アル中ぎみのおじさん4匹で横浜を散策してきた。
和光市駅から横浜中華街駅までは副都心線1本で行ける。
急行でわずかに1時間。車内でおしゃべりしているうちに着いてしまう。
途中、日吉で母校KO大学を遠望したが、何の感慨もおこらなかった。
11:30に横浜・中華街着。相変わらずキンキラキンの趣味の悪さが目立つ。
支那人というのは赤色と金色がお好きなようで、街中が成金趣味の巣窟みたい
な様相を呈している。色に関しては日本人と支那人&朝鮮人はまったく趣味が
異なっていて、おそらく彼らは死んでも〝わび・さび〟なんて理解できないだろう。
まあ、そんなことはどうでもいい。
われらが目的は小籠包をつまみながら酒を飲むこと。
それも上等な紹興酒を浴びるほど飲むことだ。
案の定、〝toriaezuビール〟を飲み干したあとは、
紹興酒の瓶がどんどん空になっていった。
どいつもこいつもウワバミみたいに底が抜けているから、
いくらでも入ってしまう。これでは勘定の際に酔ってではなく、
請求額の大きさに目をまわし腰を抜かしてしまうだろう。
というわけで、ひとまず潮風に吹かれて頭を冷やそうと、山下公園に向かった。
この公園には氷川丸が繋留されている。氷川丸は1930年~1960年まで就航した
貨客船で、北太平洋航路(アメリカ・シアトル港まで)を往復した。戦時中は日本海軍
に徴用され病院船に、そして戦後は引き揚げ船として活躍した。3度機雷にふれたが
奇跡的に生還、戦後、北太平洋航路に復帰したが、昭和35年に除籍され、
博物館船として山下公園に繋留されることになった。
横浜に住む次女にこの逸話を話してやったら、
「へーえ、そうなんだ。まったく知らなかった」と驚いていた。
次女は高校2年の時にアメリカへ留学し、西海岸のシアトルでホームステイした。
そのホストファミリー夫妻が、6月に予定している次女の結婚式に
わざわざ駆けつけてくれる。
「式の前に山下公園を案内して氷川丸とシアトルとの深い関わりについて
話してあげようかな……」
と次女。それはよい考えかもしれないな。
ホストファミリーのPhilとTeresaはきっと感激するんじゃないかしら。
氷川丸を見上げながらそんな感慨にふけっていたら、すっかり酔いも冷めてしまった。
「和光に帰って飲みなおそうか?」
誰からともなく、そんな提案が出たので、
4匹のおじさんは、帰宅ラッシュの前に横浜を脱出することにした。
地元に帰ってきたら、さっそく某飲み屋へ。仲間内では〝ゲロゲロ酒場〟と呼んでいる
店なのだが、なかなかどうして、つまみなどは気が利いたものが出てくる。
そこではホッピーをゲロゲロになるまで飲み、酔余の勢いで「河岸を変えようぜ!」
ということになり、またまたハシゴすることになった。
さすがに3軒目は遠慮した。他の3匹はおぼつかない足もとながら、
何やら奇声を発しつつネオン街に消えていった。やれやれ。
それにしてもよく飲んだな。この4匹のおじさんは、そもそも適正酒量というものを
知らないのだから、ただただ呆れるばかり。あとで奥方たちにこっぴどく叱られるのは
目に見えている。♪ああ、それなのに、それなのに、チョイト……
持ったが病なんでしょうね、バカは死ななきゃ治らない、のであります。
←潮風に吹かれながら老後の生き方について
しみじみ考える酔っぱらいのおじさん。
(ああ、俺の人生っていったい……)
後方に見えるのは横浜ランドマークタワー
和光市駅から横浜中華街駅までは副都心線1本で行ける。
急行でわずかに1時間。車内でおしゃべりしているうちに着いてしまう。
途中、日吉で母校KO大学を遠望したが、何の感慨もおこらなかった。
11:30に横浜・中華街着。相変わらずキンキラキンの趣味の悪さが目立つ。
支那人というのは赤色と金色がお好きなようで、街中が成金趣味の巣窟みたい
な様相を呈している。色に関しては日本人と支那人&朝鮮人はまったく趣味が
異なっていて、おそらく彼らは死んでも〝わび・さび〟なんて理解できないだろう。
まあ、そんなことはどうでもいい。
われらが目的は小籠包をつまみながら酒を飲むこと。
それも上等な紹興酒を浴びるほど飲むことだ。
案の定、〝toriaezuビール〟を飲み干したあとは、
紹興酒の瓶がどんどん空になっていった。
どいつもこいつもウワバミみたいに底が抜けているから、
いくらでも入ってしまう。これでは勘定の際に酔ってではなく、
請求額の大きさに目をまわし腰を抜かしてしまうだろう。
というわけで、ひとまず潮風に吹かれて頭を冷やそうと、山下公園に向かった。
この公園には氷川丸が繋留されている。氷川丸は1930年~1960年まで就航した
貨客船で、北太平洋航路(アメリカ・シアトル港まで)を往復した。戦時中は日本海軍
に徴用され病院船に、そして戦後は引き揚げ船として活躍した。3度機雷にふれたが
奇跡的に生還、戦後、北太平洋航路に復帰したが、昭和35年に除籍され、
博物館船として山下公園に繋留されることになった。
横浜に住む次女にこの逸話を話してやったら、
「へーえ、そうなんだ。まったく知らなかった」と驚いていた。
次女は高校2年の時にアメリカへ留学し、西海岸のシアトルでホームステイした。
そのホストファミリー夫妻が、6月に予定している次女の結婚式に
わざわざ駆けつけてくれる。
「式の前に山下公園を案内して氷川丸とシアトルとの深い関わりについて
話してあげようかな……」
と次女。それはよい考えかもしれないな。
ホストファミリーのPhilとTeresaはきっと感激するんじゃないかしら。
氷川丸を見上げながらそんな感慨にふけっていたら、すっかり酔いも冷めてしまった。
「和光に帰って飲みなおそうか?」
誰からともなく、そんな提案が出たので、
4匹のおじさんは、帰宅ラッシュの前に横浜を脱出することにした。
地元に帰ってきたら、さっそく某飲み屋へ。仲間内では〝ゲロゲロ酒場〟と呼んでいる
店なのだが、なかなかどうして、つまみなどは気が利いたものが出てくる。
そこではホッピーをゲロゲロになるまで飲み、酔余の勢いで「河岸を変えようぜ!」
ということになり、またまたハシゴすることになった。
さすがに3軒目は遠慮した。他の3匹はおぼつかない足もとながら、
何やら奇声を発しつつネオン街に消えていった。やれやれ。
それにしてもよく飲んだな。この4匹のおじさんは、そもそも適正酒量というものを
知らないのだから、ただただ呆れるばかり。あとで奥方たちにこっぴどく叱られるのは
目に見えている。♪ああ、それなのに、それなのに、チョイト……
持ったが病なんでしょうね、バカは死ななきゃ治らない、のであります。
←潮風に吹かれながら老後の生き方について
しみじみ考える酔っぱらいのおじさん。
(ああ、俺の人生っていったい……)
後方に見えるのは横浜ランドマークタワー
2 件のコメント:
「氷川丸ネタ」ですが、お嬢様が派遣生となられたAFSの一期生8名の先輩方はこの氷川丸で米国へ行かれました。確か五期生までが氷川丸であったと聞かされた記憶があります。昨今では帰国生の中でその話題も出ませんが、昭和末期、AFS日本協会内部では、「氷川丸世代」と呼ばれ、「彼等こそがホンモノ」と言われておりました。ミスター円の榊原英資氏を始め、渡辺来三郎氏、尾原蓉子氏、川口順子氏等々がその世代に属しておられます。
迂塞齋様
ガハガハと品のない笑い方をする〝ミスター円〟の榊原氏がAFSの大先輩とは知りませんでした。
氷川丸世代がホンモノで、その後の世代は
ニセモノというのなら、とても分かりやすい分類法なのですが、迂塞齋さんを見てると、とてもニセモノとは思えません。
むしろ榊原氏や川口順子氏などより、
よっぽどマシじゃあないかと、
つい肩を持ちたくなってしまうのです。
でも氷川丸がAFSの留学生も運んでいた、
という事実は新鮮な驚きでした。
さっそく次女に知らせておきます。
がんばれ、ニセモノ世代!
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