スペインはマドリッドの「サラカイン」という三つ星レストランを取材した時、
「あなたは〝新スペイン料理の旗手〟などと呼ばれていますよね」
とバスク出身のシェフに水を向けたら、途端に不機嫌そうな顔になり、
「そんな軽薄な呼び方はやめてくれ」と叱られてしまった。
「それをいうならバスコ・ナバーラ料理と呼んでほしい」と逆に注文をつけられた。
185センチ、110キロという巨漢。バスク人は総じてお人好しの巨人揃いと聞くが、
ひとたび民族問題に立ち入ると、途端に神経質になる。
バスク独立運動の話は知っておろうが、バスク人はスペイン人と一緒くたに
括られることを殊の外きらう。スペインは人種がモザイク状に入り混じった国。
バルセロナのあるカタルーニャ地方もバスク同様、スペインからの独立を願っている。
サッカーのレアル・マドリッドとFCバルセロナとの戦いを見てくれ。
球場は異様な興奮に包まれる。あれは異民族同士が互いのアイデンティティを賭けて
戦っているからだ。まるで国際試合を見るようである。
日本人が「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」の画一的イメージで括られるのをきらうように、
スペイン人も「闘牛、パエリア、フラメンコ」などとひと括りにされるのを毛嫌いしている。
スペイン人は誰もみなフラメンコを踊っているのだろう、などとつい想像しがちだが、
フラメンコはスペイン南部のアンダルシア地方(ゲルマン系ヴァンダル人の国の意)
の民族舞踊で、もともとはジプシー(ロマ人)の踊りである。
総じてジプシー嫌いのスペイン人は、フラメンコと聞いただけで眉をひそめる。
ノーテンキな日本人はそんなこととはつゆ知らず、
スペイン舞踊=フラメンコだと思いこんでしまっている。
日本人はみな阿波踊りを踊っている、と思われるのと同じである。
一方、イギリスではスコットランドの独立運動が急速に現実味を帯びだしている。
例によって多くの日本人はイギリス人はみな同じと思っているが、
内実は言語も民族も違う国家の連合体である。
いわゆるイングランド人はゲルマン系のアングロ・サクソン人だが、
スコットランドやウェールズはケルト系、すなわち先住民族の側で、
後発のアングロ・サクソンによってその一部は陸地から蹴落とされ、
対岸のフランスに逃れた。ブルターニュ(ブルトン)と呼ばれる地方がそれで、
ケルト系ブルトン人の住みついた場所である。ブルターニュ人は「頑固もの」
が多いといわれるが、たぶんケルトの血だろう。
俳優のショーン・コネリーはイギリス人と呼ばれるのをひどくきらう。
自分は(憎っくき)イングランド人などとは違う、(誇り高き)スコットランド人だ――。
そんな気概があるのか、映画出演料の多くを独立運動の資金に捧げているという。
スコットランド人が独立したがっているのは1960年代に北海油田が発見されたからだ。
いまは石油収入のほとんどすべてをイギリスに持っていかれてしまうが、
独立を果たせば石油輸出国として多くの外貨収入が見込める。
500万の人口を養うには十分、と踏んでいるのだ。
が、それをやられたらイングランド人の顎は確実に干上がってしまう。
余談だが、大英帝国はグレート・ブリテンと呼ばれる。この〝大〟は大日本帝国と同様、
偉大なるの意かと思ったらそうではないらしい。フランスに逃れた小ブリテンから見て、
相対的に大きいから大ブリテンと呼んでいるだけのことらしい。目からウロコである。
それにしても、国連の加盟国が増えたものだ。去年加わった南スーダンを
入れると、今や193ヵ国を数える(発足時は51ヵ国)。
セルビア・モンテネグロがセルビアとモンテネグロに分離したように、
いまや民族自決が大流行で、どこもかしこも独立したがっているように見える。
普天間問題で揺れる沖縄も、もともとは琉球王国という独立国家だった。
ヤマトンチュが無理難題ばかり押しつけると、ウチナンチュが癇癪を起こし、
ついには独立を宣言するかもしれない。
解決法はただ1つ。憲法を改正し、ささやかな核で武装する。
そして米軍にはお引き取りねがい、基地は国軍基地に換わる。
ついでに自前の原潜を沖縄近海に数隻遊弋させておけば、
中国海軍はまず動けなくなるだろう。
これで国民の誇りが取り戻せるのなら安いものだ。
※追記
明治期の日本政府が自らを「大日本帝国」と命名したのは、当時一流国だったイギリスが
「グレート・ブリテン」と名乗っていたからだ。これは単にフランスの〝小ブリテン〟に比べ
ブリテン島が相対的に大きかったから〝グレート〟といっただけの話で、greatは物理的な
大きさを示すものでしかなかった。ところが日本は「偉大なるブリテン」の意と勘違いしてしまった。
話はまだ続きがある。韓国は1948年に独立を果たした時(アメリカから)、旧宗主国の日本の
名前に倣って「大韓民国」としてしまった。二重に勘違いしたというマヌケな話である。
「あなたは〝新スペイン料理の旗手〟などと呼ばれていますよね」
とバスク出身のシェフに水を向けたら、途端に不機嫌そうな顔になり、
「そんな軽薄な呼び方はやめてくれ」と叱られてしまった。
「それをいうならバスコ・ナバーラ料理と呼んでほしい」と逆に注文をつけられた。
185センチ、110キロという巨漢。バスク人は総じてお人好しの巨人揃いと聞くが、
ひとたび民族問題に立ち入ると、途端に神経質になる。
バスク独立運動の話は知っておろうが、バスク人はスペイン人と一緒くたに
括られることを殊の外きらう。スペインは人種がモザイク状に入り混じった国。
バルセロナのあるカタルーニャ地方もバスク同様、スペインからの独立を願っている。
サッカーのレアル・マドリッドとFCバルセロナとの戦いを見てくれ。
球場は異様な興奮に包まれる。あれは異民族同士が互いのアイデンティティを賭けて
戦っているからだ。まるで国際試合を見るようである。
日本人が「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」の画一的イメージで括られるのをきらうように、
スペイン人も「闘牛、パエリア、フラメンコ」などとひと括りにされるのを毛嫌いしている。
スペイン人は誰もみなフラメンコを踊っているのだろう、などとつい想像しがちだが、
フラメンコはスペイン南部のアンダルシア地方(ゲルマン系ヴァンダル人の国の意)
の民族舞踊で、もともとはジプシー(ロマ人)の踊りである。
総じてジプシー嫌いのスペイン人は、フラメンコと聞いただけで眉をひそめる。
ノーテンキな日本人はそんなこととはつゆ知らず、
スペイン舞踊=フラメンコだと思いこんでしまっている。
日本人はみな阿波踊りを踊っている、と思われるのと同じである。
一方、イギリスではスコットランドの独立運動が急速に現実味を帯びだしている。
例によって多くの日本人はイギリス人はみな同じと思っているが、
内実は言語も民族も違う国家の連合体である。
いわゆるイングランド人はゲルマン系のアングロ・サクソン人だが、
スコットランドやウェールズはケルト系、すなわち先住民族の側で、
後発のアングロ・サクソンによってその一部は陸地から蹴落とされ、
対岸のフランスに逃れた。ブルターニュ(ブルトン)と呼ばれる地方がそれで、
ケルト系ブルトン人の住みついた場所である。ブルターニュ人は「頑固もの」
が多いといわれるが、たぶんケルトの血だろう。
俳優のショーン・コネリーはイギリス人と呼ばれるのをひどくきらう。
自分は(憎っくき)イングランド人などとは違う、(誇り高き)スコットランド人だ――。
そんな気概があるのか、映画出演料の多くを独立運動の資金に捧げているという。
スコットランド人が独立したがっているのは1960年代に北海油田が発見されたからだ。
いまは石油収入のほとんどすべてをイギリスに持っていかれてしまうが、
独立を果たせば石油輸出国として多くの外貨収入が見込める。
500万の人口を養うには十分、と踏んでいるのだ。
が、それをやられたらイングランド人の顎は確実に干上がってしまう。
余談だが、大英帝国はグレート・ブリテンと呼ばれる。この〝大〟は大日本帝国と同様、
偉大なるの意かと思ったらそうではないらしい。フランスに逃れた小ブリテンから見て、
相対的に大きいから大ブリテンと呼んでいるだけのことらしい。目からウロコである。
それにしても、国連の加盟国が増えたものだ。去年加わった南スーダンを
入れると、今や193ヵ国を数える(発足時は51ヵ国)。
セルビア・モンテネグロがセルビアとモンテネグロに分離したように、
いまや民族自決が大流行で、どこもかしこも独立したがっているように見える。
普天間問題で揺れる沖縄も、もともとは琉球王国という独立国家だった。
ヤマトンチュが無理難題ばかり押しつけると、ウチナンチュが癇癪を起こし、
ついには独立を宣言するかもしれない。
解決法はただ1つ。憲法を改正し、ささやかな核で武装する。
そして米軍にはお引き取りねがい、基地は国軍基地に換わる。
ついでに自前の原潜を沖縄近海に数隻遊弋させておけば、
中国海軍はまず動けなくなるだろう。
これで国民の誇りが取り戻せるのなら安いものだ。
※追記
明治期の日本政府が自らを「大日本帝国」と命名したのは、当時一流国だったイギリスが
「グレート・ブリテン」と名乗っていたからだ。これは単にフランスの〝小ブリテン〟に比べ
ブリテン島が相対的に大きかったから〝グレート〟といっただけの話で、greatは物理的な
大きさを示すものでしかなかった。ところが日本は「偉大なるブリテン」の意と勘違いしてしまった。
話はまだ続きがある。韓国は1948年に独立を果たした時(アメリカから)、旧宗主国の日本の
名前に倣って「大韓民国」としてしまった。二重に勘違いしたというマヌケな話である。
4 件のコメント:
ROUさん、
こんにちは。
民族も世界に色々いるわけですが、「独立ごっこ」とは、よくおっしゃったと思います。
もちろん、できるだけ揉め事が起きないように「国際法」に照らして、「合法」であるか、はたまた「違法」であるかという尺度は「分かりやすい」と言う意味で大事だと思います。
でも、「適切」であるか「不適切」であるかと言うことは、民族固有の尺度で違うわけで、こればかりはいかんともし難いというのが真髄なのではないでしょうか。
兎にも角にも、今のところゲームのルールを作ったやつらが勝ち組に納まっているわけですから、なんとも抗いようがありません。
せめて、自前の気概だけはなんとか継承していきたいものであります。
むりかなぁ・・・、泥に潜ってる泥鰌に「なんとかしてくれー!」と一縷の望みを託すのは。
NICK様
戦後民主主義の時代に
何が失われたかというと、
まず日本人としての気概が
失われました。
当然でしょう。
自国を他国の軍隊に守ってもらって、
平気な顔してるんですから。
軍事費に金をかけるぶん、
経済に金を回したほうがトク、
とカネ勘定の得意な町人たちは
考えた。
だから、今の日本人は
みんな去勢された宦官なんです。
アメリカのおメカケさんなんです。
が、メカケ根性も70年近くなると、
自分を妾だと思わなくなります。
楽チンでいいや、とさえ思うようになります。
チンなんてとっくの昔に無くなっているのに……
ROUさん、
こんにちは。
しつこいようですが、もうちょっとお付き合いください。
フランス哲学を長年研究されてきた方の受け売りなのですが、日本人の「舶来偏重思想」は日本という国の地理的な位置にその軸があるように思います。近くは中国やインドから、遠くは欧州から距離と時間という遠大な文化的フィルターを経て、人類の叡智が日本まで到達した。つまり「いいもの」しか日本にはやってこなかったのです。
ほんの百数十年前まで内部で完結し閉じていた日本が、海の向こうに目を向けるようになったときも、同じように日本人の精神に宿ったままであったのです。産業革命以降、拡大一辺倒であった欧州、それに取り残された大国、インドや中国の姿を見て欧州の「文明」を取り込まざるを得なかったのではないでしょうか。
明治が過ぎ、大正ロマンは消え、悲惨な昭和を体験し、そして骨のない平成も早四半世紀が過ぎようとしています。それにも拘らず、「グローバル化」という「文化」の伴わない言葉を、おまじないか、呪文のように唱え...、欧米に追随することに汲々としている三流国に成り果てようとしています。
今、便宜的に「法律」と言う約束ごとを定めて、「合法」か「違法」かということを判別するのは、実は人と人の関係の中では最低のつながりです。「適切」か「不適切」かということを、良識と常識に基づいて折り合いをつけるという美徳がなくなろうとしています。
道徳は教育でも、法律でもありません。百歩譲っても、為政者は教育に口を出すべきではありません。(大阪は大変ですよね。)
「情けは人のためならず」、この言葉が重く響く今日この頃です。
NICK様
ありがたく拝読させてもらいました。
しみじみ……
(3分後)
あれっ? 何が書いてあったんだっけ
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