2010年2月25日木曜日

だれもが選良

旧制の高校では「デカンショ節」なるものがよく歌われたという。
デカンショとはデカルト、カント、ショウペンハウエルのこと。
今の高校・大学生にはサッパリだろうけど、「末は博士か大臣か」
といわれた旧制高校の生徒は、弊衣破帽でバンカラを気どり、
小難しい哲学書なんぞを読みふけっては、日夜酒を飲み、
杯盤狼藉を繰り広げておったのじゃ。

  ♪デカンショ デカンショで 半年暮らす(アー、ヨイヨイ)
   あとの半年ャ 寝て暮らす(ヨーイ、ヨーイ、デッカンショ)

こちらは正調ではないデカンショ節

  おやじおやじと威張るなおやじ おやじ息子のなれの果て
  息子息子と威張るな息子 息子おやじの一滴(ひとしずく)

  「論語」「孟子」を読んではみたが 酒を飲むなと書いてない
  酒を飲むなと書いてはないが 酒を飲めとも書いてない

このデカンショ節は「アルプス一万尺」の節でも歌えるから、ドーゾ。

僕もおよばずながら一滴(ひとしずく)を搾りだし、
ようやく2人の娘をもうけることができた。
他にもしずくがあっちこっちに垂れ流されているという話がないではないが、
おそらくアルコール濃度の相当高いしずくだっただろうから、
わがオタマジャクシ君はへべれけになり、
哀れ〝酔死〟してしまったことだろう。

さて唐突だが、卵子に向かって突進するオタマジャクシ君の
バタフライで泳ぐスピードをご存知だろうか?
これが秒速0.1ミリだ。(エーッ? そんなに遅いの?)
精子の大きさは約0.06ミリで、1回の射精でおよそ3~5億匹の精子が飛び出るという。
卵子にたどり着く(約30分かかる)のは、その中のたった1匹だから、
競争率たるや大学受験どころの比ではない。

だれもがこの猛烈に厳しい鉄人レースに打ち勝って生まれてきている。
つまりは、根性も体力も持久力もある「選良」ばかり、といっていい。
5億ものライバルたちを蹴落としてきた超エリートのあなたが、
つまらぬ受験競争や出世競争に敗れたからといって、
「負け組」などと首うなだれていてどうする。

生きていればつらいことだってあるさ。
そんな時こそ、デカンショ節でも歌いながら酒を飲むのだ。

  私ひろげて あなたがさして さしつさされつ 蛇の目傘(アー、ヨイヨイ)

2010年2月23日火曜日

蜜の味と鴨の味

スポーツ選手は、とかく「正々堂々」とか「フェアプレイ精神」を云々され、
あまつさえ高潔な人格を求められたりするが、朝青龍の例にもあるように、
それはあくまで「そうあってほしい」という願望であって、
現実は逆の場合のほうが多い。

そのことはサッカーやアイスホッケーを見れば一目瞭然で、
試合中は反則技のオンパレードとなる。
審判さえ見ていなければ、選手たちはどんな汚い手だって使う。
それがスポーツ競技のまぎれもない現実だ。

蹴る、たたく、肘打ち、頭突き、ツバを吐く……。
有名なのはマラドーナの「神の手ハンド」だろう。試合後、彼は、図々しくも
「ゴールはマラドーナの頭と神の手のおかげだ」と空っとぼけた。
負けたイングランドのゴールキーパーは、
「マラドーナのふるまいはスポーツマン精神にもとる」と非難したが、
なに、立場が替われば、彼だって同じことをするに決まってる。

スポーツマンは正々堂々としていなければならない?
そんなものは嘘っぱちで、建前に過ぎない。

読売新聞のコラムに独語のSchadenfreude(シャーデンフロイデ)
という言葉が出てきた。トヨタたたきに狂奔するアメリカ人の深層心理に
当てはめた言葉だというのだが、意味は「他人の不幸を喜ぶ気持ち」だ。
中国語では「幸災楽禍」、日本ではさしずめ「人の不幸は蜜の味」とか
「隣の貧乏は鴨の味」といったところだろうか。

バンクーバーオリンピックの各競技を見てつくづく思うのだが、
日本選手のライバルたちが転倒したり、失格になったりすると
このSchadenfreudeがむくむくと頭をもたげ、ついニンマリしてしまう。
おまえは他人の不幸を喜ぶのか? 面と向かってそう問われると、
気恥ずかしさとバツの悪さを感じはするが、
これが正直な気持ちなのだからしかたがない。

浅田真央とキム・ヨナは良きライバル同士だ。
キム・ヨナは可愛くて妖艶でスタイルも抜群、
スケベなおやじとしてはどこか幼稚な真央よりも
色っぽいヨナのほうが断然好みなのだが、
日本人としてはやはり真央ちゃんを応援せねばなるまい。
で、キム・ヨナにはたいへん気の毒なのだけど、
ジャンプでこけ、ステップでこけるという尻もちの3連発を期待したい。

一方、韓国人はこれとまったく逆のことを考えているはずで、
だからどちらも正直で、健康なのである。
すばらしい演技にはもちろん拍手を惜しまぬつもりだ。
でも、日本選手のライバルたちには、ことごとくズッコケてもらいたい。
それも再起不能なくらいに。

こう考えると、Schadenfreudeこそ人間というものの本性を
正直に、あけすけに語った言葉だと思うのだけど、
あなたはどう思う?

2010年2月21日日曜日

年寄りの佃煮

日曜日の午後、ジジババの原宿といわれる巣鴨のとげぬき地蔵に行ってきた。
おるわ、おるわ……えらい達者なジジババが佃煮にするくらいぎょうさんおった。

そして、このジジババが実によく食べるんだわさ。
煎餅屋、餅菓子屋、佃煮屋の前は黒山の人だかりで、
試食と称して、茶ァ飲んだり、くず餅食べたり……。
おまけにピーチク、パーチクとおしゃべりが止まらない。
まるで「雀の学校」だ。

それにしても、この地蔵通り商店街は元気だ。
シャッターのおりてる店など1軒もない。
とにかく何を出しても売れそうな雰囲気で、
ジジババの購買欲はすこぶる高い。

一方、巣鴨駅にほど近いレコード店の軒先では、
若者3人が懐かしの昭和歌謡を歌っていた。
ボーカル、ウッドベース、アコーディオン
という組み合わせで、3人ともモボ(モダンボーイ)のスタイルだ。

東京大衆歌謡楽団というグループで、これが実にいい。
歌といい格好といい、ジジババの原宿にピッタリのバンドなのだ。
レパートリーは古賀メロディを中心とした昭和初期の懐かしい歌ばかり。

「東京行進曲」に「啼くな小鳩よ」、「東京ラプソディ」などが次々と
演奏され、藤山一郎ばりの高音が美しいボーカル君が、
直立不動で歌い上げる。二重三重と取り囲んだジジババは、
1曲終わるたびに盛大な拍手だ。

最後の「青い山脈」は皆さんもご一緒にどうぞ、というものだから、
出しゃばりのわたくしめは、人垣を押し分け最前列に。
ボーカル君を凌ぐほどの大声で、朗らかに歌い上げた。

  ♪若く明るい 歌声に 雪崩(なだれ)は消える 花も咲く

   青い山脈 雪割桜 空のはて 今日もわれらの 夢を呼ぶ

ああ、いい気持ち。やっぱ藤山一郎が一番だなや。
ジジババたちも、青春時代を懐かしむように
楽しそうに歌っていた。
 
「お年寄りの原宿」とはよく言ったものだ。
本家の原宿なんぞカネを貰っても行きたくないが、
こっちの原宿は味があっていい。
年寄りパワー、恐るべしだ。

ついでに宣伝してしまうが、ボクも引っ込み思案のくせに舞台に立つのが
好きで、しょぼくれたオヤジ仲間を集めてエレキバンドを組んでいたことがある。
名づけて「Flying fossils(空飛ぶ化石)」。その勇姿がこれ↓






2010年2月19日金曜日

ケダモノ化?

「昨日、テレビで、マジすげぇの見た。なんか、ウォーッ!って感じで、
それ見て、マジかよ? って思って、そしたら、エーッ?って、マジありえなくて、
もうなんか、マジやばいって感じ……」
こんな会話を電車内でやっていた。スノボの國母選手みたいなヒップホップ系
のおニイちゃんたちで、「マジ」の大連発。
よせばいいのに、臆面もなく大声でやっていた。

結局、マジすげぇのは何なのか、さっぱりわからなかったが、
どうやら相方には通じているようで、
「それって、マジやばいじゃん」
なんて、しっかり相槌を打っていた。

同じ日本人同士なのに、片や通じ、こなた通じない。
これはいったい、どうしたことなのか。
「ウォーッ!って感じ」と擬声語を発するだけで通じてしまうなんて、
これはすごい才能だ、と感心しかけたが、「まてよ……」
これってもしかして退化の兆候じゃないの?

だって、「ウォーッ!」 とか「エーッ?」とか、
まるで動物の唸り声みたいだ。
余計な言葉を発しないだけco2の削減でエコなんだろうけど、
いくら省エネのエコでも、犬猫じゃあるまいし、
唸ってばかりじゃあね。

数学者の藤原正彦はこう言ってる。
《朝起きてから眠るまで、1ページも本を読まないという人は、
もう人間ではない。ケダモノである》

読売新聞の全国世論調査によると、
1カ月に本を1冊も読まなかった人は53%もあったという。
若年層はもちろんだが、高齢者の本離れも顕著になっているらしい。

藤原の伝でいうと、日本人はだんだんケダモノ化しているようだ。
本を読まないから語彙が貧困で、会話力が著しく低下している。
結果、会話の中身も「ウォーッ!」とか「エーッ?」みたいにケダモノの
唸り声に近くなってきている。
まさか以心伝心というわけじゃないだろ?

アメリカ人も全体の40%は1年に1冊も本を読まないというから、
今や世界的に本離れが進行しているのかもしれない。
これじゃ、おいらの本が売れないわけだ。
な~んて、だんだん言い訳じみてきたけど、
人間が徐々にケダモノと化しているなんて、
マジおそろしい時代になってきた。

2010年2月15日月曜日

偶然と必然

物の本によると、人間の身体は約60億個の細胞でできているという。
だけど、いちばん最初は、たった1つの受精卵だった。

男の精巣で一生涯につくられる精子の数は、
約1兆個(←僕はもうあがっていて、最後に白い煙が出た)。
一方、女性は約400個の卵子を排出するという(←最後に赤い玉が出る)。

つまり400兆通りの組み合わせが可能というわけで、
あなたや僕は、およそ400兆分の1の「偶然」で生まれ出たということになる。

さらに、あなたの両親が出会って結婚する確率や、
そのまた両親が出会う確率、この宇宙が生まれる確率、
宇宙に地球が生まれる確率、地球にヒトという種が生まれる
確率などを計算すると、0.0000000000000000……というような数値になる。
だから自分の誕生も決して偶然などではなく、
どこか運命じみた「必然」のような気がしてくる。

もう死にたい、なんて弱音を吐いてるそこのあなた! ホラ、あなたですよ。
あなたはほとんど奇跡的な確率でこの宇宙に生まれたのですぞ。
生きていれば、苦しいこと悲しいこと、いろいろあるのはわかります。
でもね、どれもみな、怖ろしいほど低い確率で生まれた
かけがえのない命なんだ。
その命を、あんまり粗末にしないでくれ。

ほとんど「無」から生まれた命、ということをツラツラ考えると、
自分という存在は、何か大いなるものの意志で「生かされてる」
という感じさえする。そこに自然と何事かを畏怖する気持ち、
敬虔な気持ちが芽生えてくる。ごくプリミティブな宗教心というものは、
おそらくそんなところから生まれてくるのだろう。

ずいぶん道学者ぶった言い方になってしまったけど、
自分がこの世に生を受けた確率を考えると、
申しわけないくらい謙虚な気持ちにならざるを得ない。

ところで、「腰パン」問題で、総スカン食ったスノボの国母選手よ!
「反省してまーす」と語尾を思いきり引っぱっちゃったのがまずかったな。
あれで、日本中の良識派を敵に回しちゃった。
反省にちょっとばかり「謙虚さ」が足りなかったようだね。
帰国しても、しばらくはテレビや週刊誌におっかけ回されることだろう。
だから、せめて結果を出して見返してやることだ。
「ザマミロ!」ってね。

せいぜい期待してまーす! あれっ?

2010年2月9日火曜日

歴女な私

坂本龍馬が空前のブームなのだという。
どうやらNHKドラマ「龍馬伝」の影響らしい。
なにしろ龍馬役があの色男の福山雅治だ。
武田鉄矢だったら、どうなっていたか。

草食系の優男をとことん毛ぎらいする僕としては、
福山などミーハーの姐ちゃんや若いツバメをほしがるおばさんたち
の恰好の愛玩動物だと思っていたが、実際ドラマを見てみたら、
意外やハマリ役なのでびっくりした。

実際の龍馬は、色男にはほど遠い、ヒラメの親分みたいな
顔をしていた。仕事で高知に行った際、桂浜の龍馬像を
見上げ、とくと観察してきた結論だ。しかし、ヒラメはヒラメでも、
並のヒラメのつら構えではなかった。

話変わって昨夜、長女が「わたし、歴女になる」と厳かに宣言した。
歴女(れきじょ)とは歴史好きの若い女性たちのことらしい。
おおかた流行に弱い長女が、会社の同僚か何かにそそのかされ、
その気になってしまったのだろう。

長女は、だしぬけに、
「お父さん、『竜馬がゆく』があったら貸して!」
とリクエストしてきた。誰でも知ってる司馬遼太郎の出世作である。
もう何度読み返したかわからない。気に入った字句には傍線が引いてあったり、
書き込みがしてあったりするから、すこぶる読みにくいとは思うが、
喜んで貸してあげた。

文庫本で全8巻。自ら「レキジョ」を自任するからには、
ぜひとも読破してもらいたい。龍馬という人間の
スケールの大きさと人間的魅力に、おそらく圧倒されるだろう。そして、
あの時代の日本人が、いかに薄氷を踏む思いでがんばってきたか。
欧米列強の植民地にされまいと、どれほどの知恵を絞ってきたか、
たちどころにわかるだろう。

ブームなどいつだって泡沫(うたかた)のごときものだ。
歴女が飽きられれば、次の流行がまたアブクのように生まれてくる。
父親としては「レキジョ」などにならなくていいから、
ごくふつうに歴史に興味を持ってもらいたい。

鉄血宰相ビスマルクはこう言った。
《愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ》と。

いや、もとい。「レキジョ」にも「ケンジャ」にもならなくていい。
そんなものになったら、ますます婚期が遠のいてしまう。
また龍馬を理想の男と思ってもらっても困る。

フクヤマ龍馬などとんでもない話だ。
そんなありもしない理想を追いかけたら、
地球の果てまで婿探しに行かなくてはならなくなる。
それじゃあ、文字どおりの歴女(歴史を刻んだ女)になっちまう。

だから娘よ! 何にもしないで、ジッとしていておくれ。

2010年2月5日金曜日

相撲かSUMOか?

朝青龍がついに引退した。
どうしようもないやんちゃ坊主で、品格などかけらもなかったが、
一種独特の愛嬌と華のある力士だった。これが相撲でなく、
他の格闘技の世界だったら、引退に追い込まれることもなかったのに、
とちょっぴり残念な気もしている。

相撲取りは英語ではsumo wrestlerと表記される。
ただのレスラーであれば、勝った時にガッツポーズをしたり、
大阪北新地のホステスを酔って裸にひん剥いたりしても、
ほんのご愛敬で済むかもしれないが、横綱となるとそうはいかない。

なぜなら相撲は格闘技である前に伝統ある神事であるからだ。
土俵入りの際に柏手を打ったり、横綱がしめ縄を巻いたりするのは、
相撲が神道の影響を受けた神事であることを示している。

神前にて、筋骨隆々たる壮丁がその力を奉納し、
神々への感謝と敬意を表す。そして子孫繁栄や五穀豊穣を願う。
そのため、礼儀作法がことさら重んじられ、横綱には品格が求められる。
敗者に対して惻隠の情を欠いたガッツポーズをするなどとんでもない、
という話になる。

さて、柔道も国際化してJUDOとなった。
が、北京オリンピックでは日本の男子柔道は惨敗してしまった。
優勝候補だった100キロ級鈴木桂治などは、うかつにもタックル技の
もろ手刈りを食らい、1回戦で敗退した。

一方、一本勝ちではなく勝ちにこだわるJUDOで100キロ超級を制した
石井慧は、「ジュードーはルールのある喧嘩。芸術性が大事なら、
(フィギュアスケートみたいに?)採点競技にすればいいんだ」
と冷めた感想をポツリ。さっさと格闘家へ転向してしまった。

JUDOは別名「ジャケット・レスリング」と呼ばれる純粋スポーツ。
しかしSUMOは日本固有の民族格闘技であり、神事だ。
つまりスポーツであってスポーツでない。ここのところが、
チンギス・ハーンの国から来た純朴な若者には、
なかなか理解しがたいものがあったのだろう。

昔の横綱は、トッタリとかケタグリなどという技は使わなかった。
あんなもの三下奴の使う下品な技だ、という認識があった。
横綱にふさわしい技は四つに組んでの寄り切り。
朝青龍がよく繰り出した腕力頼みの投げ技などは、
昔なら横綱らしからぬ技、とあっさり切り捨てられていただろう。

この国では、柔道にも相撲にも美意識が求められる。
勝つことよりも、むしろそっちのほうが優先されたりする。
だから、あくまで一本勝ちにこだわりたい、とする柔道家には
世間の共感と尊敬が集まる。

そうはいっても、この崇高美にこだわる感性は、
日本人特有のもので、外国人にはわかりにくい世界だ。
そう考えると、朝青龍が感じていた居心地の悪さに、
少しばかり同情したくなる。

29歳での現役引退(←ああ、うらやましい)。
モンゴルでは腕っこきのビジネスマンで、
資産家でもあるという。

現代の日本人には圧倒的に欠けている剽悍な野性味と面魂。
よろずスマートで、いつもオドオドしている鳩山のお坊ちゃまに、
このモンゴル人のへそのゴマでも煎じて飲ませたい、
と痛切に思う。

2010年2月3日水曜日

蓼食う虫

うどんを打っていたら、ギックリ腰になってしまった。
で、うどんは急遽、スイトンに姿を変えた。

私の生まれた埼玉・川越はどちらかというと「うどん文化圏」で、
子供の頃から、もっぱら母の打つうどんを食べてきた。
そばも食べたが、家で打つことはほとんどなかった。
母は幾度となくそば打ちに挑戦した。が、
でき上がったものはそばと呼べるような代物ではなかった。

今を盛りの「そば打ち教室」をのぞくと、中高年のおじさんに
混じって、若い娘さんもちらほら。紫檀のめん棒まで買ったという
熱心なおじさんに、「なぜうどんではなくそばなの?」と聞いたら、
「うどんは形而下的だけど、そばは形而上的だから……」
となんだかよくわからない答えが返ってきた。
要はそば打ちのほうがちょっとばかり高尚なのだ、
と言いたいらしい。

ほんとに高尚かどうかは知らないが、難易度を競ったら、
たぶんそばに軍配が上がるだろう。うどん粉に比して、
そば粉は容易につながってくれない。難しいのは水回しで、
加水量をほんの少し間違えただけでも、
すべてが水泡に帰してしまう。

おまけに専門用語にあふれ、いかにもマニアックな世界を
形成している。凝り性の男たちが魅かれるのも
ムリはないのだ。

そしておじさんたちは、ほぼ例外なくそば粉100%の十割そば
をめざす。二八では満足できないらしい。日本人は混じりっけなし
の純粋無垢というのが好きだ。酒は生一本だし、珈琲はブラックで飲む。
たぶん清浄さを尊ぶ神道から来ている嗜好性だと思われるが、
つなぎ無しで見事つながった時の達成感がなんとも言えないのだという。

想像するに、この偏愛的なカタルシスは、
男たちだけが理解するものではなかろうか。
何事にも現実的な女たちは、
たぶん半分呆れ顔でながめているのだ。

古人はうまいことを言った。
蓼(タデ)食う虫も好きずきだと。
事実、そばはタデ科の植物なのである。

2010年2月1日月曜日

ないのは希望だけ?

「年次改革要望書」というのをご存知か。
1994年以来毎年ずっと、アメリカから日本に突きつけられているもので、
要は日本の政治経済システムや商慣行をこんなふうに改めてくれないか、
とする要望書である。日本も同様な要望を出しているが、事実上は
アメリカの一方的なもので、日本はその要求を次々とのんできた。

金融ビッグバン、NTT分割、大規模小売店舗法の廃止、
郵政民営化、裁判員制度の導入……。
どれもみな、アメリカ企業が日本市場に参入しやすくするためのもので、
建前上は「日本国民のための改革です」と謳われている。

お調子者の小泉元首相などは、アメリカが最も御しやすい首相で、
アメリカの言うことは何でも聞いてくれた。

もとはといえば、宮沢首相がクリントンと約束しちゃったもので、
その後、宮沢に続く売国奴的な首相たちが、
「構造改革」の名のもとに、次から次へと要求に従ってきた。

鳩山のお坊ちゃまは、「友愛」だとか「命を守りたい」などと、
屁のつっかい棒にもならないようなことを、いけしゃあしゃあと
のたまわっているが、同盟国のアメリカにして、「友愛」など
歯牙にもかけていない。守るのは「愛」だとか「命」などではなく、
「国益」onlyなのである。

日本国憲法の前文には、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と
生活を保持しようと決意した……》とある。

しかるに現実は、どこの国を見回しても貧寒たるありさまで、
公正と信義を重んじる奇特な国なんて薬にしたくともありはしない。
平和を愛するどころか、相手国の弱みを見つけ出そうと、
みな虎視眈々と狙っている。

それが政治・外交の実相で、友愛などと甘っちょろいことを言ってると、
ケツの毛がむしられ、いつのまにか国柄も変えられ、丸裸にされてしまう。
政治・外交の世界は今も昔も〝性悪説〟が基本なのである。

昔は中国が宗主国で、夷狄とされた周辺の諸民族は貢ぎ物を献上した。
戦後の日本にとってはアメリカが宗主国で、しきりに尾っぽを振ってきたが、
民主党政権になって、再び宗主国が中国へと入れ替わろうとしている。
いずれにしても日本の卑屈な茶坊主根性は変わらず、
独立国家としての気概などみじんもない。

この国には何でもある……だが、希望だけがない
と村上龍はある作品の中で言っていた。

ないのは希望だけだろうか?