労さま
おはようございます。
50歳にして『ハル・ノート』を知った田舎者です。
大東亜戦争が開戦する前、アメリカは戦争がしたくてしたくて日本に不条理な文章を突き
付けてきたことは頭の片隅にありましたがそれがハル・ノートだったのですね。
労さまが言われているように日本国は国を守るための教育をすべきです。その一歩として
「マッカーサー証言」を全国津々浦々の小中学校、高校等で教えるべきに一票を投じます。
そこで大学のセンター試験と有名大学の入学試験には近代史の出題を多くし、このハル・
ノートを覚えさせるというのはどうでしょうか。これなら近代史は試験に出ないから教え
ないという抜けた先生もいなくなるのでは?
結びに、南禅寺管長故柴山全慶老師の言葉を思い出しました。本からですが。
『誠というものを忘れて、嘘も方便などということを言ってはいけません』
誠のない国は滅びるだけです。またそんな国に虐められたくないものである。
人生死ぬまで学び続けるのかも知れません。
田舎者様
第1次世界大戦後のパリ講和会議で、日本は国際連盟の規約を作るに当たって、「人種差別撤廃」の規約を盛り込むよう提案しました。しかし、圧倒的な反対にあって否決されてしまいました。
議長だったアメリカのウィルソン大統領は、
「このような重要問題の決定は全会一致が必要」などと、まやかしの論理をふりかざし否決してしまいました。
パリ講和会議から8年後の1927年の日付けで、
オーストラリアはニューサウスウェールズ州立図書館に残された資料には、「今日の収穫、アボリジニ17匹」とあったそうです。
当時のオージーたちは、日曜日になると、
みんなでアボリジニ狩りをしていたのです。
オーストラリアはつい最近まで「白豪主義」(1901~1973)を掲げ、白人最優先の政策の中で、非白人たちを排除し続けました。日本人ももちろん「非白人」に数えられていました。
長い人類の歴史の中で、たかだか近・現代を制しただけなのに、欧米の白人たちは全人類史を
制してきたかのような顔をしてふんぞり返っています。笑止であります。
日本との戦争を決意したアメリカのルーズベルト大統領は、激しい人種差別主義者で、日本人嫌いでも有名でした。
ボクは思うのです。あの大東亜戦争とは何だったのかと。世界史の長いスパンで見れば、500年におよんだ西欧列強による有色人種支配からの解放戦ではなかったのか、と。
あの国際連盟規約で葬られた「人種・民族は平等」という文字は、あれから29年後の1948年、
国連総会で「世界人権宣言」として採択されました。
日本の悲願は、戦争の敗北と200数十万人の同胞の命と引き換えに達成されたのです。
こういう歴史こそ子供たちに伝えていきたいものですね。
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