2014年2月22日土曜日

ぬるま湯大っきらい

日本では「忌憚のない意見」を発することはタブーとされている。
「今夕は無礼講ですから、大いに楽しみましょう」
などという上司の言葉を真に受けて、部長の肩を叩いたり、
「ハゲおやじ」などと放言したら、左遷されることは必至だ。
「無礼講」というのは社内の危険分子や不満分子、仕事のできない
お調子者を洗い出すための巧妙な罠なのだ。

ボクはこどもの頃からトモダチがいなかった、と再三書いている。
実は今でもいない。飲み仲間とか遊び仲間、仕事仲間はいっぱいいるが、
真のトモダチはいない。いなくても別段痛痒を感じないから、
今のままで充分だと思っている。

デリケートな日本人には「公理」ともいうべきルールがある。
他人を傷つけず、自分も傷つかない」というルールである。
したがって、日本人は他人から注意されたり、痛いところを突かれたりすると
その中身が正しくても、注意されたそのことを嫌い、注意した人間を激しく怨む。
相手を思いやるという「公理」に反したからである。

ボクは外国で仕事中にこれをやってしまい、仲間のひとりが離反した。
後悔はしていないが、やり方がまずかったという反省はある。

こうした公理がまかり通っている国では、相手の欠点を指摘したり注意することに
ついためらいを感じてしまう。勇気も必要だ。で、蛮勇をふるって注意すると、
案の定、相手は屈辱と感じ、ヘソを曲げてしまう。友情にヒビが入ってしまう。
自己愛の強い相手だと、こじれた糸がなかなか元に戻らない。

そんな事態を招きたくないから、みんな黙っている。わが身可愛さに、
ほんとうの気持ちを偽り真実を押さえこんでしまう。

「対立を避ける」ということは大事なことかもしれない。
が、言いたいこともいえず、互いに「いいね!」「いいね!」
と褒め合っている〝ぬるま湯〟みたいな関係は、
どこか不自然で薄気味がわるい。

真実に面と向かい合う勇気のないものに、明るく健全な未来などない。
酒や趣味の世界に逃げ込んでも、所詮は惰弱な心のシェルターに過ぎず、
いつまでたっても問題は解決しない。戦うべき時に戦わなかったら、
いったいいつ戦うのだ、という話になる。怯懦は恥だ
対立を避け、和合ばかりを求めたがる精神は「惰弱な精神」と知るべし。

人間の本性は自己愛である。人間は息をひきとるまで、
生涯をかけて私を認めてくれ、私を認めてくれと、
声なき声で叫び続ける可憐な生き物なのだ》(『人間通』より)

自己愛もいいが、ゆきすぎるとみっともない。
愛するに足る〝自己〟かどうか、胸に手を当ててよーく考えてみるといい。

トモダチなんて七面倒くさいものは要らない。
酒の相手をしてくれるつかの間の仲間がいれば、
もうそれで充分だ。





←美しき〝ナル男〟ちゃん。
もちろんおじさんたちにもナル男はいっぱいいる。
誰にでもナル男の要素はあるが、
あまりに自己陶酔してしまうと薄ッ気味わるい。
おいらも気をつけねば……(笑)


 

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