2011年12月28日水曜日

やさしいニッポン人

昨夜は駒込のイタリアン「リセット」で会食。夫婦で参加した。
シェフは室井克義というピエモンテ料理の名人で、
かつてホテル西洋銀座の「アトーレ」で腕をふるった実力者だ。
ボクとは同い年で、つき合いも古い。

その彼と震災に話がおよんだ時、日本人のやさしさは本物か、という話になった。
3.11当日、彼は店の前に貼り紙をした。「トイレは自由にお使いください」
店が面する本郷通りは帰宅難民でごった返している。そんな中、
群衆を縫うようにして犬の散歩やジョギングにいそしむ人もいた。
非日常的状況の中にも日常的風景は繰り広げられている。

彼は「日本人のやさしさ」にいくぶん懐疑的で、例証をいくつも
挙げてくれたが、ボクは彼の意見には賛成できなかった。
日本人は「それほど捨てたもんじゃないもの……」。

昨日、長女の友人たちがイタリアから来日した。
ヴィクトルとエンリカの男女両名。
第2陣は29日で、こちらはオーストラリアから2人来る。
イタリア組は初来日で、娘とは月島で待ち合わせている。夕飯は
もんじゃ焼きにしよう、というわけだ。
長女は近くの晴海トリトンスクエア内で働いている。

イタリア組はホテルの予約をしていない。第2陣と合流するまでは
行き当たりばったりで決めようと目論んでいた。昨夜は寒かった。
荷物も多い。2人は英語が苦手で、大きな荷物をゴロゴロ転がしながら、
月島あたりをうろつき、不安げにホテルを探している。

「コノアタリニホテルハアリマスカ?」
通行人のおばさんに話しかけた。なぜかおばさんは片言の英語をしゃべった。
「モシミツカラナカッタラ、ウチニオイデヨ。カンゲイスルヨ」

イタリア人たちは「怪しいおばさん」だと、初めは思った。
イタリアでは考えられないからだ。見ず知らずの外国人を誘って
自宅に泊めるなんてことは金輪際ありえない。
そのことを長女に伝えたら、長女は、
「日本だったらふつうかも。わが家だったら、たぶんそうするもん」
イタリア組は目をまるくしていたという。


結局、安いホテルを探し出し、長女がくだんの親切なおばさんの家に
断りの電話を入れることになった。「みんな楽しみにしていたのに、残念だわ」。
おばさん一家は心底ガッカリしていたという。
それを聞いてイタリア組は大感激。しょっぱなから日本人のやさしさにふれ、
いっぺんに日本を好きになってしまったようだ。

日本人はやさしいか否か? 設問そのものがかなりいいかげんだが、
肯定派も否定派もいろんな例を挙げ、議論百出するだろう。

聞けばアリタリア航空は日本行きに限って、運賃を半額にしているという。
日本との往復運賃が約5万円。放射能汚染が心配で、日本行きの乗客が
激減。そのため航空会社も赤字覚悟で客を集めているらしい。
いくら国の財政が破綻していても個人は別。5万円くらいならなんとかなる。

4人が合流したら、いよいよわが家にやってくる。
にぎやかな国際交流になりそうである。

2011年12月22日木曜日

韓流はウソだらけ

キタの将軍様がとうとうくたばった。地方巡行中、過労のため殉職したとあるが、
それはウソっぱちで実際は別荘でおっちんだらしい。暗殺説もある。
残念至極である。あの寸足らずには断頭台や公開処刑がふさわしかったのに、
それが果たせず、69歳までのうのうと生き長らえさせてしまった。

一方、ミナミの李大統領は来日した折、無礼にも従軍慰安婦問題を持ちだし、
誠意を示せと野田首相に迫った。彼らの言う誠意とは「金を出せ」ということである。
そしてまた、あろうことか首相がソウルの日本大使館前に置かれた
元従軍慰安婦を象徴する少女像をすみやかに撤去してくれ、と再三たのんだところ、
完全に無視された。外国公館の安全と威厳は保護すべきとするウィーン条約の
明確な違反である。キタもミナミも朝鮮の政治家はロクデナシばかりなのである。

中国人はいうまでもないが、韓国人も「法」を守らないというか、
「法」というものがそもそもわかっていない民族である。
何度も云うが、1965年に平和条約でもある「日韓基本条約」が結ばれた。
これによって文化財を含む韓国の対日請求権は国際法的には消滅している。
しかし韓国はこの「法」を平気で破るのだ。

昭和26年、韓国の李承晩大統領は巨額の請求権をふっかけてきた。
そして朴正凞の第7次日韓会談までもみにもんで、14年もかけようやく
日韓基本条約までこぎつけるのである。

政府無償贈与3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款3億ドル、計8億ドルで
韓国はいっさいの対日請求権を放棄したはずなのだ。
今から46年前の8億ドルは、日本国民にとって容易ならぬ大金だった。
それこそ血と汗と涙の結晶なのである。それに53億ドルにものぼる在韓資産を
すべて放棄している。
♪あゝそれなのに それなのに ねぇ……(←唄ってる場合か!)

彼らの言い分がふるっている。
「日本人はたしかに賠償をした。しかしそれは当時の価値でやったものだから、
今の価値に照らせば金額が少ない。賠償は足りていない」
とこう曰うのである。これが法治国家の言い草だろうか。
OECD(経済協力開発機構)の一員として恥ずかしくないのかよ、オイ。

慰安婦の問題は別の折に書く。
ボクには韓国人の親友がいるし、娘たちの友人に韓国人は多い。
だからあまり悪口は言いたくないのだけれど、あまりに理不尽な要求が多いので、
この際、一つ一つ反駁しておきたいのだ。
歴史も法も無視する朝鮮半島人とつき合うのはほんとうに疲れる。

2011年12月13日火曜日

本文はオマケ

わが家の冷凍・冷蔵庫内にはコーヒー豆が所狭しとつまっている。
全国各地の名店から取り寄せたものがほとんどだが、
今は自分で焙いたものも数種類あり、それらを取っかえ引っかえ飲んでいる。
気のせいか、名店のものよりうまかったりする。←うぬぼれ屋め!

わが家は全員コーヒー党で、コーヒーがないと生きていけない。
ボクはアル中だけど、コーヒー中毒でもある。
時々は紅茶も飲むが、中毒性ではコーヒーに敵わない。
紅茶にはガツンとしたパンチがないのだ。

さて、ここからは臆面もない自著の宣伝である。拙著『コーヒーの鬼がゆく』(中公文庫)が
いよいよ発売される(12/20)。吉祥寺の名店「もか」の名物オーナー、
標交紀(しめぎゆきとし)のコーヒーにかける奇人変人ぶりを追いかけた本である。

今回のウリは本ブログでもおなじみの帰山人氏が「解説」を書いているところ。
これが傑作で、帰山人氏も自らTwitterで、
《クドイようだが、解説は私が書いています。高額で不味い珈琲につかまるくらいなら、
私の解説を700円で買いなさい! オマケに嶋中労さんの本文が付いてくるから(笑)》
などとケシカランことをつぶやいている。とうとう〝オマケ〟にされちゃった。




←しかつめらしい顔してコーヒーを抽出する標さん。
理屈を言うのはあまり好きではなかったようだが、
生き方そのものはまさしく〝コーヒーの鬼〟だった














そういえば、冷凍庫のすみっこに帰山人氏からいただいた「パプア・ニューギニア」
があったっけ。数日前、二人は初めて東京で会い、ひしと抱き合ったのだ。
彼の手土産がショウガ入りジャムと手ずから焙いたコーヒー豆だった。

帰山人氏も手廻しの1キロ焙煎器で自ら豆を焙いているという。
出来映えはなかなかのものだが、ボクの「作品」に比べるとまだまだという感じだ。
〝のびしろ〟はありそうなので、これに挫けずぜひとも精進を重ねてほしい。

というわけで、解説が「主」でボクの本文がオマケに付く『鬼』をどうかよろしく。
図書館で借りて読む、などという不心得者には大いなる災いと天誅がくだるべし!






2011年12月11日日曜日

あの日から9ヵ月


あの震災から今日で9ヵ月。TVニュースで両親と妻と子を失った男性が仏壇に置かれた遺影を前に、「泣いてばかりいるとみんなに心配かけるから泣かねえようにしてっけど、やっぱ泣けちゃうんだよ」と、目を真っ赤にしていたけど、こっちはまたまたもらい泣きだ。大事な家族をいちどきに失ってしまったら、ボクなんかとても生きてゆけそうにない。このひとりぽっちにされてしまった男性の気持ちを推し測るだけで胸が張り裂けそうになる。あれはまさに悪夢だった。

東北の被災者の人たちの苦しみに比べれば――このフレーズはけっこう迫力がある。女にふられただの、金が無いだの、いじめにあっただの、鼻ぺちゃで胴長で足がくさいだのといった悩みという悩みのことごとくが、薄っぺらでちっぽけな悩みに思えてくる。

長女は岩手・大船渡へ十数回支援に通った。あまり話したがらないが、ギョッとする凄惨な話も数多く聞いたらしい。外国人ボランティアたちといっしょに泥まみれ埃まみれになって活動した。ガレキの撤去、個人宅の後片付け、ドブさらい、写真整理……できることは何でもやった。外国人たちも黙々と汗を流した。All Handsの活動はいちおう終止符を打ったが、娘と彼らとの交流はfacebookなどを通して今でも続いている。

そんな中で母が死に、次女が就活に奔走し、毎日ぐちゃぐちゃになって生きてきたら、とうとう師走になってしまった。そしてこっちは来年年男になる。「まだまだ若いわよ」なんて周りのものは言ってくれるけど、身体はけっこうガタがきている。腰痛、高血圧、飛蚊症、頭のてっぺんは薄くなるわ、目はかすみ、膝がカクカクいうわ、ろくなもんじゃない。

それでも、東北の被災者の身の上に比べれば、すべて甘ちゃんの寝言みたいなもの。もういっぺん顔を洗って出直してこい、ということになる。人の一生は儚い。命なんて塵芥(ちりあくた)のように消え去ってしまう。それほど尊いものなのに、碌々(ろくろく)と為すことなく過ごしてしまった五十有余年。自分は何をするために生まれてきたのか――この齢になっても書生じみた思いに悩んでいる。












2011年12月6日火曜日

イタリアンには鍋料理を

暮れに、長女の友人たち4人がイタリアからやってくる。
8年前に留学した際の高校の同級生たちである。
国が破産寸前だというのに、わざわざ東洋の果てまで来て、
のんびり物見遊山なんぞやってていいのか、
とこっちはいささか心配になるが、来てくれるのはとても嬉しい。

サービス精神旺盛な長女は、時間の許す限りつき合ってやりたいと、
今まさにプランをあれこれ練っている。わが家でも歓迎パーティを
開く予定だから「お父さん、料理のほうはよろしくね」などと、
もう勝手に決め込んでいる。

なに、料理はすでに決まっている。真冬となれば鍋が一番だろう。
鍋といえばキノコと鶏肉をどっさり入れたきりたんぽ鍋がいい。
好きもきらいもない。四の五の言わせないのがわが家流で、
いやでも食ってもらうのだ。

イタリア人は総じて味覚の許容度が狭い。
自国の料理を世界最高と思っていて、
それ以外は「蛮人の食べもの」くらいにしか思っていないので、
なかなかやっかいな連中なのである。

「以前、お煎餅を食べさせたら、気持ち悪いって吐いちゃったもんね」
とは幾度となく彼の地を訪問している女房の憤慨の弁である。
トリノのホストファミリーには毎年Xmasプレゼントを贈っているが、
中身はほとんどチョコでコーティングされたグリコのポッキーである。
煎餅などあられの類は御法度。
ホスト家は日本の菓子というとポッキーしか食べないのだ。

「まず手始めは月島のもんじゃ焼きだね」と
長女はピッツァならぬもんじゃ焼きで攻めたてるようだ。
その後は日本の誇る各種ラーメンでガツンと一撃し、
回転寿司で目をまわらせ、父親自慢のきりたんぽ鍋でトドメを刺す。

厚かましくも長女はわが家に持ってくるべき手土産まで指定している。
クリスマス前後に食べるパネットーネという円筒形のお菓子を持ってこい、
と注文をつけているのだ。この時期、わが家はパネットーネを数種類食べる。
イタリアの店に直に注文することもあるし、日本の店で買うこともある。
このお菓子に関しては、何かと口うるさいのである。

年末、次女はアメリカのホスト家を再訪する予定であいにく留守。
イタリア語ができるのは長女とわずかに女房だけだ。
ボクは正調日本語と片言の英語でがんばるしかない。
にぎやかな年の瀬になりそうである。











2011年12月4日日曜日

半年忌

若い頃は非社交的な人間だった。
でも今は、社交的な人間だと思っている。
これはたぶん死んだ母親の血だろう。

母は人見知りというものを知らない女だった。
どんな人間とも分け隔てなくつき合うことができた。
逆に父は、非社交的人間の典型だった。
小心で神経が超のつくくらい細かった。

神経が太いというより、ほとんど神経の無かった母に
全身神経だらけの父。ボクはそんな両親のもとに生まれた。
大胆と小胆が同居し、社交家と非社交家の両面を持っている。

姉は母の遺伝子を受け継ぎ、いまでも知らない人に
ホイホイ声をかける。車内でも隣の人に突然話しかけたりする。
おまけにほとんど敬語というものを知らず、ハナから馴れなれしい
言葉づかいなので、話しかけられた人は一瞬「ギョッ」とする。
昔はよくこんなオバサンがいた。鬱陶しいけど憎めない。

ボクも姉ほどひどくはないが、そうした図々しさを持ちあわせていて、
見知らぬ人に声をかけるがごときは少しも苦ではない。
見た目がごつくて怖そうだから、相手は一瞬ひるむが、
やさしいオジサンと分かると、笑顔で応じてくれる。

若い頃は父の血が優り、四十路を過ぎてからは母の血が優っている。
どこか〝影〟のあった若い頃はうんざりするほど女にもてたが(大ウソ)、
影も日向もなくなった今となっては、もてるのは漬け物石くらいで、
それこそ見る影もない。

母が逝って半年になる。半年忌というのはついぞ聞かないが、
勝手に母を偲んでいる。母は明るくて賑やかな女だった。
叶うならもう一度母に会いたい。母の打ったうどんが食べたい。