2012年3月17日土曜日

吉本隆明死す

昨日(3/16)、吉本隆明が死去した。享年87。
20代の半ばから30代にかけ、
解らないまでも必死に読んだのが吉本の本だった。

ボクの学生時代は小林秀雄一色に染められていた、とはすでに書いたが、
サラリーマンになってからはヨシモトリュウメイ一色に染まった。
直属の上司が吉本フリークだったもので、飲めば吉本イズムを吹き込まれ、
次第にその色に染まっていった。

全集を買い込み、その関連本や吉本主宰の同人誌『試行』もせっせと買い集めた。
それだけで本棚はもういっぱいになってしまう。

小林と比較すると、吉本は読みづらかった。硬質な文体はいいのだが、
どっちかというと悪文なのだ。小林のように鋭利な日本刀でスパスパ撫で斬りにする
というのではなく、刃こぼれのあるナタで力まかせにぶっ叩く、という感じで、
およそスマートさには欠けるが、無骨で誠実さのにじみ出た文体だった。


《言ってわからなけりゃ、最後は鉄拳をふるうしかないでしょ》
(そうそう、口でわからなけりゃ、あとは殴っちまうしかないよね)
ボクはよく吉本の金言を勝手に免罪符にさせてもらった。
同人誌『試行』の中には、こうした威勢のいい言葉が乱舞していた。

『擬制の終焉』『芸術的抵抗と挫折』『抒情の論理』
『敗北の構造』そして『知の岸辺へ』……晩年はサブカルチャー的な
テーマにも目を向けていたが、傑作といえばやはり前期~中期の評論集が
いちばんだろう。

数多ある著作の中で、何がいちばんオススメかというと、
それはもう『マチウ書試論』と『共同幻想論』に尽きる。
というより『心的現象論序説』や『ハイ・イメージ論』、『言語にとって美とはなにか』
などは、難解すぎて手に負えない。

《ジェジュの肉体というのは決して処女から生まれたものではなく、
マチウ書の作者の造型力から生まれたのだ》(『マチウ書試論』)

キリスト教はユダヤ教の〝剽窃〟にすぎない、とするスリリングな論考は
いっぺんでボクを虜にしてしまった。ジェジュとはイエス・キリストのことで、
マチウ書はマタイ伝のフランス語読みだ。吉本教の信者たちは、
「君はもうマチューショを読んだか」などとやっていたっけ。

この『マチューショ』を読んで以来、キリスト教というものを考える際に、
いっぺん『マチューショ』のフィルターを通してから語るクセがついてしまった。
聖書は誤りのない神の言葉、と信じるガチガチのキリスト教福音派の人たちからすれば、
これはとんでもない悪書であり唾棄すべきもの、ということになる。

しかし少なくともキリスト教について学びたいと思っているもの、
あるいは当のキリスト者たちだっていい、『マチウ書試論』を読まずして
キリスト教を語るなかれ、とあえて言いたい。それくらいの衝撃力はある。

吉本は文章もへただが、しゃべくりもへただった。
繰り返しが多いうえに、しゃべり言葉が明晰さを欠いていた。
若いころ、吃音症だったことが遠因かもしれない。

大手書店には〝吉本追悼コーナー〟ができていると聞く。
文章もテーマも難解だから、その手の本に慣れていない人は
途中で放り出すこと必至だが、『マチウ書試論』だけは
最後まで辛抱強く読み通してほしい。
それだけの価値は十分ある。
倶会一処。


0 件のコメント: