「紀元節」を「きもと節」(←民謡かよ!)と読むバカ者たちに、歴史教育の重要性を説いても、
馬の耳に念仏だろうが、自国の歴史を正しく学ばなければ、生きる上で大切なプライドや
アイデンティティ(自分は何者か、ということ)を涵養(かんよう)することなどできっこない。
歴史教育というと、すぐ古墳時代はどうだとか奈良平安はこうだとか薀蓄を垂れる御仁が
おられるが、そんなものはずっとずっと後回しでいい。大事なのは日本文化の祖型が形作ら
れた室町以降で、とりわけ近現代史はみっちり学ばなければならない。現代から昭和、
大正、明治、江戸時代へと遡り、もし学期末に余った時間が少しでもあれば、
古代、中世の話にちょこっと触れるくらいがちょうどいい。
埴輪がどうだとか縄文式土器がすべった転んだ、などという遠い昔の話をされても
いっこうに関心が向かないが、自分の父や祖父、曾祖父、そのまた高祖父がどんな時代に
生き、どんな青春を送ったのかとなると興味津々、詳しく調べてみたくなる。
だから歴史は、家系を辿るみたいに近現代史から過去に遡って教え学ぶのが一番いい。
歴史は単に過去に起こった事実の羅列などではない。
自分たちの先祖が日本人として何を考え、何をしてきたのか。
そのことに思いを致し、現代に生きる自分たちの考えに重ね合わせることが
なければ、何の意味もない。歴史を学ぶということは、即現代を生きることだからだ。
でなければ「歴史」なんて、それこそ役立たずの〝暗記物〟に堕してしまう。
「歴史」を〝暗記物〟だなんて、つまらないことをいったい誰が言ったんだ?
名著『武士道』には日本人の〝美しい生き方〟が格調高く歌い上げられている。
たとえば日本女性の貞操が危機に瀕した時、どうなったか?
彼女たちは迷いなく自害したのである。
《貞操は武士の婦人の主要な徳であり、生命以上にこれを重んじたのである》。
自害の作法を知らないことは彼女たちの恥辱だった。
日本の歴史を学んでいると、この国の住人が「ただ命長らえるだけが人生の目的ではない」
と考えていたことに思い至る。現代では「人の命は地球より重い」などと人命尊重を優先
するが、命より尊いものだってあるはずだ。貞操を守るために従容と自害してしまう凛々しい
日本女性。ボクは「志」や「誇り」こそ命より尊いものと信じている。
ポーランドやフィンランドはロシアやドイツのような強国に絶えず国土を蹂躙され、
支配されてきた。クネクネが治める韓国も長く支那の属国であり続け、輝かしい
歴史など薬にしたくともありはしない。しかし前者のポーランドやフィンランドは、
大国に支配されながらもアイデンティティを失うことはなかった。祖国への誇りが、
心の支えになっているのである。つまり抵抗の歴史がわずかにアイデンティティを支えている。
人間はプライドを失ったら生きてはいけない。だから、支那や韓国は自国の歴史を
改竄(かいざん)してでも、自国民にプライドを植えつけようとしている。
ウソも1000回言えば真(まこと)になる、と信じて……
先の大戦で、ドイツが降伏した後に出た「ニューヨークタイムズ」の紙面にはこうあったという。
《ドイツは非常に優秀な民族だから、ナチスは道を間違ったけれど、
国を立派に再建できるし、われわれも協力の手を差しのべたい》
一方、日本が降伏した時の同紙の論調はどうだったか。
《この醜くて危険な怪物は、倒れはしたがまだ生きている。われわれはアメリカや
世界の安全平和のために、この怪物を徹底して解体しなければならない》
片や〝非常に優秀な民族〟で、こなた〝醜くて危険な怪物〟である。
この扱いの違いはどうだ。そこに一片のレイシズム(人種差別)もなかった、
と断言できるか? (ミュンヘン在住のSさん、このブログ読んでる?)
南海の〝泥(でい)〟のように、この醜い怪物を骨抜きにしてしまおう――。
それが有名な〝War Guilt Imformation Program〟だ。要はマッカーサーが
対日政策として課した「日本弱体化政策」である。朝日新聞以下、左翼系メディアや
日教組(日本教職員組合)は、この政策に骨がらみで染まり、今もなおマッカーサーの
〝従順なる僕(しもべ)〟を自任している。
敗戦によって何が失われてしまったのか――。
ボクは日本人としての「尊厳」と「誇り」が著しく傷つけられ失われた、と思っている。
だから、記者会見場で子どもみたいに〝号泣〟するお粗末な県議が出たり、
満座の中で笑われても平気の平左、土下座だって平気でするような恥知らずな日本人
が現れてくる。世も末である。
←このバカ議員め!
舌噛んで死んでしまえ!
ついでに言うと、
この髪の毛、かつらです。
馬の耳に念仏だろうが、自国の歴史を正しく学ばなければ、生きる上で大切なプライドや
アイデンティティ(自分は何者か、ということ)を涵養(かんよう)することなどできっこない。
歴史教育というと、すぐ古墳時代はどうだとか奈良平安はこうだとか薀蓄を垂れる御仁が
おられるが、そんなものはずっとずっと後回しでいい。大事なのは日本文化の祖型が形作ら
れた室町以降で、とりわけ近現代史はみっちり学ばなければならない。現代から昭和、
大正、明治、江戸時代へと遡り、もし学期末に余った時間が少しでもあれば、
古代、中世の話にちょこっと触れるくらいがちょうどいい。
埴輪がどうだとか縄文式土器がすべった転んだ、などという遠い昔の話をされても
いっこうに関心が向かないが、自分の父や祖父、曾祖父、そのまた高祖父がどんな時代に
生き、どんな青春を送ったのかとなると興味津々、詳しく調べてみたくなる。
だから歴史は、家系を辿るみたいに近現代史から過去に遡って教え学ぶのが一番いい。
歴史は単に過去に起こった事実の羅列などではない。
自分たちの先祖が日本人として何を考え、何をしてきたのか。
そのことに思いを致し、現代に生きる自分たちの考えに重ね合わせることが
なければ、何の意味もない。歴史を学ぶということは、即現代を生きることだからだ。
でなければ「歴史」なんて、それこそ役立たずの〝暗記物〟に堕してしまう。
「歴史」を〝暗記物〟だなんて、つまらないことをいったい誰が言ったんだ?
名著『武士道』には日本人の〝美しい生き方〟が格調高く歌い上げられている。
たとえば日本女性の貞操が危機に瀕した時、どうなったか?
彼女たちは迷いなく自害したのである。
《貞操は武士の婦人の主要な徳であり、生命以上にこれを重んじたのである》。
自害の作法を知らないことは彼女たちの恥辱だった。
日本の歴史を学んでいると、この国の住人が「ただ命長らえるだけが人生の目的ではない」
と考えていたことに思い至る。現代では「人の命は地球より重い」などと人命尊重を優先
するが、命より尊いものだってあるはずだ。貞操を守るために従容と自害してしまう凛々しい
日本女性。ボクは「志」や「誇り」こそ命より尊いものと信じている。
ポーランドやフィンランドはロシアやドイツのような強国に絶えず国土を蹂躙され、
支配されてきた。クネクネが治める韓国も長く支那の属国であり続け、輝かしい
歴史など薬にしたくともありはしない。しかし前者のポーランドやフィンランドは、
大国に支配されながらもアイデンティティを失うことはなかった。祖国への誇りが、
心の支えになっているのである。つまり抵抗の歴史がわずかにアイデンティティを支えている。
人間はプライドを失ったら生きてはいけない。だから、支那や韓国は自国の歴史を
改竄(かいざん)してでも、自国民にプライドを植えつけようとしている。
ウソも1000回言えば真(まこと)になる、と信じて……
先の大戦で、ドイツが降伏した後に出た「ニューヨークタイムズ」の紙面にはこうあったという。
《ドイツは非常に優秀な民族だから、ナチスは道を間違ったけれど、
国を立派に再建できるし、われわれも協力の手を差しのべたい》
一方、日本が降伏した時の同紙の論調はどうだったか。
《この醜くて危険な怪物は、倒れはしたがまだ生きている。われわれはアメリカや
世界の安全平和のために、この怪物を徹底して解体しなければならない》
片や〝非常に優秀な民族〟で、こなた〝醜くて危険な怪物〟である。
この扱いの違いはどうだ。そこに一片のレイシズム(人種差別)もなかった、
と断言できるか? (ミュンヘン在住のSさん、このブログ読んでる?)
南海の〝泥(でい)〟のように、この醜い怪物を骨抜きにしてしまおう――。
それが有名な〝War Guilt Imformation Program〟だ。要はマッカーサーが
対日政策として課した「日本弱体化政策」である。朝日新聞以下、左翼系メディアや
日教組(日本教職員組合)は、この政策に骨がらみで染まり、今もなおマッカーサーの
〝従順なる僕(しもべ)〟を自任している。
敗戦によって何が失われてしまったのか――。
ボクは日本人としての「尊厳」と「誇り」が著しく傷つけられ失われた、と思っている。
だから、記者会見場で子どもみたいに〝号泣〟するお粗末な県議が出たり、
満座の中で笑われても平気の平左、土下座だって平気でするような恥知らずな日本人
が現れてくる。世も末である。
←このバカ議員め!
舌噛んで死んでしまえ!
ついでに言うと、
この髪の毛、かつらです。
2 件のコメント:
愚生はウヨクではありません。天皇陛下の御為に吾身を捧ぐなどということは絶対にありえません。しかし、「天皇家を世界遺産に」という運動をしようかと考えております。2674年に亙る王朝は地球上どこにも存在していないのですから。
その我が国が世界に誇れる歴史を改竄する愚者は許せませんな。ただ、悪い話ばかりではなく、愚生が「趣味10%、ボランティア90%」でやっている学習塾で、先日、期末考査対策の授業をやりましたところ・・・中学三年生の試験範囲は第一次世界大戦~第二次世界大戦(愚生はこれを「偶然同時に起こった大東亜戦争と欧州戦争」と呼んでおります)後のGHQまででした。どうやら昨今では、近代史をちゃんとやる風潮が少しづつ出来上がっているようです。
歴史は暗記物では無く、麗しい物語である・・・こうして、数少ない愚生の生徒達はこの先、幸せな人生を送れるのであります。
尚、一応はITギョーカイに身を置いているので、十数年前の「2千年問題」にはそれなりの苦労がありましたが、その数年前から和暦・西暦を使用せず、紀元〇〇年でシステムを組み替えていたので、愚生の顧客は未来永劫困ることはないのです。はっはっは・・・
迂塞齋さま
皇紀などといっても、今の人には何のことやら、サッパリでしょうな。
ちょいと補足すると、明治期、新政府は神武天皇即位の年を西暦紀元前660年と定め、皇紀元年としました。
昭和15年(1940年)は皇紀2600年で、この年は記念祝賀行事が全国各地で繰り広げられたのです。
皇紀2700年までは、あと26年。
ボクは生きていれば米寿です。
たぶんムリでしょうね。
迂塞齋さん、ボクの代わりに提灯行列で
お祝いしてください。
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