2015年3月11日水曜日

亡き父母(ちちはは)のお導き

9日は亡父の祥月命日。毎年墓参りは欠かさないが、今年はちょうど23回忌に当たるので、
兄弟全員が集まり、簡単な食事会をしようということになった。姉の発案である。

男兄弟3人は正直、仲があまりよくない。原因はよく分からないが、次男坊の私は
兄と弟の性格に少し問題があるのではないか、と勝手に思っている。兄は弟2人を
出来損ないのロクデナシと思っているし、私は兄と弟のことをアンポンタンと思っている。
また末っ子の弟は上の兄2人を度し難い〝くるくるぱー〟と思っているのだから、
もうどうしようもない。この3人をなんとかつなぎとめているのが紅一点の姉だ。
姉は絵に描いたようなお節介おばさんだが、心根が底抜けにやさしく、
それなりに皆から慕われている。

兄弟仲はホメられたものじゃないが、それぞれの嫁さんたちとはうまくいっている。
特に実家の嫂(あによめ)には心から感謝している。母のことを死ぬまで面倒見てくれて、
兄弟が実家に帰れば、いやな顔ひとつ見せず歓待してくれる。なかなかできることじゃない。
兄は出来損ないのコンコンチキだが、すばらしい嫁さんをもらったという一点だけは
評価できる。私も同じようなことをいわれているから、実によくわかるのだ(笑)。

23回忌というが、私は「年忌」などというものを少しも信じてはいない。
坊主丸儲け」にも書いたが、年忌の実体は、バラモン教や儒教、そして神道などとの
チャンポンで、仏教とは何の関係もないのだ。

日本人の信仰心というのは非論理的といわれる。もっとも宗教そのものが論理的では
ないのだが、それなりの勝手な理屈はつけてある。戦後、GHQが日本人の意識調査を
実施して、その結果に驚いたことがある。日本人は進化論を認めていながら、
天皇が〝現人神(あらひとがみ)〟であると信じていたからだ。

そんな例だったらいくらでもある。たとえば人間は死んだらどこへ行くのか。
「天国にいるお父さんが見守ってくれている……」
日本人はよくこんなふうに言う。しかし天国というのはキリスト教の考え方であって、
神に許されたキリスト教徒の人間だけが行くところだ。ならば「極楽浄土」かというと、
そういうわけでもない。あれは阿弥陀如来の浄土のことであって、如来それぞれの
浄土は異なるのである。たとえば薬師如来の浄土は「薬師瑠璃光浄土」というところだが、
大日如来の浄土は何と呼ぶのか知らない。

いずれにしろ浄土へ行けるのは〝南無阿弥陀仏〟と念仏を唱える人たちだけで、
天台宗の私などは浄土へ行けないかもしれないし、ひょっとすると入れてもらえる
かもしれない。また〝南無妙法蓮華経〟と題目を唱える日蓮宗の宗徒は、
これまた死ぬとどこへ行くのかさっぱりわからない。いかんせん行って帰ってきた人が
いないので、実態がよく分からないし、日本人はあまり深く考えることもしないのだ。

いい加減といえばいい加減で、時には「13日の金曜日」は不吉だ、なんて言ったりする。
あるいは仏滅とか大安を気にしたりもする。現に6月に挙式を迎える私の娘も、仏滅は
避け大安吉日を選んでいる。ホンモノの仏教徒だったら、仏滅などは信じないはずだ。
あれはどっちかというと「陰陽道(おんみょうどう」の考えに近いもので、仏教とはまるで
関係ないのである。「仏」という字が入っているが、昔は「物滅」と書いたもので、
仏陀(お釈迦さま)が入滅した日という意ではない。近年になってたまたま「仏」という字が
当てられただけなのだ。だから、こうした迷信・俗信はまったく気にする必要はないのである。

この日、兄弟仲はなぜかとてもよかった。兄は相変わらず口がわるく、
人をけなすことで笑いを取るという、もっとも拙劣なるユーモア精神を発揮していたが、
私はいつものように完全無視を決め込んだ。弟とは十数年ぶりに口をきいた。
数十年ぶりに笑顔も見た。
(へーえ、こいつも笑うことがあるんだ……)
実に何とも奇妙な兄弟である。

この場の雰囲気を和らげていたのは、実家の2歳児だった。
甥っ子の長女で、実に可愛いらしい。最初はふだん見たことのないおじさんやおばさんが
いきなり顔を出したので、いくぶん怯え警戒心を露わにしていたが、30分ほど観察して、
人畜無害の人間だと分かったらしく、いつもの地なのか、歌ったり踊ったりと、
狂ったようにハシャギまくった。そこにまっ黒のフレンチブルドッグの「イクラちゃん」が
加わったものだから、もう上よ下よの大騒ぎ。リビングルームは爆笑の渦に包まれた。

Hちゃんと不細工な顔のイクラちゃん、アリガトね。
Hちゃんとイクラのおかげで、兄弟同士、久しぶりに笑い合うことができました。
兄と弟は「アホ・ボケ・カス」の三拍子揃ったアンポンタンと思っていたけど、
あれでも血の通った人間なのだ、ということが分かって、ホッとしましたよ。
これからはできるだけ仲良くつき合っていけたらいいな、と心より願っています。
あ~あ、男ってやつはほんとうにバカだねえ。




←天使のような天然パーマのHちゃん。
ズレたサングラスがよく似合ってるよ。












※追記
3.11 読売新聞で紹介されていた詩を転載させていただく。

タイトルは『最後だとわかっていたなら


2015年3月7日土曜日

座して死を待つよりは……

1995年8月15日、戦後50周年の記念式典に際して、
耄碌(もうろく)じいさんが残した「村山談話」では〝侵略〟という文言が使われている。
が、1941年12月8日の天皇陛下による「開戦の詔勅」にはこうあった。
《米英両国は、帝国の平和的通商にあらゆる妨害を加え、
ついに経済断交をあえてし、帝国の生存に重大な脅威を加う…(中略)
帝国の存立、まさに危殆(きたい)に瀕(ひん)せり……帝国は今や、自存自衛のため
蹶然(けつぜん)起(た)って、いっさいの障碍を破砕(はさい)するの外なきなり》

つまり、当時の国家意志はあくまで〝自存自衛〟であった。
開戦に先立ってアメリカでは「排日移民法」が可決。日本人移民がシャットアウトされた。
これに倣ってオーストラリアも白豪主義の立場から同調。カナダとニュージーランドも
日本人移民を拒否した。当時の日本は人口過剰で、しかもこの上なく貧乏だった。
白人諸国への移民の道が閉ざされることで、満州がいよいよ日本の生命線となった。
そしてダメを押すかのように、アメリカは仏印、中国大陸からの全面撤退と
日独伊三国同盟の破棄を求める「ハル・ノート」を突きつけてくる。

日本は絶体絶命のピンチに立たされた。「座して死を待つよりは戦って死ぬべし」
といった気運が生まれたのも当然のことだろう。東京裁判(実体は裁判という名の狂言だった
でただ1人日本の無罪を主張した(フランス代表のベルナール判事も、実は日本の無罪を一貫して
主張していた、ということを最近知りました)インドのラダ・ビノード・パール判事は、
ハル・ノート」のようなものを突きつけられたら、
モナコやルクセンブルクのような小国でも、
(ほこ)をとってアメリカに立ち向かうだろう
と述べたことはあまりにも有名だ。

パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)では、「侵略は悪」とされている。
しかしその「侵略」の定義は、「当事国の自国裁量権に任せる」とあり、
自衛の戦争はその限りではない、としてある。つまり、戦争にはその当事国同士に
それぞれの言い分があって、侵略戦争と言えば侵略戦争だし、自衛戦争と言えば
自衛戦争になってしまう。したがってイラクに攻め入ったアメリカは、自分たちの戦争を
「侵略戦争」と認めていないし、朝鮮戦争の口火を切った北朝鮮も「侵略戦争」とは
一言もいってない。

♪ああ、それなのに、それなのに……1993年、時の細川護熙首相は
《日本は侵略戦争をした》などと愚かな発言をしてしまうのである。

1951年5月3日、アメリカ上院軍事外交合同委員会において、
連合国軍最高司令官のマッカーサー将軍は、
ピッケンルーパー上院議員の質問に答えてこう言っている。
《日本には、蚕を除いては国産の資源はほとんど何もありません。
彼らには綿がなく、羊毛がなく、石油製品がなく、スズがなく、ゴムがなく、
その他にも多くの資源が欠乏しています。それらすべてのものは、
アジア海域に存在していたのです……》

《……これらの供給が断たれた場合には、日本では1000万人から1200万人の
失業者が生まれるという恐怖感がありました。したがって、彼らが戦争を始めた
目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです

太字のところの原文は以下のとおり。
Their purpose , therefore , in going to war 
was largely dictated by security.
朝鮮戦争(1950・6~)で指揮を執ったマッカーサーは、北朝鮮や中国と戦う中で、
日本という国が置かれた地政学的な困難さについて理解を深めたといわれている。
結果、大東亜戦争は《日本の自存自衛のための戦争だった》と明確に認めたのである。

私はこの「マッカーサー証言」を全国津々浦々の小中学校、高校等で教えるべき
だと思っている。日本は今もなお「侵略国家」の汚名を着せられ、巨額の賠償金を
むしり取られた。あの戦争が侵略戦争でなければ、支払う必要のない金であった。

「勝てば官軍」というが、いかな敗戦国民でも明らかに間違った
歴史認識を植えつけられるいわれはない。少なくとも自分たちだけは、
やむにやまれず蟷螂の斧を怒らし欧米列強の横暴に立ち向かったのだ、
という誇りと気概を保持していたい。

戦後70周年に当たって、支那や韓国は執拗に〝歴史戦争〟を仕掛けてくるだろう。
俗に「ウソも100回言えば真実になる」といわれている。支那人や朝鮮人が得意の
嘘八百である。そのウソを断固はね返し、歴史戦争に勝ち抜かなくてはならない。
非業の死を遂げた英霊たちのためにも、日本国の名誉を断固守らなくてはならない。
それが先人たちのおかげで平和を享受している我われの、せめてもの務めであろう。
がんばれニッポン!





←誰が呼んだか〝愛しのマック〟ことダグラス・マッカーサー将軍


2015年3月4日水曜日

たそがれおやじの横浜散歩

アル中ぎみのおじさん4匹で横浜を散策してきた。
和光市駅から横浜中華街駅までは副都心線1本で行ける。
急行でわずかに1時間。車内でおしゃべりしているうちに着いてしまう。
途中、日吉で母校KO大学を遠望したが、何の感慨もおこらなかった。

11:30に横浜・中華街着。相変わらずキンキラキンの趣味の悪さが目立つ。
支那人というのは赤色と金色がお好きなようで、街中が成金趣味の巣窟みたい
な様相を呈している。色に関しては日本人と支那人&朝鮮人はまったく趣味が
異なっていて、おそらく彼らは死んでも〝わび・さび〟なんて理解できないだろう。

まあ、そんなことはどうでもいい。
われらが目的は小籠包をつまみながら酒を飲むこと。
それも上等な紹興酒を浴びるほど飲むことだ。

案の定、〝toriaezuビール〟を飲み干したあとは、
紹興酒の瓶がどんどん空になっていった。
どいつもこいつもウワバミみたいに底が抜けているから、
いくらでも入ってしまう。これでは勘定の際に酔ってではなく、
請求額の大きさに目をまわし腰を抜かしてしまうだろう。

というわけで、ひとまず潮風に吹かれて頭を冷やそうと、山下公園に向かった。
この公園には氷川丸が繋留されている。氷川丸は1930年~1960年まで就航した
貨客船で、北太平洋航路(アメリカ・シアトル港まで)を往復した。戦時中は日本海軍
に徴用され病院船に、そして戦後は引き揚げ船として活躍した。3度機雷にふれたが
奇跡的に生還、戦後、北太平洋航路に復帰したが、昭和35年に除籍され、
博物館船として山下公園に繋留されることになった。

横浜に住む次女にこの逸話を話してやったら、
「へーえ、そうなんだ。まったく知らなかった」と驚いていた。
次女は高校2年の時にアメリカへ留学し、西海岸のシアトルでホームステイした。

そのホストファミリー夫妻が、6月に予定している次女の結婚式に
わざわざ駆けつけてくれる。
「式の前に山下公園を案内して氷川丸とシアトルとの深い関わりについて
話してあげようかな……」
と次女。それはよい考えかもしれないな。
ホストファミリーのPhilとTeresaはきっと感激するんじゃないかしら。

氷川丸を見上げながらそんな感慨にふけっていたら、すっかり酔いも冷めてしまった。
「和光に帰って飲みなおそうか?」
誰からともなく、そんな提案が出たので、
4匹のおじさんは、帰宅ラッシュの前に横浜を脱出することにした。

地元に帰ってきたら、さっそく某飲み屋へ。仲間内では〝ゲロゲロ酒場〟と呼んでいる
店なのだが、なかなかどうして、つまみなどは気が利いたものが出てくる。
そこではホッピーをゲロゲロになるまで飲み、酔余の勢いで「河岸を変えようぜ!」
ということになり、またまたハシゴすることになった。

さすがに3軒目は遠慮した。他の3匹はおぼつかない足もとながら、
何やら奇声を発しつつネオン街に消えていった。やれやれ。

それにしてもよく飲んだな。この4匹のおじさんは、そもそも適正酒量というものを
知らないのだから、ただただ呆れるばかり。あとで奥方たちにこっぴどく叱られるのは
目に見えている。♪ああ、それなのに、それなのに、チョイト……
持ったが病なんでしょうね、バカは死ななきゃ治らない、のであります。





←潮風に吹かれながら老後の生き方について
しみじみ考える酔っぱらいのおじさん。
(ああ、俺の人生っていったい……)
後方に見えるのは横浜ランドマークタワー




2015年3月1日日曜日

迷える仔羊は餓狼のエサにしよう

イスラム過激派の手で日本人人質2人が無惨にも殺された事件に関して、
1匹と99匹の羊」の話がしばしば引用されている。手元にある『新約』のマタイ伝や
ルカ伝にはこうある。
《汝らいかに思うか。100匹の羊を持てる人あらんに、もしその1匹迷わば、
99匹を山に残しおき、行きて迷えるものを尋ねぬか。もしこれを見出さば、
まことに汝らに告ぐ。迷わぬ99匹に勝りてこの1匹を喜ばん。かくのごとく、
この小さき者の1人亡ぶるは、天にいます汝らの父の御心にあらず》(マタイ伝第18章)

つまり、羊飼いは99匹の羊を残してでも迷える1匹の羊を探しに行かなくてはならない、
それが神の御心に叶った行為なのですよ、とイエスは言っている。「民間軍事会社経営」
と名乗る湯川某を救うべく、フリージャーナリストの後藤健二氏は、勇躍シリアへ
乗り込んでいった。後藤氏はプロテスタント系「日本基督教団」の熱心な信者で、
さながら迷える仔羊(湯川氏)を助け出さなくてはいけない、と強い使命感に衝き動かされ
たにちがいない。

ボクはこうした熱き信仰心と義侠心を否定するつもりはないが、
ただ血気にはやるだけの〝匹夫の勇〟は迷惑千万なんだよな
と内心思っている。「何が起こっても責任は私自身にあります」と潔いことを言ったけど、
結果的には国政をマヒさせ、国益を大きく損なってしまった。最期まで見苦しいマネをせず、
従容(しょうよう)と死んでいった後藤氏を「武士道精神の誉れ」などと持ち上げるムキもあるが、
あれだけ迷惑をかけといて、武士道精神のホマレはないでしょ。
なにとち狂ったこと言ってんだよ、とボヤきたくもなる。

ダッカ日航機ハイジャック事件(1977)では、時の福田赳夫総理は、
1人の命は地球より重い》という〝迷文句〟を残し、テロ集団・日本赤軍に対し、
身代金600万ドルを支払い、獄中メンバーの引き渡しにも応じてしまった。
とうとうテロリストと取引してしまったのだ。

一方、今回の安倍総理の対応はどうだったか。
裏でどんな取引があったか知らないが、阿倍は迷える仔羊1匹を犠牲にし、
残りの99匹を救うことを選んだ。つまり「心情倫理」より政治家の取るべき
「責任倫理」を選択したのである。

安倍総理の苦渋の決断に対して、例のごとく朝日新聞を初めとする進歩的文化人や
左翼反日メディアは「国家は自国民を保護する義務がある」などときびしく非難した。
しかしねえ、この海には人喰い鮫がウヨウヨしてるよと再三警告しているのに、
進んで飛び込んでしまう輩(やから)をシャカリキになって守ってやる必要があるのかね。

その後、杉本某とかいう目立ちがり屋のフリーカメラマンがシリアへ渡航しようとして
外務省から旅券を強制的に取りあげられてしまった。シリア行きを阻止されたこの男は、
憲法21条の「表現の自由」と同22条の「居住・移転の自由」に抵触するではないか、
とメディアの前で咆えまくった。まったく、どいつもこいつも、人の迷惑も顧みず、
勝手な理屈をほざきやがって……。

ボクは思うのだ。朝日の愛読者や進歩的文化人を気取るお調子者たち、
それに人道主義や平和主義を掲げる民主党や社民党などの坊ちゃん・嬢ちゃんは、
きっと得意の正義を振りかざし、
「99匹を犠牲にしてでも迷える1匹を救い出そうとする」だろうと。
ああ、なんと気高くも美しい精神なのだろう!

北朝鮮を「地上の楽園」と持ちあげ、中国には「ハエが一匹もいない」とヨイショしていた
朝日のシンパなら、そうした甘っちょろい「非政治的な決断」を下してしまうのではないか。
ボクはそのことを心底憂えている。
迷える1匹の仔羊を救い出そうとするのは文学や宗教の世界であって、
非情なる政治の世界とは次元が違うのである。

何度でも言う。
朝日の社説と反対のことをやっていれば日本の平和と安全は保てる》と。
現に戦後70年間、そうやって日本の安寧は保たれてきた。これは歴史的事実である。
そしてまたこの事実は、もはや〝不変の真理〟ではないのか、
と不肖私めは愚考するのであります。




←イエスの言いたいことは分かるんだけどねぇ








2015年2月23日月曜日

おもろうてやがて悲しき

若い時分は近・現代詩ばかり読んでいた。
朔太郎、中也、富永太郎、鮎川信夫、田村隆一、ランボー、マラルメ、ボードレール……
変わり種では沖縄出身の放浪詩人・山之口貘がいた。
貘さんの詩はゆる~いフンドシみたいで、ついクスリと笑ってしまうのだけれど、
どこか物悲しい。

若しも女を掴んだら

若しも女を掴んだら
丸ビルの屋上や煙突のてっぺんのような高い位置によじのぼって
大声を張りあげたいのである
つかんだ
つかんだ
つかんだあ と張りあげたいのである
掴んだ女がくたばるまで打ち振って
街の横づらめがけて投げつけたいのである
僕にも女が掴めるのであるという
たったそれだけの
人並みのことではあるのだが

貘さんは池袋駅西口にある「おもろ」という沖縄料理の店によく出没した。
おもろはボクの好きな店の一つで、2階席に上がると貘さんが手笛を吹きながら
踊っている陽気な写真が飾られている。

店の暖簾をくぐると左側にL字型のカウンター席がある。
そのカウンター席の左のどんづまりが貘さんの指定席で、
いつも静かにカラカラを傾け、泡盛を舐めるように飲んでいたという。

ボクは貘さんの温もりを感じたくて、よくその席に座らせてもらった。
貘さんがふれたであろう飴色のカウンターを愛おしげに撫でさすったこともある。
ボクの頭をガツンと一撃し、メロメロにさせた詩がこれ。

座蒲団

土の上には床がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽という
楽の上にはなんにもないのであろうか
どうぞおしきなさいとすゝめられて
楽に坐ったさびしさよ
土の世界をはるかにみおろしているように
住み馴れぬ世界がさびしいよ

突然、貘さんの話を始めたのは、本棚を整理していたら「山之口貘全集」(思潮社
がひょっこり顔を出したから。埃を落としぺらぺらめくっていたら、
なんだか急に懐かしくなって、あらかた読んでしまった。貘さんの詩を読んでいると、
どういうわけだか人恋しくなってきて、それこそ泡盛でもちびちびやりたくなってしまう。

さて、恥ずかしながらこの拙稿がブログを始めてから通算500本目に当たる。
2009年12月に始めたから、5年と2カ月。平均すると月に8本の駄文を
倦かずにアップしてきた勘定になる。何をやっても三日坊主のじいさんが、
よくまあ、続いたものである。

貘さんは池袋西口の「珊瑚」(閉店)と「おもろ」が贔屓だった。
その貘さんがこんなとぼけた詩を残している。

人の酒

飲んでうたっておどったが
翌日その店の名をきかれて
ぼくは返事にこまった
人の酒ばかりを
飲んで歩いているので
店の名などいらないのだ

ボクも貘さんのように、
できるだけ人の酒ばかりを飲み、
歌って踊って、いたずらに馬齢を重ね、
べんべんと生き長らえる覚悟であります。

日本国を愛し、朝日の新聞紙(しんぶんがみ)を憎み、
餓狼のような隣国どもとの断交を希い、
かつ死ぬほどおヒマな方は、
今後とも、倦かずにつき合ってくださいまし。
そのうち、きっといいことがあります。



←慢性的金欠病だった貘さん。
だからこそすばらしい詩が書けたんだろうな。
写真を見ると、豪壮なお屋敷に住んでいるみたいだけど、
軒先三寸を拝借して居候を決め込んでいるだけ。
貘さんは生涯お金に縁がなかった。
まるで誰かさんみたいだ。



2015年2月19日木曜日

天災歌手あらわる?

先日、NICKさんの伴奏で歌をうたった。ついでに録音もした。
ジャズっぽく歌ったのはFly Me To The MoonWhat A Wonderful Worldで、
他にはOver The Rainbowやジェームズ・テイラー&キャロル・キングの
You've Got A Friend、スティーヴィー・ワンダーのI Just Called To Say I Love You
それに中島みゆきの「時代」、ひばりの十八番「みだれ髪」などをたてつづけに歌った。

ピアノは幼少のみぎりからやってたもんで……」
というNICKさん。
(なにが〝みぎり〟だ、おにぎりみたいな顔してるくせに)、
と内心思っていたのだが、
「そうだったよね、お育ちがよかったんだものね」
と得意のおべんちゃらを連発。気持ちよく伴奏してもらうためには、
ひたすら忍従の一字。何度でも頭(こうべ)を垂れなくてはいけない。

ところがNICKさんの奥方K子ちゃんは、Fly Me To The Moonを取りあげ、
「play among the starsのstarはもっと口を大きく開けて濁らないようにするの。
私にはどうしてもstirって聞こえちゃう。それとin  other wordsだけど、wordsの
ズッがダメなのよね。ちょっと発音してみて。words、words、ウーン、まだダメだわね」
と、いやまあ、厳しいこと厳しいこと。さすがTOEIC満点だけあって、
へたな発音を耳にするとガマンできないタチらしい。

NICKさんの家はわが家から歩いて3分のところにある。
わが団地にはA棟からK棟まで全部で11棟あって、約1600世帯が住んでいる。
およそ5000人もいると、いろんな芸を持った人がいる。
もちろん英語の達人がいればフランス語やポルトガル語の達人もいる。
また医者もいれば弁護士もいるので、いざとなったら相談相手に事欠かず、
ほんとうに助かっている。

NICKさんとはかつてエレキバンドを組んでいた。
バンド名はちょっぴり自虐的なFlying Fossils(「空飛ぶ化石」の意)。
彼はキーボードで、ボクはヴォーカル&リズムギター。
他に天才肌のリードギター、後にプロになったドラマー、
そしてキレのいい低音を響かせるベースギターがいた(←全員この団地の住人です)。
ボクは技術的に一番ヘタっぴぃだったが、顔がよくて歌がうまい(←自分で言うな!)ので、
なんとかメンバーの一員に首の皮一枚でつながっていた。

NICKさんは「何でもござれ」と、どんなリクエストにも応えてくれる。
たとえド演歌でも、たちどころに合わせてくれるのだから、
さすがに「幼少のみぎりから」と豪語するだけのことはある。

歌っていてボクはしみじみ思うのだ。
(ああ、俺は歌手ではなく、なんで〝100円ライター〟なんぞになってしまったのだろう)と。
これは自慢なのだが、なんと言おう、実に惚れぼれするような声(容姿も)なのである。
(この美声だもんね、おばさんやおばあさんたちがキャーキャー騒ぐのもムリないわ)
ひとり、合点したものである。
俺ってもしかして生まれついての天才ヴォーカリストかもしれないぞ。
本気でそんなふうに思ってしまったのである。


←愛用のエレアコ。
見た目はサマになってるが、
技術的にはまだまだ未熟







そういえば先日、別の棟のIさんを前に弾き語りで「みだれ髪」を歌ったら、
Iさんは終始眼を閉じて聴いておったが(寝てたのかも)、聴き終わったら、
「ウーン……実にいい。心に沁みるとはこのことだね」
と、眼をウルウルさせておった。

本なんぞ書いてもちっとも売れず、印税なんてそれこそ目腐れ金(がねだから、
近頃は創作意欲が少しも湧かず、本よりCDを出したほうが売れるんじゃないか、
などとマジメに考えている。少なくと「きゃりーぱみゅぱみゅ」よりは数段マシだろうと
真剣に思っているのだが、レコード会社からはいまだにお声がかからない。
いったいどこに目、じゃない耳をつけてんだ!

野に遺賢なし」などというが、まだまだ〝遺賢〟は残ってまっせ。
いよいよとなったら動画サイトに投稿してみようかしら。
世界中から数百万回というアクセスがあったりして(うっとり)。




←わが〝おやじバンド〟の勇姿。
左端がNICKさんで、
中央のバンダナおじさんが
自他共に認める天才(天災?)ヴォーカリスト。
当時慶大生だったドラマーは今はプロに
なっている。この時の出演料はウン万円。
みんなで飲んじゃった








←NICKさんのかつての勇姿。
惜しい人を亡くし……
あ、いけねえ、まだ生きてた(笑)。



2015年2月15日日曜日

誕生日会は家族水入らずで

昨日はボクと長女の合同誕生日会。
同じ2月生まれで、誕生日も近いから、まとめてやっちまおう、
というわけである。場所は広尾の「ポンテ・デル・ピアット」というイタリアン。
誕生会で利用するのは2度目である。

雑誌記者をやっていた頃は、広尾や六本木界隈によく足を向けたものだが、
この歳になると、若者が多いお洒落な山の手より年寄りたちが蝟集する(笑)
下町のほうが性に合うようだ。理由は分からないが、若者より年寄りの
しゃべる日本語のほうが耳に心地よく、気持ちが落ち着くせいだろう。

広尾の駅を下りて、店に向かう途中、ある店の前で行列ができていた。
And The Friet アンド・ザ・フリット」という店で、どうやらベルギー発のフレンチフライ
の店らしい。メニューは12種類あり、6種の芋の中から好きな品種とカット法、
そしてディップソースを選ぶ。間口の狭い小さな店だが、大行列である。

また、その向かいには「油そば」の看板を出したラーメン屋があったが、
ここもまたすごい行列。スープの代わりにタレと油、酢、ラー油をからませて食べる
汁なしラーメンで、カロリーがラーメンの3分の1、塩分も2分の1だという。
ラーメン屋が百花繚乱というのは承知しているが、同じ麺でも他につけ麺があるし、
油そばもある。日本にはほんとうにいろんな店がある。

ボクは基本的に行列には並ばないようにしている。
どんなに食べたいものがあっても、行列の端に加わることはしない。
理由は「カッコわるい」からだ。なぜカッコわるいのだ、と問われても困る。
自分の中の何かが、行列に並ぶという行為を潔しとしないのだろう。

そんなことを思いながら目的の店に向かっていたら、
次女が後ろから声をかけてきた。相変わらずスレンダーで、
ちゃんと飯をたべているのかいな、とちょっぴり心配になる。
店に着くとすでに長女が待っていた。娘2人の笑顔を見ると、
なんだかホッとする。この2人がボクたちの娘でほんとうによかった、
としみじみ思う。最近、やたら感傷的になる傾向があるが、
歳を取った証拠だ。

ワインを飲みながらのコース料理。
どの一皿もなかなかどうしてけっこうな味だ。
難しい料理名があっても女房に訊けば何でも教えてくれる。
もっとも、すぐ忘れてしまうからムダな質問ではあるのだが、
フレンチとイタリアンにめっぽう強い女房がいると、
何かと便利であることはまちがいない。

この手のレストランで食事する時は、いちおう正装していく。
といってもジャケットを羽織るくらいで、下はジーンズなんてことも
よくあるのだが、女房は昔から「反ジーンズ派」で、この種の店では
ちゃんとしたズボン(今はパンツ?)をはいてくれとしつこく言う。
その剣幕に恐れをなし、昨日はしぶしぶ「おじさんズボン」をはいた。

ヨーロッパの星付きレストランを数十店取材して回った時、
たしかイタリアの3つ星レストランで食事をしていた時だが、
よれよれのジーンズにTシャツの若者が席に案内されてきた。
(なんだ、ラフなカッコウしてても店に入れてくれるじゃん……)
その光景を見た時、なんだか拍子抜けしてしまったものだが、
「じゃあ俺もやってみよう」とは思わない。やはりドレスコードがある以上、
場所柄をわきまえた服装というのも紳士のたしなみの一つだからだ。

ドルチェを食べ終わった頃、互いのプレゼント交換。
長女にはイアリング(次女の見立てです)を贈り、ボクは腰痛軽減用の
クッションと洗髪用ブラシをもらった。最近は腹筋と背筋、それに体幹を
ガンガン鍛えているから腰痛とはオサラバしたんだけどな……(と心の声
でも、ありがとうね。そのやさしい心根が嬉しいな。

こうして何か祝い事があるごとに顔を合わせてきた嶋中ファミリー。
6月になると、次女が男と(いちおう断り書きをする時代なもんでね)結婚してしまうため、
家族水入らずの食事会はこれが最後になってしまうかもしれない。
ウウウ……





←おいしい料理の数々。
ただどの皿も鳥がつまむのかというくらい
ポーションが小さいので、大食らいの
人にはやや不満かも。そんな人は帰りに
「油そば」の大盛りでも食べたらいい(笑)