2010年8月5日木曜日

夢見る全共闘世代

『論語』の為政篇には「吾レ十有五ニシテ学ニ志ス」で始まる
有名な一節がある。四十ニシテ惑ワズ。五十ニシテ天命ヲ知ル。
六十ニシテ耳順(みみした)ガウ。七十ニシテ心ノ欲スル所ニ従ッテ
(のり)ヲコエズ 

六十で人の言葉が素直に聞かれ、七十になると思うがままに行動しても、
道を外れることはない――と孔子様は曰うのだが、そんな聖人君子がホンマに
おるんかいな、という感じがする。

少なくとも僕の周囲には「不惑」も「天命」も「耳順」も見当たらない。
耳順は何を聞いても本気で腹を立てない、という意味らしいが、
腹を立てないことがそれほどの美徳なのだろうか。

そんな君子然とした謹厳居士とつき合っても、おもしろくも何ともないではないか、
といっこうに天命(道徳的使命か?)をわきまえず、
自他共に認めるかんしゃく持ちのボクなんかは思ってしまう。
不惑も天命も耳順も、みんなクソを食らえ、なのである(孔子様、ゴメンナサイ)。

因果なもので、いわゆる全共闘世代も「耳順」と呼ばれる年齢になってしまった。
彼らはかつて、高らかにインターを歌い、ノヴァーリスは『青い花』の主人公みたいに、
見果てぬ夢(革命ごっこともいう)を追い求めた。そして今も、理想だけを追っかける
甘っちょろい精神構造は少しも変わっていない。
そう、ドイツ浪漫主義は左翼進歩主義と根っこは同じなのだ。

「二十歳までに左翼に傾倒しない者は〝情熱〟が足りない。
しかし二十歳を過ぎて、なお左翼に傾倒している者は〝知能〟が足りない」
と言ったのは、さてチャーチルだったか、それともディズレーリだったか……。
いずれにしろ、けだし名言というべきだろう。

ボクの周りには、その〝知能が足りない〟おっさんたちがウヨウヨいる。
彼らにはもちろん「耳順」などというご大層なものには縁がなく、
相変わらず夢見がちな瞳をして、かつて熱狂した学園闘争を懐かしげにふり返っている。
「あの時代はよかったな。俺たちは手当たりしだいに権威という権威を
ぶっ壊してやったんだ。そういえば機動隊と渡り合った時の同志たちの瞳は
清らかに澄んでたっけなァ……(死ぬまで言ってろ!)」

文芸評論家の福田恆存は言ったものだ。
「反体制という体制の許される世界での甘え。
反権力という権力欲の許される世界での甘え」と。
つまり「平和なときの平和論」と同じで、あくまで
身の安全が保証された上での反体制・反権力なのである。
精神構造は駄々っ子のそれと少しも変わらない。

日大全共闘のカリスマ議長・秋田明大は、『全共闘白書』
編集委員会のアンケートに回答を寄せているという。
Q「もう一度あの時代に戻れたら運動に参加しますか?」
A「しない。アホらしい」
われらが秋田メイダイさんよ! あんたは正しいぜよ。





←あのアキタメイダイも、
全共闘運動をふり返って、
「アホらしい」だって。
まともだな、こいつだけは

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