2016年4月25日月曜日

我こよなくロクデナシを愛す

ボクは徹頭徹尾リアリストだが、実は理想主義者でもある。
また「性善説」にも一理あると思っているし、「性悪説」にも共感する。
人間観や人生観なんて人それぞれで、ボクのそれを煎じ詰めると、
《人間なんてみな欲深で助平で自慢話の好きなロクデナシばかり。
でもそのロクデナシが時々よい行いをする。小さな花に涙したりする。
ゆえにロクデナシを愛す。人間って面白い!》ということになる。

人間ほどおもろいものはない――これがボクの追い求める変わらぬテーマだ。
だから拙著のどれにもこのテーマが通奏低音のように流れている。

おいしい儲け話をもちかけると、小金を貯め込んだ老人たちは「どれどれ」
とばかりに身を乗り出す。明らかにマルチ商法っぽい手口なのだけれど、
欲深な目は曇っていて、その正体が見抜けない。詐欺と判ったときは
すでに遅く、苦しまぎれに「被害者の会」などを結成したりするが、
世間の目は冷たい。
「欲の皮が突っ張っていただけの話。自業自得ってやつよ」

男も女も助平だというのは当たり前で、助平でなければ人類はとっくの昔に
滅びている。歳を取っても助平は変わらず、そのことは市民プールなんかに
行くとよく分かる。高齢者向けの水泳教室は元気なジジババであふれかえり、
インストラクターが若いきれいなネエちゃんだったりすると、ジジたちの目が
ギラギラと燃えさかる。ボクはその光景を見るにつけ、
「ありゃあ、水泳教室じゃなくて〝回春教室〟だな」
と秘かにつぶやくのだが、
(あと10年もしたら、おれも仲間に入れてもらおう)
などと虫のいいことを考えている。助平では人後に落ちない。

ボクの苦手なのは自慢話の好きな人。
この手の人は隠居の身であるのに、どこそこの一流大学出で、
上場一部の会社に入り、億の単位の商談をまとめたこともあるのだよ、
などと、問わず語りにしゃべり出す。自分はそのへんに転がっている
ただの年寄りとは違うんだ、年金だってたっぷりもらっているし、
月に何回かはゴルフにも行ってる。それに、孫が東大に受かったんだよ。
どうだ、畏れ入ったか?

ボクの敬愛する斎藤緑雨はこんな警句を吐いている。
老者の道徳は、壮者の香水に異ならず
わかる、わかる……問題は香水ほどの実効があるかどうかだな。

小林秀雄『年齢』という小文の中で、こんなふうに述べている。
私は、若い頃から経験を鼻にかけた大人の生態というものに鼻持ちがならず、
老人の頑固や偏屈に、経験病の末期症状を見、これに比べれば、
青年の向こう見ずの方が、むしろ狂気から遠い》と。
小林には賛成するけど、実のところ、
無知な青年の驕慢も鼻持ちならないんだよね(笑)。

《年寄りのバカほどバカなものはない》と師匠の夏彦は言った。
人生教師になるなかれ――人は歳をとると教えたがる傾向があるが、
歳なんて勝手に押し寄せてくるもので、教える資格が自動的に生ずるわけではない。
孟子も言っている。
人の患いは好んで人の師となるにあり
2000年も前の言葉が今も相変わらずなのだから、
人間は千年も万年もずっとこのままだろう、という諦めに近い思いはある。

ボクは頑固で偏屈なロクデナシだが、人生教師になろうとは思わない。
たまに説教くさい話もするが、努めてくさみを消すように気をつけているし、
いつだって含羞のオブラートに包むようにしている(つもり)。

偉そうに話をする人には、心の中で、
「それがどうした!」
と応じている。英語でいうなら〝What about it ?
緑雨に云わせると、この一句で
たいがいの議論は果てるという。ぐうの音も出ぬと云う。




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「What about it ? それがどうしたんだよ!









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