昨日(3/16)、吉本隆明が死去した。享年87。
20代の半ばから30代にかけ、
解らないまでも必死に読んだのが吉本の本だった。
ボクの学生時代は小林秀雄一色に染められていた、とはすでに書いたが、
サラリーマンになってからはヨシモトリュウメイ一色に染まった。
直属の上司が吉本フリークだったもので、飲めば吉本イズムを吹き込まれ、
次第にその色に染まっていった。
全集を買い込み、その関連本や吉本主宰の同人誌『試行』もせっせと買い集めた。
それだけで本棚はもういっぱいになってしまう。
小林と比較すると、吉本は読みづらかった。硬質な文体はいいのだが、
どっちかというと悪文なのだ。小林のように鋭利な日本刀でスパスパ撫で斬りにする
というのではなく、刃こぼれのあるナタで力まかせにぶっ叩く、という感じで、
およそスマートさには欠けるが、無骨で誠実さのにじみ出た文体だった。
《言ってわからなけりゃ、最後は鉄拳をふるうしかないでしょ》
(そうそう、口でわからなけりゃ、あとは殴っちまうしかないよね)
ボクはよく吉本の金言を勝手に免罪符にさせてもらった。
同人誌『試行』の中には、こうした威勢のいい言葉が乱舞していた。
『擬制の終焉』『芸術的抵抗と挫折』『抒情の論理』
『敗北の構造』そして『知の岸辺へ』……晩年はサブカルチャー的な
テーマにも目を向けていたが、傑作といえばやはり前期~中期の評論集が
いちばんだろう。
数多ある著作の中で、何がいちばんオススメかというと、
それはもう『マチウ書試論』と『共同幻想論』に尽きる。
というより『心的現象論序説』や『ハイ・イメージ論』、『言語にとって美とはなにか』
などは、難解すぎて手に負えない。
《ジェジュの肉体というのは決して処女から生まれたものではなく、
マチウ書の作者の造型力から生まれたのだ》(『マチウ書試論』)
キリスト教はユダヤ教の〝剽窃〟にすぎない、とするスリリングな論考は
いっぺんでボクを虜にしてしまった。ジェジュとはイエス・キリストのことで、
マチウ書はマタイ伝のフランス語読みだ。吉本教の信者たちは、
「君はもうマチューショを読んだか」などとやっていたっけ。
この『マチューショ』を読んで以来、キリスト教というものを考える際に、
いっぺん『マチューショ』のフィルターを通してから語るクセがついてしまった。
聖書は誤りのない神の言葉、と信じるガチガチのキリスト教福音派の人たちからすれば、
これはとんでもない悪書であり唾棄すべきもの、ということになる。
しかし少なくともキリスト教について学びたいと思っているもの、
あるいは当のキリスト者たちだっていい、『マチウ書試論』を読まずして
キリスト教を語るなかれ、とあえて言いたい。それくらいの衝撃力はある。
吉本は文章もへただが、しゃべくりもへただった。
繰り返しが多いうえに、しゃべり言葉が明晰さを欠いていた。
若いころ、吃音症だったことが遠因かもしれない。
大手書店には〝吉本追悼コーナー〟ができていると聞く。
文章もテーマも難解だから、その手の本に慣れていない人は
途中で放り出すこと必至だが、『マチウ書試論』だけは
最後まで辛抱強く読み通してほしい。
それだけの価値は十分ある。
倶会一処。
20代の半ばから30代にかけ、
解らないまでも必死に読んだのが吉本の本だった。
ボクの学生時代は小林秀雄一色に染められていた、とはすでに書いたが、
サラリーマンになってからはヨシモトリュウメイ一色に染まった。
直属の上司が吉本フリークだったもので、飲めば吉本イズムを吹き込まれ、
次第にその色に染まっていった。
全集を買い込み、その関連本や吉本主宰の同人誌『試行』もせっせと買い集めた。
それだけで本棚はもういっぱいになってしまう。
小林と比較すると、吉本は読みづらかった。硬質な文体はいいのだが、
どっちかというと悪文なのだ。小林のように鋭利な日本刀でスパスパ撫で斬りにする
というのではなく、刃こぼれのあるナタで力まかせにぶっ叩く、という感じで、
およそスマートさには欠けるが、無骨で誠実さのにじみ出た文体だった。
《言ってわからなけりゃ、最後は鉄拳をふるうしかないでしょ》
(そうそう、口でわからなけりゃ、あとは殴っちまうしかないよね)
ボクはよく吉本の金言を勝手に免罪符にさせてもらった。
同人誌『試行』の中には、こうした威勢のいい言葉が乱舞していた。
『擬制の終焉』『芸術的抵抗と挫折』『抒情の論理』
『敗北の構造』そして『知の岸辺へ』……晩年はサブカルチャー的な
テーマにも目を向けていたが、傑作といえばやはり前期~中期の評論集が
いちばんだろう。
数多ある著作の中で、何がいちばんオススメかというと、
それはもう『マチウ書試論』と『共同幻想論』に尽きる。
というより『心的現象論序説』や『ハイ・イメージ論』、『言語にとって美とはなにか』
などは、難解すぎて手に負えない。
《ジェジュの肉体というのは決して処女から生まれたものではなく、
マチウ書の作者の造型力から生まれたのだ》(『マチウ書試論』)
キリスト教はユダヤ教の〝剽窃〟にすぎない、とするスリリングな論考は
いっぺんでボクを虜にしてしまった。ジェジュとはイエス・キリストのことで、
マチウ書はマタイ伝のフランス語読みだ。吉本教の信者たちは、
「君はもうマチューショを読んだか」などとやっていたっけ。
この『マチューショ』を読んで以来、キリスト教というものを考える際に、
いっぺん『マチューショ』のフィルターを通してから語るクセがついてしまった。
聖書は誤りのない神の言葉、と信じるガチガチのキリスト教福音派の人たちからすれば、
これはとんでもない悪書であり唾棄すべきもの、ということになる。
しかし少なくともキリスト教について学びたいと思っているもの、
あるいは当のキリスト者たちだっていい、『マチウ書試論』を読まずして
キリスト教を語るなかれ、とあえて言いたい。それくらいの衝撃力はある。
吉本は文章もへただが、しゃべくりもへただった。
繰り返しが多いうえに、しゃべり言葉が明晰さを欠いていた。
若いころ、吃音症だったことが遠因かもしれない。
大手書店には〝吉本追悼コーナー〟ができていると聞く。
文章もテーマも難解だから、その手の本に慣れていない人は
途中で放り出すこと必至だが、『マチウ書試論』だけは
最後まで辛抱強く読み通してほしい。
それだけの価値は十分ある。
倶会一処。
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